ダンポポの種

備忘録です

新エースカー (昭和38年)

2007年07月07日 13時16分13秒 | 近鉄特急
『新エースカー』

車両系式:11400系
登場初年:昭和38年(1963年)
全廃車年:平成9年(1997年)
製造両数:45両(3連×15本)


 昭和36年(1961年)に颯爽と登場した10400系(旧エースカー)は、古びた旧型特急車で運行されていた「乙特急」に新風を吹き込み、乗客に喜ばれたようです。ただし、車両数の関係から、全ての乙特急を10400系でカバーするのは無理だったので、不足を補うために旧型特急車の運用も依然として残っていたようです。

 そこで、残存する旧型特急車の淘汰と、乙特急のさらなる増発を図るため、昭和38年(1963年)に11400系「エースカー」が登場しました。
 この時期、特急輸送の充実化のために、次々と新型車両が造られたのですね。当時の日本経済と同様、近鉄特急も着実に成長路線を歩んでいた頃なのだと思います。一方で、戦後の混乱期を駆け抜けてきた旧型特急車たちは、これを機に「急行・各停」用途の一般車に格下げされる運命となったのです。

 11400系「エースカー」は、昭和38年に3両編成×10編成(30両)が登場し、続いて、昭和40年に3両編成×2編成(6両)と、2両編成×3編成(6両)が増備され、10100系(新ビスタカー)と並んで当時の近鉄特急を支える大きな勢力に成長しました。10400系(旧エースカー)の量産編成と呼んでも良さそうな車両でしたが、「11400系」という新しい系式を名乗ることになりました。モーター出力や空調方式に10400系との違いがあったようなので、系式を区分するほうが良かったのかもしれません。

 10400系が4両編成を1単位としたのに対し、11400系は3両編成で1単位という仕組みでした。しかし、全ての車両に運転台を装備し、最短の2両編成から自由に車両数を調節できる、という器用さは受け継いでいました。さまざまな場面で適切な輸送力を発揮する「エースカー」の本領ですね。

 昭和40年に増備された編成のなかに、2両編成の〝短いエースカー〟が3編成含まれていたことは、私も詳しく知りませんでしたが、昭和44年に、これら2両編成に1両ずつ先頭車が付け足されており、これによって11400系は全編成が3両編成に統一されたとのことです。従って、同系の最終的な両数は、3両編成×15編成(合計45両)となりました。
 ちなみに、2両編成バージョンを3両編成化するときに造られた〝増結先頭車〟というのは、昭和44年当時に製作中だった12200系(後述)の先頭車両に準じた形状となり、本来の11400系とは異なる顔に仕上がったのが特徴です。つまり、3両編成の前と後ろとで〝顔が違った〟わけです。
 そう言われれば…、確かに、前後で顔の違う編成が走っていましたね。私も実物を見た記憶があります。

 10400系と同じように、11400系も、車両更新や内装のグレードアップを受けながら大事に使われた車両でした。後年は、中間車の運転台が撤去されて3両固定編成になったほか、前面の特急マークが字幕式の行き先表示機に改められるなど、「デビュー当時の姿とは雰囲気が変わった」と言われています。
 けれど、私が自分の目で見て記憶している11400系は、この〝後年の姿〟にほかなりません。デラックスな印象は無かったけれど、必要十分な装備を持ったシンプルな特急車でした。

 近鉄特急の車両史において、この11400系を呼ぶときは、『新エースカー』というのが一般的です。
 10400系(旧エースカー)とともに長きにわたって活躍し、平成5年(1993年)から順次引退が始まり、平成9年(1997年)までに全ての編成が姿を消しました。



(↑) 1989年4月4日、京都線の木津川鉄橋付近で写した11400系です。
  当時のことなので、
  『珍しくもない電車が走って来たな…』
  ぐらいの気持ちで写した1枚です。
  シャッタースピードが〝なってない〟ですね。

 例によって曖昧な記憶ですが…、
 11400系と2両編成の特急車を連結した「5両編成」っていうのが、当時は京都線にも走っていましたよね? あの頃は、18200系や18400系(いずれも後述)といった2両編成の特急車がたくさんありましたからね。
 大阪線では11400系と4両編成をつないだ「7両編成」も走っていたと思います。

 11400系の引退以後、近鉄特急には「3両編成で1単位」という系式がありませんから、3両・5両・7両といった〝奇数〟の両数で走る特急列車も無くなってしまいましたね。


◎画像追加

↑上の画像とまったく同じ場所での撮影。
 これも1989年の記録です。これは秋ごろだったかな。