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桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その5)

2021-05-04 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 4日(火)14時19分30秒

五番目の小見出し「足利氏に罪を着せた大日本帝国と御用歴史学者」はずいぶん刺激的な表現ですが、「御用歴史学者」に田中義成を含める桃崎説は、将来的にもあまり学界の賛同は得られないように思います。
さて、六番目「内裏焼失の真相を探る」に入ります。(p178以下)

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 繰り返すが、足利軍を放火犯だといい張れる材料は、信頼性が低い(7)の『太平記』だけだ。仮に、その記載が真実だと認めても、まだ歪曲がある。(7)が述べているのは、逃亡した後醍醐に付き従った側近たちの家に、足利軍が放火して、内裏に延焼したことだけだ。「足利軍が内裏に放火した」という理解は、『太平記』からも導けない拡大解釈である。
 「足利軍が近所に放火して内裏を延焼させた」のなら、ほぼ同罪ではないか、という反論がありそうだ。しかし、それは史実だろうか。史実かどうか、どう確認できるだろうか。
 実は、確認できる。その鍵は、奇しくも『太平記』自体にある。正確にいえば、『太平記』の改竄の歴史の中にある。問題の部分は、後の時代に改竄されていた。放火があったのは事実だが、放火された場所も、そして放火犯の名も、書き換えられていたのだ。
 現在、我々が『太平記』だと思って読んでいるテキストは"流布本"と呼ばれ、数ある『太平記』の本文の中で、一番流布したものにすぎない。軍記物はすべて、写本が作られるたびに、写す者が書きたい物語や、想定読者が読みたい物語になるよう、派手に改変(増補・削除・改作)されてゆく。軍記物は、中世の武家社会では歴史として享受されたので、享受する側の先祖の扱いには様々な注文が入る。「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」というのが大半だ。軍記物には「勢揃〔せいぞろえ〕」という、軍勢の参加者の名前をひたすら列挙するだけのパートがよくある。その戦争に(正義の側として)先祖が参戦した証拠として、子孫の名誉や就職活動に直結するので、需要があったのだ。
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いったん、ここで切ります。
俗耳に入りやすい議論ですが、『太平記』に即して考えてみると、最優先の「想定読者」と思われる足利将軍家の「先祖の扱い」はかなり悲惨で、尊氏・直義が終始一貫素晴らしい人格者として描かれているかというと、そんなことは全然ありません。
尊氏が直義を「毒殺」した話は有名ですが、「毒殺」といえば尊氏・直義の同母兄弟が後醍醐皇子で同母兄弟の恒良・成良親王を鴆毒で「毒殺」したエピソードなどは本当に陰惨で、史実ならばともなく、こんな話は明らかに捏造です。
兵藤裕己氏は『太平記』が足利将軍家にとっての「正史」だったと力説されますが、仮にそうであったら、足利家にとって不名誉なこんな記事が何故に削除されないのか。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/813ca39bbecae0e66bb100692c945ea5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eeca8d4324a187cfc7d7ae54aa597620

また、義満の父・義詮も優柔不断なろくでもない人物として描かれています。
兵藤裕己氏と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」において、呉座氏は、

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呉座 なるほど。ではこの点はどうでしょうか。『太平記』のとくに後ろのほうで室町幕府二代将軍の足利義詮は讒言に惑わされやすい凡庸な人物として描かれています。幕府草創史としてきちんとしたものを作ろうとしたら、義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか。そのあたりの原因も、やはり編纂が完成しないままだったことにあるのでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446

と兵藤氏に尋ねていますが、兵藤氏の回答は曖昧です。
桃崎氏の表現を借りれば、足利将軍家すら「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」という「注文」を『太平記』に反映させられなかった訳ですが、この客観的事実を桃崎氏はどのように考えておられるのか。
あるいは何も考えておられないのか。
また、『難太平記』も、ある意味では今川了俊にとって理想的な『太平記』像を描いた「注文」の書ですが、実際に現存する『太平記』の諸本を見ると、了俊の「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」という「注文」は一顧だにされていません。
この客観的事実を、以下同文。

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aece715a762d543f9ca38f837fcc1d9b
【中略】
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94556ec0daa839bb62c915888e3cb03f
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桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その4)

2021-05-04 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 4日(火)12時31分16秒

続きです。(p177以下)

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 『大日本史料』も、実はそうした流れの産物という側面があった。『大日本史料』は、九世紀末の宇多天皇の時代に始まって、前近代のすべてをカバーする史料集として企画されたが、時代順に作られてきたわけではない。そして最初に作られたのは六編という、まさに後醍醐天皇の建武政権樹立から始まるパートだった。そうして後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された(兵藤裕己-一九九五)。
 そうした存在意義を持つ『大日本史料』六編で、あるいは天皇に仕えるためだけに存在する宮内省が作る史料集で、忠君愛国を鼓吹する軍部が言論統制を盛大に行っていた時代に、後醍醐天皇の不祥事を包み隠さず公言できる可能性は、限りなく低い(なお、帝大は東京でも京都でも、筆禍事件で何度も教員が追放されて痛い目を見ていた)。放火で内裏が焼失するという不祥事の責任は、確たる証拠がなくても逆賊尊氏に押しつけてしまえ、と割り切られたのだろう。真実より権力への忖度を優先した、歴史の歪曲である。
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「天皇に仕えるためだけに存在する宮内省」の「だけ」に傍点が振ってあります。
いろいろ問題がある、というか、問題のない部分を探すのが難しい文章ですが、少しずつ検討してみます。
まず、「最初に作られたのは六編」と言われると、普通の人は第六編が完成ないし相当に進行してから他の編の編纂が開始されたように感じると思いますが、実際には第六編の刊行が開始された明治三十四年(1901)に第十二編の刊行も始まり、翌年には第四編も始まっていますね。

大日本史料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%96%99

また、「後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された(兵藤裕己-一九九五)」とありますが、兵藤氏の『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ、1995)を見ても、該当する記述が見当たりません。
同書で『大日本史料』に言及しているのは「第九章 歴史という物語」の「3 『南北朝時代史』の方法」ですが、念のためその内容を紹介すると、

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田中義成
 明治二十六年(一八九三)三月、『大日本編年史』の編修中止が命じられた後、帝国大学の史誌編纂掛は、事実上の休業状態に追い込まれる。
 しかし事業の中断を指示した文部大臣井上毅は、修史事業そのものの廃絶を意図していたのではなかった。【中略】
 明治二十八年四月、帝国大学史誌編纂掛は廃され、「専ら史料の編纂に当らしめ」る部局として、あらたに史料編纂掛が設置される(現在の東京大学史料編纂所の前身)。編集委員には、星野恒、三上参次、田中義成らが任命され、なかでも南北朝史料の編纂で中心的役割をになうことになるのが、田中義成であった。
 田中義成は、明治九年(一八七六)に太政官修史局の二等繕写生にやとわれて以来、重野や久米のもとで史料収集・古文書調査の実務に従事してきた人物であった。古文書調査のエキスパートであり、しかも実務家肌の田中は、従来の「方針を一変し、先ず専ら史料の編纂に当」たるのにふさわしい人材と考えられたらしい。
 史料編纂掛の発足とともに編纂委員(兼国史科助教授)に抜擢された田中は、ただちに山陰地方へおもむいて名和氏関係の史料調査を行なうなど、精力的な活動を開始している。そして明治三十四年(一九〇一)二月、『大日本史料』の最初の一冊として第六編之一(元弘三年五月~建武元年十月)を刊行し、以後みずから編纂主任となって南北朝時代(第六編)の史料編纂を担当するのである。【後略】
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といった具合で(p226以下)、田中義成が『大日本史料』を「作る目的」が「天皇礼賛」だなどと言ったはずはありません。
「最初に作られたのは六編という、まさに後醍醐天皇の建武政権樹立から始まるパートだった」ことは事実ですが、客観的に見て、別にそれは「後醍醐の精神を称揚すること」ではなく、第六編を担当した田中にとっても、第六編から刊行を始めたことで「この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された」など言われたら相当に心外、というか誹謗中傷の類として怒り心頭に発するのではないかと思います。

田中義成(1860-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E6%88%90

そもそも兵藤裕己氏は「そうして後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された」などとは言っていない訳で、桃崎氏の要約引用(?)は何がどうなっているのか私には理解不能です。
それと、桃崎氏は『大日本史料』と「その作成は大正四年(一九一五)に始まり、完成は昭和一一年(一九三六)、全巻の印刷完了は終戦前年の昭和一九年だった」『後醍醐天皇実録』とを並列させて、「『大日本史料』も、実はそうした流れの産物という側面があった」などと言われる訳ですが、桃崎氏が問題視する「後醍醐の内裏放火」に関する史料を集めた『大日本史料』「第六編之二」は「第六編之一」と同じく明治三十四年(1901)の刊行で、『後醍醐天皇実録』が完成した昭和十一年(1336)を遡ること三十五年です。
この間、日露戦争、大逆事件、明治天皇崩御、大正デモクラシー、第一次世界大戦、関東大震災、昭和恐慌、満州事変、天皇機関説事件等があった訳で、世相は次から次へと変化しています。
少なくとも明治三十四年(1901)は「忠君愛国を鼓吹する軍部が言論統制を盛大に行っていた時代」ではない訳で、昭和十年代に比べたら言論活動は遥かに自由ですね。
戦前の歴史を過度に単純化する歴史学者はそれなりにいますが、桃崎氏ほど極端なことを言う人もちょっと珍しいように感じます。
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桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その3)

2021-05-04 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 4日(火)09時26分27秒

中世史研究者の『太平記』の引用の仕方は、ほんの一昔前までは相当にいい加減で、参照に便利だからという理由で岩波の日本古典文学大系を使う人が大半でした。
兵藤裕己氏との対談、「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)において、呉座勇一氏も、

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呉座 そうですね。これは最初の話に戻るのですが、やはり歴史学は『太平記』への問題意識が低いところがあります。近年になってようやく関心を向けたところがある。実は私もそうだったのですが、論文での引用に、流布本を底本とした岩波古典文学大系『太平記』(刊行は昭和三十年代初頭)を使っている研究者が少し前まで多かったのです。
 中世前期の研究者が『平家物語』を使う意識と比べると、中世後期の専門家が『太平記』を史料として積極的に活用しようという意識はかなり弱い。流布本は江戸時代に多くの手が入っている、といった意識もあまりない。使うときは使うけれど、もともとあまり重視していないので、安易に流布本を使ってしまう、ということだと思います。
 兵藤さんの岩波文庫『太平記』を含め、こうした諸本論の議論の影響がようやく歴史学にも入ってきたところです。ただ、現在の国文学の諸本論はあまりに複雑なので(笑)、歴史学からすると、学ぼうと思っているけど少し戸惑いもある、という状態でしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/000b8c15ba63e4c4a92c0f2a09c39403

と発言されています。
1980年生まれの呉座氏が「少し前まで」と言われるくらいですから、歴史研究者が『太平記』の諸本の異同に注意を払うようになったのは本当にここ十年くらいの新傾向ですね。
それまでは「中世後期の専門家」ですら「流布本は江戸時代に多くの手が入っている、といった意識もあまりない」まま、流布本の岩波古典文学大系を平然と利用するのが当たり前だった訳です。
ま、さすがに現時点では、それではまずい、という認識が共有されているのかと思いきや、1978年生まれの桃崎氏が『太平記』のどの本かを明示しないまま引用しているのを見ると、いくら一般書とはいえ些か問題のように感じます。
ま、その点の批判は暫く措き、桃崎氏の見解をもう少し見て行きます。(176以下)

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 しかし、『太平記』は軍記物、つまり本質的に文芸作品であり、それらは読み手が面白がるような演出と筋書きを最優先して、史実を曲げたり創作したりすることが多い(特に、出来事の日付や前後関係を操作して、筋書を改変することが多い)。かつての『平家物語』なども同類なのだが、軍記物に書かれた情報は、ほかの確かな記録と突き合わせて、裏づけが取れて初めて史実と認定できる。その手続きを怠ったり、裏づけが取れないことを無視したりして、軍記物だけに書かれた情報を、鵜呑みにして史実だと見なすことはできない。それが歴史学の常識であり、歴史学用語で"史料批判〔テクスト・クリティーク〕"という不可欠の手続きである。
 普通、大学に入って史学科に配属された大学生は、まず徹底してこの"史料批判"の考え方を叩き込まれ、これを理解・納得できない者は先に進めないようになっている。東京帝国大学史料編纂所や宮内省(編纂当時)のような最高学府や政府機関が、最高水準の歴史学者を動員して編纂した史料集が、まさかそのレベルのミスを犯すとは信じがたい。
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ここまでは特に変なところは見当たりません。
強いて言えば、「大学に入って史学科に配属」という表現にはかなり違和感を覚えます。
「配属」というと、新入社員を経理部に「配属」した、みたいに組織の都合で人員配置を決めたような印象を受けるのですが、桃崎氏の母校である慶応大学の事情は知らないものの、普通の大学の「史学科」の学生さんは自ら希望して「史学科」に進学するはずですから「配属」はないんじゃないですかね。
ま、それはともかく、この先は事実の認識として少し変なところがあります。

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 ここで、一方の『後醍醐天皇実録』を含む歴代天皇の『実録』が、宮内省によって作られたことが、大きなヒントとなる。その作成は大正四年(一九一五)に始まり、完成は昭和一一年(一九三六)、全巻の印刷完了は終戦前年の昭和一九年だった。その時代、天皇は絶対の正義とされ、後醍醐天皇は悪の鎌倉幕府から天皇権威を取り戻すために戦った中興の英主、足利尊氏はそれに逆らった極悪非道の逆賊と見なされた。異論は許されず、少しでも尊氏に同情すれば、大臣の首さえ飛ぶ時代だった(昭和九年、商工大臣の中島久万吉が、それを理由に軍部の圧力で辞任に追い込まれた〔佐藤進一-一九六五〕。
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「宮内省によって作られた」には傍点が振ってあります。
まあ、新聞や雑誌にはこのレベルの見解が溢れていますが、中島久万吉の件だけ見ても戦前の歴史の過度の単純化と言わざるをえず、仮にも大学教授(高千穂大学商学部教授)の文章としてこれで良いのかな、と感じます。
桃崎氏が出典とする佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)を見ると、中島久万吉に直接の圧力をかけたのは貴族院議員の男爵・菊池武夫と子爵・三室戸敬光であり、二人の議会での発言は過激な語彙・文体が「原理日本社」の蓑田胸喜にそっくりです。
「原理日本社」は書籍の大量購入などの形で陸軍の経済的支援を得ていたようですが、別に軍部と一体化している訳ではなく、昭和十年代後半にはむしろ軍部から切り捨てられています。
「原理日本社」と直接の交流があった菊池・三室戸も、あくまで帝国議会という民主的装置の一員であって、彼らが議会での演説という民主的な方法で中島を辞任させたことを「軍部の圧力で辞任に追い込まれた」とまとめるのは乱暴です。
ちなみに蓑田胸喜は慶応大学とそれなりに密接な関係がありますが、だからといって「慶応大学の圧力で(中島久万吉が)辞任に追い込まれた」と言えないのはもちろんで、過度の単純化を避けるべしという観点からは軍部も慶応大学も五十歩百歩ですね。
この後の叙述を見ても、桃崎氏が戦前の歴史をあまりに単純化しているのが気になります。

蓑田胸喜と慶応人脈(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f4885843c27f380779da3d212f7cecf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3889344aa4200da90442b8d4393951c5
『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88faf49681e23ddecf2f87e07df96b9d
蓑田胸喜は原理日本社の「機関」なりや?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad57ba538f910d2fb4401446654b8602
原理日本社と慶応大学を繋ぐもの
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6afdb88d6c04fe2a676983fef053d9e
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