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学問空間

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平山昇『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』

2019-08-04 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月 4日(日)22時33分53秒

山口照臣編『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』(山川出版社、2018)を通読してみました。

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「国家神道」を、戦後日本の政治史・宗教史・社会運動史など幅広い分野から議論し、今後の研究の基盤となる方向性を示す。
2017年史学会大会シンポジウムをもとに編集。充実した附録も収載。

https://www.yamakawa.co.jp/product/52367

山川のサイトはずいぶん不親切で、目次すらありませんが、論文執筆者が山口照臣・藤田大誠・苅部直・昆野信幸・須賀博志・谷川穣氏の六名、コラム執筆者十名という充実した内容です。
私自身はこれら諸氏の研究とはそれほど接点を持たず、独自に少しずつ「国家神道」について勉強してきたのですが、自分の方向性は基本的に正しかったなと確認できました。
論文の中で特に重要と思われたのは須賀博志氏(京都産業大学法学部教授)の「戦後憲法学における「国家神道」像の形成」で、後で内容を紹介したいと思います。
また、コラムの中では平山昇氏の「初詣と「国家神道」─明治神宮は入っているか」(p200以下)が面白かったので、同氏の『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』(東京大学出版会、2015)も通読してみたところ、予想していた以上に興味深い内容でした。

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毎年多くの人が訪れる初詣.その起源と展開をめぐる体系的な初めての研究書.国家による庶民へのイデオロギー注入政策として形成されたのではなく,近世の恵方詣を淵源に,鉄道の集客政策もともなって庶民に広まった後,知識人が影響を受けて,さらに「国民的行事」として定着したその歴史を探る.

http://www.utp.or.jp/book/b307129.html

実は私、同書の評判が高いことは知っていたのですが、ホブズボウム流の「創られた伝統」云々は些か食傷気味の感があって、手を出さずにいました。
しかし、実際に読んでみたところ、単に初詣の「伝統」が新しく創造された点の解明だけでなく、その「伝統」が存続・発展して行く仕組みの分析が丁寧で、説得力がありますね。
「序章 「国民的行事」はいかにして誕生し、持続しえたのか」から少し引用してみると、

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 近世後期から明治前半の日本は儒学的教養が最も浸透した時期であった。まず近世後期に、当時の知識人の主体であった儒者や武士のなかで思考の脱呪術化と非宗教化が進行し、彼らは宗教的なものを「愚民」向けのものであると見なした。当然、彼らは寺社参詣とは疎遠であった。それゆえ、一八一〇年代に囚われて日本に滞在したゴローヴニンが「寺社なんかに一度も詣ったことはないといったり、宗教上の儀式を嘲笑したりして、それをいくらか自慢にしている」武士階級のことを書き留め、またあるいは、幕末に日本を訪れた英国人が箱館(現、函館)の寺院で「役人とか地位のある男性の姿はめったに見られ」ないことを観察したように、西洋から日本にやってきた人々が日本の知識人層の宗教に対する冷淡な態度について記した事例は枚挙にいとまがない。【中略】
 明治の後半になると、近代的な教育制度のもとで高等教育レベルの学歴を獲得した知識人が徐々に活躍の領域を広げていき、明治二〇年前後に生れた人々が最終学歴を修了して社会で活躍するころまでには日本の知識人の主体は学歴エリートたちが占めるようになるが、この人々もまた社寺参詣とは疎遠な人々であった。【中略】
 このように、近世以来明治末期に至るまで、日本の知識人は時期によってその中身を変化させながらも、おおむね社寺参詣とは疎遠な存在であった。したがって、初詣があらゆる国民階層を取り込んだナショナルな行事へと変容する過程を理解するために、第二部・第三部では庶民の娯楽行事であった初詣がいかにして知識人へと波及していったのか(逆にいえば、知識人はどのような回路を経て初詣に参入することになったのか)という問題を検討していきたい。
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といった具合ですが(p6以下)、「近世後期から明治前半の日本は儒学的教養が最も浸透した時期であった」に付された注13を見ると渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、1997)であり、また、「彼らは宗教的なものを「愚民」向けのものであると見なした」に付された注14を見ると、同じく渡辺浩氏の「「教」と陰謀─「国体」の一起源」(渡辺浩・朴忠錫編『韓国・日本・「西洋」』(慶應義塾大学出版会、2005)であって、私の関心と重なります。
そこで、同書を少しだけ検討してみたいと思います。
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