第156回配信です。
一、前回配信の補足
「太史の官」エピソードについて、亀田俊和氏より、これはそもそも創作で、漢籍にはない話とのご教示あり。
斉の話を唐の出来事に改変したことが江戸時代の『太平記鈔』で考証されていて、兵藤氏もその旨を岩波文庫に注記されているとのこと。
また、玄宗は兄ではなく息子の后を自分のものとしている。
従って、『太平記』の作者には、事実をありのままに正確に書き残そう、といった高尚な目的は全くなかったのではないか、とのこと。
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)〔2020-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
「太史の官」エピソードについて、亀田俊和氏より、これはそもそも創作で、漢籍にはない話とのご教示あり。
斉の話を唐の出来事に改変したことが江戸時代の『太平記鈔』で考証されていて、兵藤氏もその旨を岩波文庫に注記されているとのこと。
また、玄宗は兄ではなく息子の后を自分のものとしている。
従って、『太平記』の作者には、事実をありのままに正確に書き残そう、といった高尚な目的は全くなかったのではないか、とのこと。
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)〔2020-10-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
兵藤裕己校注『太平記(五)』p381以下
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また、忠臣の君を諫め、世を扶〔たす〕けんとする振る舞ひを聞くに、皆〔みな〕今の朝廷の臣に似ず。唐の玄宗皇帝に、兄弟二人おはしましけり。兄の宮をば、寧王と申し、御弟をば、玄宗と申しける。玄宗、位に即かせ給ひて、色を好む御意〔おんこころ〕深かりければ、天下に勅〔みことのり〕を下して、容色の妙なる美人を求め給ひしに、後宮三千の顔色、われもわれもと金翠〔きんすい〕を飾りしかども、天子、二度と御眸〔まなじり〕を廻らされず。ここに、弘農の楊玄琰〔ようげんえん〕が娘に、楊妃と云ふ美人あり。養はれて深宮にあれば、人未だこれを知らず。天の生〔な〕せる麗しき貌〔かたち〕なれば、更に人の類ひとは見えざりけり。或る人これを媒〔なかだち〕して、寧王の宮へ参らせけるを、玄宗、聞こし召して、高力士と云ひける将軍を差し遣はして、道より奪ひ取つて、後宮へぞ冊〔かしず〕き入れ奉りける。
寧王、限りなく本意〔ほい〕なき事に思し召されけれども、御弟ながら、時の天子とて振る舞はせ給ふ事なれば、力及ばせ給はず。【中略】
それ天子の傍らには、太史の官(255)とて、八人の臣下、長時に伺候して、君の御振る舞ひを善悪に就けて註〔しる〕し留め、官庫に収むる慣ひなり。この記録をば、天子も御覧ぜられず、傍〔かた〕への人にも見せず、ただ史書に書き置て、先王の是非を後王の誡めに備ふる者なり。玄宗皇帝、今寧王の夫人を奪ひ取り給へる事、いかさま史書に註されぬと思し召されければ、ひそかに官庫を開かせて、太史の官が註す処を御覧ずるに、はたしてこの事ありのままに註し付けたり。玄宗、大きに逆鱗あつて、この記を引き破つて棄てられ、史官を召し出だして、首をぞ刎〔は〕ねられける。【後略】
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255 史官(記録を司る官)の長。以下の唐の太史の話は、斉の太史の話をもとにするという(太平記鈔)。斉の棠公の未亡人を手に入れた崔杼が、未亡人と通じた荘公を殺した。斉の太史がそれを記録すると、崔杼は太史を殺し、次にその弟が記録すると弟も殺した。さらにその弟が同様に記録したとき、崔杼はこれを許した(史記・斉太公世家)。
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崔杼(?‐紀元前546)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%9D%BC
楊貴妃(719‐756)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E5%A6%83
二、兵藤・呉座対談の続き
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その13)~(その17)〔2020-10-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7928e07a520ead1400b0094a5b3d5d21
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c29e1413d1cd4d272f935b24c4fa5cf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63132f0b57a404768dfb1b07b436cd82
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/103e93a6e450f73e5693a88e8226c963
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
『太平記』を読んだことがなく、ただの印象にすぎないのですが、「太史の官」の話は、後醍醐を玄宗になぞらえたただの諷刺ではないですか。斉では古臭くて面白味に欠けるので、白居易の『長恨歌』を踏まえ、好色な後醍醐を玄宗になぞらえたもので(同時に、阿野廉子を楊貴妃に擬すことになる)、あの時代の識者は、この話は後醍醐と三位内侍への揶揄だな、という認識を共有できたのではないですか。
兵藤・呉座両氏は、『太平記』の重層性・多義性というけれども、構造主義的マルクス主義者ルイ・アルチュセールにならえば、 シュルデテルミナシオン(surdétermination:重層的決定)のことですね。