第289回配信です。
桃崎有一郎氏が『玉葉』の建久元年(1190)十一月九日条の僅かな文章だけを取り上げて論じているのに対し、坂口太郎氏が同日条の関連部分全体を丁寧に紹介しているのは研究者として堅実な態度。
坂口氏は「逆罪」について辞書の用例を調べ、仏教的用法と非仏教的用法の二つがあることを確認した上で、
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『保元物語 金刀比羅宮本』は、この事実にもとづき、我が子に斬られる運命を嘆きつつも、「逆罪」を犯す義朝の救済を仏神に祈る、老父為義の悲哀を描くのである。
これに鑑みれば、頼朝が語った「義朝の逆罪、是れ王命を恐るに依てなり」とは、父義朝が後白河天皇の勅命を受けて祖父為義を斬った、保元元年の一件を指すことは疑いない。つまり義朝の「逆罪」は、平治の乱における義朝の挙兵(三条殿襲撃)と何ら関係がないのであり、桃崎氏の失考は明らかである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7441a29dafede740bcd85cf203e42465
とされる。
しかし、『保元物語』は、古本系であっても承久の乱後の成立と考えるのが現在の通説。
資料:『保元物語』の成立時期〔2025-04-20〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c83c902b79d1eb05c9d2cb7ee966062e
また、『保元物語』に創作的要素が多分に含まれていることも明らか。
坂口氏自身が、
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そもそも、為義と義朝は、保元の乱以前から激しく対立しており、それには「トシゴロ、コノ父ノ中ヨカラズ。子細ドモコトナガシ」(『愚管抄』巻第4)と評されるような、複雑な事情があった。ゆえに、保元の乱における父子激突は必至の出来事であったが、【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23749dbf601187c3fb80c0b057f7ea10
と認めているように、為義・義朝父子間の対立・憎悪は凄まじいもので、「我が子に斬られる運命を嘆きつつも、「逆罪」を犯す義朝の救済を仏神に祈る、老父為義の悲哀」は仏教的脚色に満ちた創作と考えるのが自然。
『玉葉』の建久元年十一月九日条の記載は、遥か後になって成立した歴史物語によってではなく、当時の客観的政治情勢に即して解釈されねばならない。
二、建久元年(1190)における源頼朝と九条兼実の関係
資料:川合康氏「在京中の頼朝」〔2025-04-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf9fb531a885609efcff6655682fe5c0
主上を根競に置き換えれば、教皇フランシスコの死後、ミケランジェロのフレスコ画で荘厳されたシスティーナ礼拝堂でのコンクラーベに臨む枢機卿たちの心理になりますね。