投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月18日(月)12時23分26秒
続きです。(p284)
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次に倉栖氏と下河辺庄に進出した唯善与同位の真宗門徒との関係をみていくことにしよう。鎌倉後期、真宗教団に大きな亀裂を生じさせることとなった唯善事件は、親鸞の娘覚信尼が東国門徒の付託を受けて管理する大谷廟堂留守職を、先夫日野広綱との子覚恵と後夫小野宮禅念との子唯善のいずれに譲るかという後継争いである。覚信尼は大谷廟堂留守職を覚恵に譲ったが、この敷地はもともと小野宮禅念の所有であっただけに、唯善は大谷廟堂留守職を競望し、実力行使に出て覚如とその家族を退去させた。それに対し、覚恵の子覚如は訴訟を起こして延慶二年(一三〇九)に勝訴して大谷廟堂を取り戻した。一方、敗訴した唯善は鎌倉に下向して常葉を新たな拠点として活動を始めた。この間、唯善は嘉元元年(一三〇三)に鎌倉幕府が「専修念仏停廃事」の沙汰を定めたことに対し、横曾根門徒木針智信をはじめとした関東の門徒から多くの勧進を集めて沙汰撤回を求める働きかけを幕府に行い、成功している。それによって唯善に対する東国門徒の評価は高まり、「唯善与同位也」といわれる支持勢力が形成されていった。その中核にいた親鸞の弟子性信が下総国横曾根・飯沼を中心に教線を拡げた横曾根門徒で、それ故に本願寺側の史料には横曾根門徒の記述が少ないと考えられている。
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親鸞の末娘・覚信尼(1224-83)は日野広綱との間に覚恵(1239-1307)、小野宮禅念との間に唯善(1266-1317)を生み、この二十七歳違いの異父兄弟が大谷廟堂留守職をめぐって壮絶な相続争いを展開した訳ですね。
訴訟では、最終的には覚恵の息子の覚如(1270-1351)が勝利しますが、覚恵・覚如側の弱みは、大谷廟堂の敷地(「大谷北地」)が元々は唯善の父・小野宮禅念の所有だったことです。
小野宮禅念は正嘉二年(1258)に「大谷北地」を「平氏女」から購入し、文永九年(1272)頃、その地に大谷廟堂が建立されます。
そして禅念は文永十一年(1274)、当該土地を覚信尼に譲り、翌年に死去しますが、禅念の譲状には、覚信尼がその土地を「一名丸」(唯善)に譲るかどうかは覚信尼の意思に任せる、とあって、後日の紛争の火種を残した訳ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p284以下)
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唯善事件によって大谷廟堂との関係を絶って鎌倉に下向した唯善は、その後、大谷廟堂に拠る人々から「永削当流号了」という扱いを受けた。しかし、鎌倉の常葉に新たな拠点を構えた唯善が「ソノアトマコニ善宗シモヲサノクニシモカウヘ」(『親鸞上人門徒交名牒<京都光薗院本>』)というように孫の善宗を下河辺庄に移して東国の真宗門徒との結び付きを強めたため、大谷廟堂による人々と唯善与同位の人々との亀裂は次第に深まっていったとみられる。この段階では、大谷廟堂による人々には親鸞墓所を守護するという大義名分があったが、鎌倉に拠点を移した唯善の側にも「親鸞影像」を守護するという主張があった。東国門徒が「親鸞影像」を守護し、また鎌倉幕府の念仏弾圧令を撤回させた唯善を正統な後継者とみなして支持していくのは自然な流れであったかもしれない。その唯善支持派の人々の痕跡と考えることのできるものが、下河辺庄野方の中戸山常敬寺(千葉県野田市)所蔵の親鸞上人像である。初期真宗教団の分布をみると、「シモオサタカヤナキ(下総国下河辺庄高柳郷<埼玉県栗橋町>)」の入願や下河辺庄川辺の西光寺(埼玉県吉川市)を建立した野田西念のように、下河辺庄内への教線の広がりを伝えるものがある。倉栖氏が関東に展開した初期真宗の外護者となったのは、下河辺庄に下向して支持者を固めていった善宗とその門流に入っていった人々との関係からとみてよいであろう。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
倉栖氏と下河辺庄との関係は第二節に詳しく述べられていますが、「北条氏一門の金沢氏が下河辺庄地頭職を獲得したのは、北条実時の時代」(p276)で、宝治合戦(1247)が契機だったようですね。
倉栖氏が金沢氏の被官となったのも同時期と考えられていて、「倉栖兼雄の所領として確認できるのが、下河辺庄築地郷地頭代職(埼玉県松伏町)である(金文五三二九号)」とのことです(p277)。
さて、続きです。(p285)
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繰り返しになるが、大谷廟堂を守り抜いた覚如と、鎌倉の常葉に新たな拠点を構え、下河辺庄に孫を送り込んで楔を打ち込んだ唯善が袂を分かった段階では、どちらが正統でどちらが異端だとはまだいえない状態にある。この事実を確認すると、本願寺を中心とした宗教史としての真宗史の枠組みを越えた中世東国真宗史の構想が可能になり、その重要拠点として下河辺庄のもつ意味の重要性が明らかになってくる。本願寺の側が提供する本願寺を正統として記された文脈の中から、本願寺と対立した人々の歴史を復元するためには、ある種の技法のもとにテキスト・リーディングの熟練が必要なことは事実であるが、慣れてしまえばそれほど難しいことではないであろう。筆者は倉栖氏に関する史料の収集の過程でこの問題と出会ったが、鎌倉の常葉と下河辺庄に拠点を置いた唯善一派を異端として排斥した宗派史の壁を越えて中世東国真宗史を再構築する作業は、まだ端緒についたばかりである。
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ということで、第四節はこれで全部です。
私自身はもともと浄土真宗に全く興味がなく、ただ、後深草院二条が平頼綱息の飯沼助宗とずいぶん親しく交流していた(と本人が語っている)ことから平頼綱の宗教関係の事績を調べ始め、意外にも平頼綱が浄土真宗の後援者だったらしいという話を知り、峰岸論文等を読むまでに深入りしてしまいました。
ただ、何か新しい知見を得ることが出来そうな手がかりはなく、旧サイト時代以降、手詰まり状態が続いていた訳ですが、二年前に唯善が後深草院二条の父・中院雅忠の猶子であったことを知り、今回、倉栖兼雄と唯善にもそれなりの縁があったことを知ったので、若干の進展があったと感じています。
その点、次の投稿で纏めておきたいと思います。
続きです。(p284)
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次に倉栖氏と下河辺庄に進出した唯善与同位の真宗門徒との関係をみていくことにしよう。鎌倉後期、真宗教団に大きな亀裂を生じさせることとなった唯善事件は、親鸞の娘覚信尼が東国門徒の付託を受けて管理する大谷廟堂留守職を、先夫日野広綱との子覚恵と後夫小野宮禅念との子唯善のいずれに譲るかという後継争いである。覚信尼は大谷廟堂留守職を覚恵に譲ったが、この敷地はもともと小野宮禅念の所有であっただけに、唯善は大谷廟堂留守職を競望し、実力行使に出て覚如とその家族を退去させた。それに対し、覚恵の子覚如は訴訟を起こして延慶二年(一三〇九)に勝訴して大谷廟堂を取り戻した。一方、敗訴した唯善は鎌倉に下向して常葉を新たな拠点として活動を始めた。この間、唯善は嘉元元年(一三〇三)に鎌倉幕府が「専修念仏停廃事」の沙汰を定めたことに対し、横曾根門徒木針智信をはじめとした関東の門徒から多くの勧進を集めて沙汰撤回を求める働きかけを幕府に行い、成功している。それによって唯善に対する東国門徒の評価は高まり、「唯善与同位也」といわれる支持勢力が形成されていった。その中核にいた親鸞の弟子性信が下総国横曾根・飯沼を中心に教線を拡げた横曾根門徒で、それ故に本願寺側の史料には横曾根門徒の記述が少ないと考えられている。
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親鸞の末娘・覚信尼(1224-83)は日野広綱との間に覚恵(1239-1307)、小野宮禅念との間に唯善(1266-1317)を生み、この二十七歳違いの異父兄弟が大谷廟堂留守職をめぐって壮絶な相続争いを展開した訳ですね。
訴訟では、最終的には覚恵の息子の覚如(1270-1351)が勝利しますが、覚恵・覚如側の弱みは、大谷廟堂の敷地(「大谷北地」)が元々は唯善の父・小野宮禅念の所有だったことです。
小野宮禅念は正嘉二年(1258)に「大谷北地」を「平氏女」から購入し、文永九年(1272)頃、その地に大谷廟堂が建立されます。
そして禅念は文永十一年(1274)、当該土地を覚信尼に譲り、翌年に死去しますが、禅念の譲状には、覚信尼がその土地を「一名丸」(唯善)に譲るかどうかは覚信尼の意思に任せる、とあって、後日の紛争の火種を残した訳ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p284以下)
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唯善事件によって大谷廟堂との関係を絶って鎌倉に下向した唯善は、その後、大谷廟堂に拠る人々から「永削当流号了」という扱いを受けた。しかし、鎌倉の常葉に新たな拠点を構えた唯善が「ソノアトマコニ善宗シモヲサノクニシモカウヘ」(『親鸞上人門徒交名牒<京都光薗院本>』)というように孫の善宗を下河辺庄に移して東国の真宗門徒との結び付きを強めたため、大谷廟堂による人々と唯善与同位の人々との亀裂は次第に深まっていったとみられる。この段階では、大谷廟堂による人々には親鸞墓所を守護するという大義名分があったが、鎌倉に拠点を移した唯善の側にも「親鸞影像」を守護するという主張があった。東国門徒が「親鸞影像」を守護し、また鎌倉幕府の念仏弾圧令を撤回させた唯善を正統な後継者とみなして支持していくのは自然な流れであったかもしれない。その唯善支持派の人々の痕跡と考えることのできるものが、下河辺庄野方の中戸山常敬寺(千葉県野田市)所蔵の親鸞上人像である。初期真宗教団の分布をみると、「シモオサタカヤナキ(下総国下河辺庄高柳郷<埼玉県栗橋町>)」の入願や下河辺庄川辺の西光寺(埼玉県吉川市)を建立した野田西念のように、下河辺庄内への教線の広がりを伝えるものがある。倉栖氏が関東に展開した初期真宗の外護者となったのは、下河辺庄に下向して支持者を固めていった善宗とその門流に入っていった人々との関係からとみてよいであろう。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
倉栖氏と下河辺庄との関係は第二節に詳しく述べられていますが、「北条氏一門の金沢氏が下河辺庄地頭職を獲得したのは、北条実時の時代」(p276)で、宝治合戦(1247)が契機だったようですね。
倉栖氏が金沢氏の被官となったのも同時期と考えられていて、「倉栖兼雄の所領として確認できるのが、下河辺庄築地郷地頭代職(埼玉県松伏町)である(金文五三二九号)」とのことです(p277)。
さて、続きです。(p285)
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繰り返しになるが、大谷廟堂を守り抜いた覚如と、鎌倉の常葉に新たな拠点を構え、下河辺庄に孫を送り込んで楔を打ち込んだ唯善が袂を分かった段階では、どちらが正統でどちらが異端だとはまだいえない状態にある。この事実を確認すると、本願寺を中心とした宗教史としての真宗史の枠組みを越えた中世東国真宗史の構想が可能になり、その重要拠点として下河辺庄のもつ意味の重要性が明らかになってくる。本願寺の側が提供する本願寺を正統として記された文脈の中から、本願寺と対立した人々の歴史を復元するためには、ある種の技法のもとにテキスト・リーディングの熟練が必要なことは事実であるが、慣れてしまえばそれほど難しいことではないであろう。筆者は倉栖氏に関する史料の収集の過程でこの問題と出会ったが、鎌倉の常葉と下河辺庄に拠点を置いた唯善一派を異端として排斥した宗派史の壁を越えて中世東国真宗史を再構築する作業は、まだ端緒についたばかりである。
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ということで、第四節はこれで全部です。
私自身はもともと浄土真宗に全く興味がなく、ただ、後深草院二条が平頼綱息の飯沼助宗とずいぶん親しく交流していた(と本人が語っている)ことから平頼綱の宗教関係の事績を調べ始め、意外にも平頼綱が浄土真宗の後援者だったらしいという話を知り、峰岸論文等を読むまでに深入りしてしまいました。
ただ、何か新しい知見を得ることが出来そうな手がかりはなく、旧サイト時代以降、手詰まり状態が続いていた訳ですが、二年前に唯善が後深草院二条の父・中院雅忠の猶子であったことを知り、今回、倉栖兼雄と唯善にもそれなりの縁があったことを知ったので、若干の進展があったと感じています。
その点、次の投稿で纏めておきたいと思います。
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