投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月19日(金)07時48分37秒
小川剛生氏の「即位灌頂と摂関家」は、
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第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂
一 はじめに
ニ ニ神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに
第二節 室町期の即位灌頂
一 はじめに
ニ 二条良基の後継者たち
三 東山御文庫蔵「後福照院関白消息 即位秘密事」について
四 二条家の印明説
五 一条家の印明説
六 王家の対応
七 おわりに
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と構成されていますが、一番最後の部分を紹介してみます。(『二条良基研究』p193以下)
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七 おわりに
(前略)
五摂家分立(建長四・一二五二年)以後、摂政・関白には五家の当主が順番に就くことが流例となった。在職年数は当然短くなり、中世における平均値は四年に満たない(一七一頁参照)。院・天皇にとり執柄の存在感は軽くなっていかざるを得ないが、それでも即位式や大嘗会の申沙汰をした執柄は、自らに王としての聖性を付与する存在にさえ擬されて、精神的には終生頭の上がらない存在であり続けたと思われる。即位灌頂とは特に関係なく執柄を指して「天下御師範」とする表現が見受けられるが(一六六頁参照)、それはこのような関係を踏まえているものであろう。そして良基以下二条家の執柄の権勢もここに根ざしていた。
摂関家の印明説は寺家即位法から派生したものであるが、複雑な体系を有する寺家即位法に較べれば、その内容は誠に簡略で、衰弱した一末流にしか過ぎないであろう。秘事・秘訣として相伝されるものが存外に常識的な事柄に属することは、例えば古今伝授や源氏物語の難義などを追尋した結果、よく経験させられる。二条良基は、そのような「秘説」が備える力をよく知っていた人物であった。応永度の即位式に於ける、良基の子孫間の総論と、王家の冷静な対応は、逆に生前の良基が北朝の王権をいかに呪縛していたかを窺わせる。
即位儀礼としての即位灌頂は、摂関家が独立した権門たり得る政治力を喪失し、王権に寄生していくことを選択した後に生じたものであった。思想史的に見れば、兼実・慈円・道家ら九条家の初期の人々には、自己の存在と責務について、深く観念する傾向が強かったように思われる。そのテキストとして玉葉以下の家記が相伝され、愚管抄も九条流の執柄たちに享受されたが、彼らの思想は二条家の人々によって異様な果実を結んだのであった。一条家に続いて、戦国期になると、近衛家や九条家にも即位灌頂への関心が生じてくる。このような思考が、中世を通じて摂関家の存在意義を絶えず見出し、主張する原動力となったのである。
小川剛生氏の「即位灌頂と摂関家」は、
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第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂
一 はじめに
ニ ニ神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに
第二節 室町期の即位灌頂
一 はじめに
ニ 二条良基の後継者たち
三 東山御文庫蔵「後福照院関白消息 即位秘密事」について
四 二条家の印明説
五 一条家の印明説
六 王家の対応
七 おわりに
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と構成されていますが、一番最後の部分を紹介してみます。(『二条良基研究』p193以下)
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七 おわりに
(前略)
五摂家分立(建長四・一二五二年)以後、摂政・関白には五家の当主が順番に就くことが流例となった。在職年数は当然短くなり、中世における平均値は四年に満たない(一七一頁参照)。院・天皇にとり執柄の存在感は軽くなっていかざるを得ないが、それでも即位式や大嘗会の申沙汰をした執柄は、自らに王としての聖性を付与する存在にさえ擬されて、精神的には終生頭の上がらない存在であり続けたと思われる。即位灌頂とは特に関係なく執柄を指して「天下御師範」とする表現が見受けられるが(一六六頁参照)、それはこのような関係を踏まえているものであろう。そして良基以下二条家の執柄の権勢もここに根ざしていた。
摂関家の印明説は寺家即位法から派生したものであるが、複雑な体系を有する寺家即位法に較べれば、その内容は誠に簡略で、衰弱した一末流にしか過ぎないであろう。秘事・秘訣として相伝されるものが存外に常識的な事柄に属することは、例えば古今伝授や源氏物語の難義などを追尋した結果、よく経験させられる。二条良基は、そのような「秘説」が備える力をよく知っていた人物であった。応永度の即位式に於ける、良基の子孫間の総論と、王家の冷静な対応は、逆に生前の良基が北朝の王権をいかに呪縛していたかを窺わせる。
即位儀礼としての即位灌頂は、摂関家が独立した権門たり得る政治力を喪失し、王権に寄生していくことを選択した後に生じたものであった。思想史的に見れば、兼実・慈円・道家ら九条家の初期の人々には、自己の存在と責務について、深く観念する傾向が強かったように思われる。そのテキストとして玉葉以下の家記が相伝され、愚管抄も九条流の執柄たちに享受されたが、彼らの思想は二条家の人々によって異様な果実を結んだのであった。一条家に続いて、戦国期になると、近衛家や九条家にも即位灌頂への関心が生じてくる。このような思考が、中世を通じて摂関家の存在意義を絶えず見出し、主張する原動力となったのである。
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