投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月15日(日)10時06分12秒
尊氏奏状は『太平記』に描かれているような義貞を一方的に非難するものではなく、戦争を止められるのは後醍醐だけというギリギリの段階で、勅撰歌人である尊氏が、後醍醐の心を揺さぶるために自分の文才の全てを傾けて書いた名文だったのではないか、などと想像してみたのですが、さすがにその内容の再現は小説の世界に入ってしまうな、とも思っていました。
しかし、第十四巻第五節「矢矧合戦の事」には、もしかしたら尊氏奏状の再現のヒントとなるのでは、と思わせる表現がありますね。
第十四巻は、
1 足利殿と新田殿と確執の事
2 両家奏状の事
3 節刀使下向の事
4 旗文の月日地に堕つる事
5 矢矧合戦の事
と続いていて、第三節までは紹介済みです。
第四節「旗文の月日地に堕つる事」では、冒頭に「東国の管領」に任ぜられた「一宮中務卿親王」(尊良親王)が出立した際の不吉な出来事が紹介されます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p359)
-------
その後、一宮中務卿親王、三百余騎にて、二条河原へ打つて出でさせ給ひて、内裏より下されたる錦の御旗を、蝉本〔せみもと〕白くしたる旗竿に付けて、さっと指し上げたるに、俄かに風劇〔はげ〕しく吹いて、金銀にて打つて付けたる月日の御文〔ごもん〕、切れて地に落ちたりけるこそ不思議なれ。これを見る者ども、皆あさましく思ひ、今度の御合戦はかばかしからじと、思はぬ者はなかりけり。
-------
ただ、この後は、
-------
同じき日の午刻、大将新田左兵衛督義貞、都を立ち給ふ。元弘の初めに、この人さしもの大敵を亡ぼして、忠功人に超えたりしかども、尊氏卿君に咫尺〔しせき〕し給ひしによつて、抽賞さまでなかりしが、陰徳つひに顕れて、今天下の武将と備はり給ひければ、当家も他家も他門も、今は偏執〔へんじゅう〕の心を失ひて、この手に属せずと云ふ者なし。
-------
と新田義貞が極めて好意的に描写され、ついで東海道(大手)・東山道(搦手)の大軍団の人名が列挙されます。
そして「矢矧合戦の事」に入ると、鎌倉の状況が次のように描かれます。(p362以下)
-------
大手、搦手、すでに京を立ちぬと、飛脚を以て鎌倉へ告ぐる人多かりければ、左馬頭直義、高、上杉、仁木、細川の人々、将軍の御前へ参じて、「すでに御一家を傾け申さんために、義貞を大将にて、東海、東山の両道より、討手を下され候ふなる。敵に難所を超されなば、防ぎ戦ふとも甲斐や候ふべき。急ぎ矢矧、薩多山の辺に向かつて、御支へ候べし」と申されければ、尊氏卿、黙然〔もくねん〕として且〔しばら〕くは物も宣〔のたま〕はざりけるが、ややあつて、「われ譜代弓箭〔きゅうせん〕の家にあつて、わづかに源氏の名を遺すと云へども、承久より以来〔このかた〕、相摸守が顧命〔こめい〕に随つて家を汚し、名を羞〔は〕づかしめたりしを、この度、絶えたるを継いで、職征夷将軍の望みを達し、廃れたるを興して、位〔くらい〕従上の三品〔さんぽん〕を極めたり。これ臣が微功に依ると云へども、豈に君の厚恩にあらずや。恩を戴いて恩を忘るる事は、人たる者のせざる処なり。そもそも今、君の逆鱗ある処は、兵部卿親王を失ひ奉りたると、諸国へ軍勢催促の御教書を成し下したると云ふ、両条の御咎なり。これ一つも、尊氏がなす所にあらず。この条々、謹んで事の子細を陳じ申さば、虚名つひに消えて、逆鱗などか鎮まらざらん。詮ずる所は、かたがたはともかくも身の進退を計らひ給へ。尊氏に於ては、君に向かひまゐらせて弓を引き、矢を放ち候事あるべからず。さてもなほ罪科逃るる所なくば、剃髪染衣〔せんえ〕の貌〔かたち〕にもなつて、君の奉為〔おんため〕に不忠を存ぜざる処を、子孫のために残すべし」と、気色〔けしき〕を損じて宣ひもはてず、後ろの障子を荒らかに挽き立てて、内へ入り給ひければ、甲冑を帯して参り集りたる人々、皆興を醒して退出す。
-------
ここは色々と奇妙な叙述があって、まず、「この度、絶えたるを継いで、職征夷将軍の望みを達し、廃れたるを興して、位従上の三品を極めたり」とありますが、尊氏は中先代の乱の鎮圧直後、従二位に叙せられています。
兵藤氏の脚注には「尊氏は、建武三年に正三位から従二位になる」とありますが、正しくは建武二年(1335)で、同年の『公卿補任』には「参議正三位源尊氏<三十一>武蔵守、左兵衛督、鎮守府将軍、八月卅日叙従二位、勲功賞」とあり、時期から見て中先代の乱鎮圧の「勲功章」であることは明らかですね。
ま、これは「従二位」を「従三位」に間違えただけですが、「職征夷将軍の望みを達し」というのは極めて不可解です。
というのは、尊氏は中先代の乱勃発後、京都を発つときに征夷大将軍と「東八ヶ国の管領」を要求したけれども、前者は後醍醐に拒否されたというのが西源院本の立場です。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
後醍醐は「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」と答えたそうなので、「関東静謐」となった以上、尊氏に征夷大将軍が与えられた、というストーリー展開となってもよさそうですが、そのような記述はありません。
第十四巻第一節「足利殿と新田殿と確執の事」の冒頭には、
-------
足利宰相尊氏、討手の大将を承つて関東に下りし後、相摸次郎時行度々〔どど〕の合戦に打ち負けて、関東程なく静謐しければ、御勅約の上は何の相違かあるべきとて、未だ宣旨も成し下されざるに、その門下の人は、足利征夷将軍とぞ申しける。就中〔なかんずく〕、東八ヶ国の管領は勅許ありし事なればとて、今度箱根、相模川にて合戦に忠ありつる輩〔ともがら〕に、恩賞を行はれけるに、武蔵、相模、上総、下野に新田の一族どもが先立つて拝領したりける所々を、皆闕所〔けっしょ〕になして、悉く給人を付けらる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f87168ccbf5066a169cbd3e34298f401
とありますが、「関東程なく静謐しければ、御勅約の上は何の相違かあるべきとて」尊氏の周辺が「未だ宣旨も成し下されざるに」、勝手に尊氏を「足利征夷将軍」と呼び始めたのであって、後醍醐の勅許がないことは明確ですね。
それにもかかわらず、この場面では、尊氏は「職征夷将軍の望みを達し」と言っていて、従前の記述と矛盾しています。
ま、それはともかく、私にとって気になるのは、「そもそも今、君の逆鱗ある処は、兵部卿親王を失ひ奉りたると、諸国へ軍勢催促の御教書を成し下したると云ふ、両条の御咎なり。これ一つも、尊氏がなす所にあらず。この条々、謹んで事の子細を陳じ申さば、虚名つひに消えて、逆鱗などか鎮まらざらん」という表現です。
尊氏奏状は『太平記』に描かれているような義貞を一方的に非難するものではなく、戦争を止められるのは後醍醐だけというギリギリの段階で、勅撰歌人である尊氏が、後醍醐の心を揺さぶるために自分の文才の全てを傾けて書いた名文だったのではないか、などと想像してみたのですが、さすがにその内容の再現は小説の世界に入ってしまうな、とも思っていました。
しかし、第十四巻第五節「矢矧合戦の事」には、もしかしたら尊氏奏状の再現のヒントとなるのでは、と思わせる表現がありますね。
第十四巻は、
1 足利殿と新田殿と確執の事
2 両家奏状の事
3 節刀使下向の事
4 旗文の月日地に堕つる事
5 矢矧合戦の事
と続いていて、第三節までは紹介済みです。
第四節「旗文の月日地に堕つる事」では、冒頭に「東国の管領」に任ぜられた「一宮中務卿親王」(尊良親王)が出立した際の不吉な出来事が紹介されます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p359)
-------
その後、一宮中務卿親王、三百余騎にて、二条河原へ打つて出でさせ給ひて、内裏より下されたる錦の御旗を、蝉本〔せみもと〕白くしたる旗竿に付けて、さっと指し上げたるに、俄かに風劇〔はげ〕しく吹いて、金銀にて打つて付けたる月日の御文〔ごもん〕、切れて地に落ちたりけるこそ不思議なれ。これを見る者ども、皆あさましく思ひ、今度の御合戦はかばかしからじと、思はぬ者はなかりけり。
-------
ただ、この後は、
-------
同じき日の午刻、大将新田左兵衛督義貞、都を立ち給ふ。元弘の初めに、この人さしもの大敵を亡ぼして、忠功人に超えたりしかども、尊氏卿君に咫尺〔しせき〕し給ひしによつて、抽賞さまでなかりしが、陰徳つひに顕れて、今天下の武将と備はり給ひければ、当家も他家も他門も、今は偏執〔へんじゅう〕の心を失ひて、この手に属せずと云ふ者なし。
-------
と新田義貞が極めて好意的に描写され、ついで東海道(大手)・東山道(搦手)の大軍団の人名が列挙されます。
そして「矢矧合戦の事」に入ると、鎌倉の状況が次のように描かれます。(p362以下)
-------
大手、搦手、すでに京を立ちぬと、飛脚を以て鎌倉へ告ぐる人多かりければ、左馬頭直義、高、上杉、仁木、細川の人々、将軍の御前へ参じて、「すでに御一家を傾け申さんために、義貞を大将にて、東海、東山の両道より、討手を下され候ふなる。敵に難所を超されなば、防ぎ戦ふとも甲斐や候ふべき。急ぎ矢矧、薩多山の辺に向かつて、御支へ候べし」と申されければ、尊氏卿、黙然〔もくねん〕として且〔しばら〕くは物も宣〔のたま〕はざりけるが、ややあつて、「われ譜代弓箭〔きゅうせん〕の家にあつて、わづかに源氏の名を遺すと云へども、承久より以来〔このかた〕、相摸守が顧命〔こめい〕に随つて家を汚し、名を羞〔は〕づかしめたりしを、この度、絶えたるを継いで、職征夷将軍の望みを達し、廃れたるを興して、位〔くらい〕従上の三品〔さんぽん〕を極めたり。これ臣が微功に依ると云へども、豈に君の厚恩にあらずや。恩を戴いて恩を忘るる事は、人たる者のせざる処なり。そもそも今、君の逆鱗ある処は、兵部卿親王を失ひ奉りたると、諸国へ軍勢催促の御教書を成し下したると云ふ、両条の御咎なり。これ一つも、尊氏がなす所にあらず。この条々、謹んで事の子細を陳じ申さば、虚名つひに消えて、逆鱗などか鎮まらざらん。詮ずる所は、かたがたはともかくも身の進退を計らひ給へ。尊氏に於ては、君に向かひまゐらせて弓を引き、矢を放ち候事あるべからず。さてもなほ罪科逃るる所なくば、剃髪染衣〔せんえ〕の貌〔かたち〕にもなつて、君の奉為〔おんため〕に不忠を存ぜざる処を、子孫のために残すべし」と、気色〔けしき〕を損じて宣ひもはてず、後ろの障子を荒らかに挽き立てて、内へ入り給ひければ、甲冑を帯して参り集りたる人々、皆興を醒して退出す。
-------
ここは色々と奇妙な叙述があって、まず、「この度、絶えたるを継いで、職征夷将軍の望みを達し、廃れたるを興して、位従上の三品を極めたり」とありますが、尊氏は中先代の乱の鎮圧直後、従二位に叙せられています。
兵藤氏の脚注には「尊氏は、建武三年に正三位から従二位になる」とありますが、正しくは建武二年(1335)で、同年の『公卿補任』には「参議正三位源尊氏<三十一>武蔵守、左兵衛督、鎮守府将軍、八月卅日叙従二位、勲功賞」とあり、時期から見て中先代の乱鎮圧の「勲功章」であることは明らかですね。
ま、これは「従二位」を「従三位」に間違えただけですが、「職征夷将軍の望みを達し」というのは極めて不可解です。
というのは、尊氏は中先代の乱勃発後、京都を発つときに征夷大将軍と「東八ヶ国の管領」を要求したけれども、前者は後醍醐に拒否されたというのが西源院本の立場です。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
後醍醐は「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」と答えたそうなので、「関東静謐」となった以上、尊氏に征夷大将軍が与えられた、というストーリー展開となってもよさそうですが、そのような記述はありません。
第十四巻第一節「足利殿と新田殿と確執の事」の冒頭には、
-------
足利宰相尊氏、討手の大将を承つて関東に下りし後、相摸次郎時行度々〔どど〕の合戦に打ち負けて、関東程なく静謐しければ、御勅約の上は何の相違かあるべきとて、未だ宣旨も成し下されざるに、その門下の人は、足利征夷将軍とぞ申しける。就中〔なかんずく〕、東八ヶ国の管領は勅許ありし事なればとて、今度箱根、相模川にて合戦に忠ありつる輩〔ともがら〕に、恩賞を行はれけるに、武蔵、相模、上総、下野に新田の一族どもが先立つて拝領したりける所々を、皆闕所〔けっしょ〕になして、悉く給人を付けらる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f87168ccbf5066a169cbd3e34298f401
とありますが、「関東程なく静謐しければ、御勅約の上は何の相違かあるべきとて」尊氏の周辺が「未だ宣旨も成し下されざるに」、勝手に尊氏を「足利征夷将軍」と呼び始めたのであって、後醍醐の勅許がないことは明確ですね。
それにもかかわらず、この場面では、尊氏は「職征夷将軍の望みを達し」と言っていて、従前の記述と矛盾しています。
ま、それはともかく、私にとって気になるのは、「そもそも今、君の逆鱗ある処は、兵部卿親王を失ひ奉りたると、諸国へ軍勢催促の御教書を成し下したると云ふ、両条の御咎なり。これ一つも、尊氏がなす所にあらず。この条々、謹んで事の子細を陳じ申さば、虚名つひに消えて、逆鱗などか鎮まらざらん」という表現です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます