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「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その1)

2021-05-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月22日(土)15時41分59秒

四月二十四日から五月三日まで、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)を検討していて、その途中で桃崎有一郎氏の『京都を壊した天皇、護った武士』(NHK出版新書、2020)に寄り道したので、ここで再び山家著に戻るのが順当な方向なのですが、ちょっと迷っているところです。
久しぶりに眺めてみた『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)の著者・飯倉晴武氏は、同書の奥付によれば「1933年生まれ、東北大学大学院修士課程修了、宮内庁書陵部首席研究官、陵墓調査官を経て、奥羽大学文学部教授」という方です。
その経歴からは非常に真面目な、手堅い研究者であることが伺われ、実際に飯倉著を読んでも印象は同じです。
しかし、ちょっと真面目すぎて、こういうタイプの研究者が『太平記』を正確に読めているのか、という疑問を私は抱きます。
それは例えば次のような箇所です。(p95以下)

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番場宿の悲劇

逃避行と落武者狩
 五月七日の夜ふけて光厳天皇はじめ両上皇と供奉の廷臣は、六波羅探題と残存の武士に守られて六波羅を出て東へ向かい、苦集滅路〔くずめじ〕を越えて山科に入り四条河原をへて近江へ進んだ。すでに苦集滅路から落人をねらう野伏が一行を襲ってきて、早くも南方六波羅探題の北条時益が頸の骨を射られて即死した。四宮河原を通過し逢坂の関の手前でしばし馬をとめて休んでいるとき、光厳天皇の左の肱〔ひじ〕に矢が当たり、陶山〔すやま〕備中守という武士がとっさに矢を抜いて疵を吸って手当てをし、難を救った。さらに進んであたりが明るくなるころ、天皇の一行は五、六百人の野伏に道を塞がれた。警護の一人備前国住人中吉弥八という武士が、「一天の君(天皇)が関東へ臨幸されるところに、無礼をするな。弓をふせ甲を脱いで、通し奉れ」というと、野伏どもは「如何なる一天の君でも通ってみろ。御運が尽きて落ちのびて行くのを通さないことはないが、たやすく通りたかったら、供の武士たちの馬物具をみなおいてゆけ」といって、どっと鬨の声を挙げた。中吉弥八はいったんは戦いを挑んだが、かえって組み伏せられてしまい、そのとき一策を案じ、六波羅に六〇〇〇貫の銭を埋めたところを知っているとだまして、野伏の一団を連れて行き、天皇一行を救い、この日(八日)天皇・上皇方を守って六波羅勢は近江国野洲郡篠原に着いた(『太平記』巻第九)。
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『太平記』を実際に読んでみても、この要約に全く間違いはありません。
間違いはないのですが、しかし『太平記』中でも有数の悲劇である第九巻第六節「六波羅落つる事」の中に挟まれている中吉弥八〔なかぎりやはち〕のエピソードは、かなり奇妙なものです。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p77以下)

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 さる程に、東雲〔しののめ〕漸く明け初〔そ〕めて、朝霧わづかに残れるに、北なる山を見渡せば、野伏どもと覚しくて五、六百人が程、楯をつき、鏃をそろへて待ち懸けたり。備前国の住人、中吉弥八、行幸の御前に候ひけるが、敵近づけば、馬を懸け居〔す〕ゑて、「忝くも、一天の君関東へ臨幸なる処を、いかなる者なれば、かやうに狼籍をば仕〔つかまつ〕るぞ。心ある者ならば、弓を偃〔ふ〕せ、甲を脱いで、通しまゐらすべし。礼儀を知らぬ奴原〔やつばら〕ならば、一々に召し取つて切り懸けて通べし」と申しければ、野伏ども、からからと打ち笑うて、「いかなる一天の君にても渡らせ給へ、御運尽きて落ちさせ給はんずるを、通しまゐらせじとは申すまじ。たやすく通りたく思し召されば、御供仕りたる武士どもの、馬、物具を皆捨てさせて、心安く落ちさせ給へ」と申しもはてず、同音〔どうおん〕に時をどうど作る。中吉弥八、これを聞いて、「悪〔にく〕い奴原が振る舞ひかな。いで、己れらが欲しがる物具とらせん」とて、若党六騎、馬の鼻を並べてぞ懸たりける。欲心熾盛〔しじょう〕の野伏ども、六騎の兵に懸け立てられて、蜘蛛の子を散らすが如くに四角八方へ逃げたりける。六騎の兵、六方に分かれて逃ぐる者どもを追ふ。
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まあ、ここまではなかなか格調高い文章であり、軍記物として変なところは一つもありません。
問題はその次からです。

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 二十余人返し合はせて、これを真中に取り籠むる。弥八少しも疼〔ひる〕まず、その中の棟梁と見えたる敵に馳せ並べて、むずと組んで、二疋があはひへどうど落ちて、四、五丈高き片岸の上より、上になり下になりころびけるが、ともに組みも離れずして、深田の中へころび落ちにけり。中吉下になつてければ、上げ様に一刀〔ひとかたな〕差さんとて、腰刀〔こしがたな〕を探りけるに、ころぶ時抜てや失せたりけん、鞘ばかりあつて刀はなし。
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ということで、中吉弥八、絶体絶命のピンチです。
このピンチを弥八はいかにして切り抜けるのか。
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