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松沢裕作『生きづらい明治社会』(その6)

2018-10-16 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月16日(火)16時23分49秒

中村政則氏の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)を確認してみたところ、中村氏は八幡ヤスの「製糸工女約定書」を、

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製糸工女約定書/ スワ郡長池村(岡谷市)/ 戸主八幡伴蔵長女/ 工女同ヤス/ 十八年(歳)/ 一金五円也約定証/ 右之者、貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄、製糸開業中就業之約定致シ、前記ノ約定金正ニ請取候。然ル上ハ成規・御家則堅ク遵守致スベク候。期間中ハ何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候。万一右約定ヲ違変候節ハ、違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ、必ズ弁償可致為後日約定書。仍テ如件。/ 明治卅年六月二日/ 右戸主八幡伴蔵/ 片倉兼太郎殿
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という具合に、全く改行せず、スラッシュ(/)で区切って引用していますが(p93以下)、『生きづらい明治社会』と比較すると、「(岡谷市)」が削除され、「一金五円也約定<証>」が「一金五円也約定<金>」となり、句読点の打ち方も異なるので、松沢氏は中村著だけではなく、別の資料も参照していますね。
何を使っているのかなと疑問に思っていたのですが、これはおそらく大石嘉一郎氏の「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」という論文ですね。
そもそも中村氏は、一般書という制約もあって、八幡ヤスの契約書の出典を明示していないのですが、上記引用部分の少し後に「一般に製糸業の賃金制度は等級賃金制とよばれており、最近、この等級賃金制については大石嘉一郎・石井寛治・岩本由輝らのすぐれた研究があいついで発表されている」(p96)という一文があるので、中村氏が大石嘉一郎氏の「日本製糸業賃労働の構造的特質─『等級賃銀制』を中心として─」(川島武宜・松田智雄編『国民経済の諸類型』、岩波書店、1968)と密接に関連している「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』24巻2号、1972)を見ているのは明らかです。
大石嘉一郎氏のこの二つの論文は、『日本資本主義の構造と展開』(東京大学出版会、1998)「第三章 製糸業賃労働の構造的特質と形態変化」の「第一節 日本製糸業賃労働の構造的特質─「等級賃銀制」を中心として─」と「第二節 雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」として、「若干の字句を修正しただけでほとんどそのまま」掲載されています(p207、「補注」)。
そして、「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」は全部で十七の雇用契約書例を紹介しているのですが、その二番目に出ている八幡ヤスの契約書を引用すると、

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〔例二〕
    製糸工女約定書
          スワ郡長地村 番地
             戸主 八幡伴蔵 長女
一金五円成約定金     工女 同 ヤス
                    十八年
右之者貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄製糸開業中就業之約定致シ前記ノ約定金正ニ請取候然ル上ハ成規御家則堅ク遵守致スベク候期間中ハ何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候万一右約定ヲ違変候節ハ違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ必ズ弁償可致為後日約定証仍テ如件
 明治三十年六月二日     右戸主 八幡伴蔵
  片倉兼太郎 殿
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となっています。(p149)
中村著を見ただけでは文章の配置は分らないので、松沢氏は『日本資本主義の構造と展開』を見て、中村著を参照しつつ読み下したものと思われます。
因みに大石氏は正しく「長地村」としていますが、中村・松沢氏は「長池村」ですね。
ということで、私は当初、松沢氏が諏訪の製糸業の歴史についてあまり詳しくなく、少し雑なところがある中村氏の説明に安易に乗って『生きづらい明治社会』を書いたのかなと思っていたのですが、そうではなく、松沢氏は大石氏の言うところの「製糸業賃労働の構造的特質と形態変化」を熟知しつつ、それでもあの叙述となった訳ですね。
ふーむ。
そうなると、松沢氏の著作姿勢への評価も、また違ってくることになりますね。

>筆綾丸さん
>期間が「明治三十年三月より同年十二月」なのに、なぜ、契約日が「明治三十年六月二日」なのか
大石著でも「六月二日」となっているので、中村氏の誤記の可能性は消えましたね。
まあ、たぶん「製糸工女約定書」はこの時期の片倉の定型文書であって、工女毎にその個人的事情を考慮して契約書を作成しているのではなく、(約定金額を除き)全く同一の書式で集団的に処理しているのでしょうね。
この契約の場合、「約定金」の受領は六月で、八幡ヤスが働き始めたのも六月からでしょうが、契約書の書式にはわざわざ変更を加えなかったということだと思います。
ちなみに明治三十年くらいの段階では、片倉だけでなく、諏訪の製糸業者は概ね厳冬期の一・二月は工場の操業自体を止めていたようで、他の業者の雇用契約書でも契約期間は三月から十二月までとなっていることが多いですね。
その他の点はまた後で。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

製糸工女約定書 2018/10/15(月) 12:52:15
小太郎さん
「製糸工女約定書」でよくわからないのは、期間が「明治三十年三月より同年十二月」なのに、なぜ、契約日が「明治三十年六月二日」なのか、ということです。普通であれば、契約日は「明治三十年三月」より前になるはずです。
また、「製糸開業中就業の約定」ですが、製糸開業中でない期間はどうなるのか、ということもよくわかりません。養蚕は、春蚕、夏蚕、秋蚕というように、いわば季節労働だから、契約期間中、継続して「製糸業」があるわけではないですよね。片倉製糸は近隣の養蚕農家から大量の繭を買い取るので、契約期間中は一貫して「製糸業」が続くのだとすれば、「製糸開業中就業の約定」などという文言は不要のはずです。
それはさておき、この約定書は、江戸期の身売り証文と同じようなもので、女工として働けなくなれば、雇主は損害金の弁償として遊女屋に売り飛ばすこともできるのだ、と解すればいいのですか。
コメント
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