投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 9月 4日(水)23時10分9秒 通報 編集済
>筆綾丸さん
高橋慎一朗氏は「時頼には、どうもユーモアのセンスというものはあまり感じられない。仕事に関しては信頼できるが、個人的におつきあいするのはちょっとご遠慮したい、真面目な優等生タイプ、というところであろうか」(p236)と言われていますが、高橋氏自身に「ユーモアのセンス」があるのか、若干の疑念を感じる箇所がありますね。
それは時頼の臨終の場面です。
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十一月二十二日、戌刻(午後八時ごろ)、時頼は最明寺北亭で息を引き取った。三十七歳であった。『吾妻鏡』が伝える臨終の様子は、以下のようである。時頼は、袈裟を着て椅子にのぼり、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、
業鏡(ごうきょう)高く懸ぐ 三十七年
一槌に打砕して 大道坦然たり
という遺偈(ゆいげ)を唱えて亡くなった。
「業鏡」は生前のおこないを映し出す鏡、「坦然」はひろびろとしている様子のことである。
実は、この遺偈は時頼のオリジナルではなく、宋の禅僧笑翁妙湛(しょうおうみょうたん)の遺偈の「七十二年」の語を「三十七年」に変えたものであった。時頼は笑翁の遺偈を借りて、自己の心境をあらわしたのである(鷲尾順敬『鎌倉武士と禅』)。いかにも勉強熱心な時頼らしい、とも言えよう。
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ここ、結構ビミョーな味わいがありますね。
ま、当然、本当に時頼がこの遺偈を作ったのか、それとも時頼の死後、禅に詳しい人が時頼の臨終場面を創作するにあたって笑翁の遺偈を借用したのか、という問題がありますが、高橋氏は前者の立場なのでしょうね。
正直、ここで笑いを我慢するのは私にとってかなり苦痛なのですが、時頼が本当に笑翁の遺偈をパクったのであれば、まあ、死の前年に「悟り」を得たとしても、時頼の思想的水準はあまり高くなかった、というか低レベルだったのでしょうね。
私自身は臨終の場面全体が誰かの創作だと考えているので、直接にはこの遺偈が時頼の思想的水準を測る材料にはならないと思っています。
ところで、話が唐突に現代に飛びますが、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は「政治や軍事への関心を欠いた、控えめで穏やかな人間として育ち」、「学校時代は優秀で模範的な生徒」で、「ダマスカス大学医学部を卒業後は軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修」していたが、父のハーフィズ・アル=アサド大統領の後継者だった長兄が交通事故で急死した後、不慣れな政治と軍事の世界に入ったそうですね。
真面目な学究肌の性格といい、兄の急死で運命が激変した点といい、何となく時頼を連想させます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%89
そして、大統領夫人の Asma al-Assad はシリア人の両親の元にイギリスで生まれ、キングスカレッジ・ロンドンでコンピューターサイエンスとフランス文学を学び、卒業後は国際投資銀行で働いていた才媛だそうなので、いささか強引ながら六波羅探題に赴任した北条重時の長女として京都に生まれ、15歳まで京都で育った北条重時の娘(葛西殿)に比すことができそうです。
Asma al-Assad
http://en.wikipedia.org/wiki/Asma_al-Assad
葛西殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%AE%BF
時頼が生きた時代と環境は今のシリアと同じくらい厳しいものだったはずなのに、高橋慎一朗氏のまったりした語彙ともっさりした文体は鎌倉時代の緊張感を全然伝えてくれず、読者を「もやもやした気持ち」に誘いますね。
>若宮王子
これ、私も気になったのですが、本当に分かりにくいですね。
>回虫
この記事はまだ読んでいませんでした。
リチャード三世関係、次から次へと色々出てきますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6903
>筆綾丸さん
高橋慎一朗氏は「時頼には、どうもユーモアのセンスというものはあまり感じられない。仕事に関しては信頼できるが、個人的におつきあいするのはちょっとご遠慮したい、真面目な優等生タイプ、というところであろうか」(p236)と言われていますが、高橋氏自身に「ユーモアのセンス」があるのか、若干の疑念を感じる箇所がありますね。
それは時頼の臨終の場面です。
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十一月二十二日、戌刻(午後八時ごろ)、時頼は最明寺北亭で息を引き取った。三十七歳であった。『吾妻鏡』が伝える臨終の様子は、以下のようである。時頼は、袈裟を着て椅子にのぼり、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、
業鏡(ごうきょう)高く懸ぐ 三十七年
一槌に打砕して 大道坦然たり
という遺偈(ゆいげ)を唱えて亡くなった。
「業鏡」は生前のおこないを映し出す鏡、「坦然」はひろびろとしている様子のことである。
実は、この遺偈は時頼のオリジナルではなく、宋の禅僧笑翁妙湛(しょうおうみょうたん)の遺偈の「七十二年」の語を「三十七年」に変えたものであった。時頼は笑翁の遺偈を借りて、自己の心境をあらわしたのである(鷲尾順敬『鎌倉武士と禅』)。いかにも勉強熱心な時頼らしい、とも言えよう。
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ここ、結構ビミョーな味わいがありますね。
ま、当然、本当に時頼がこの遺偈を作ったのか、それとも時頼の死後、禅に詳しい人が時頼の臨終場面を創作するにあたって笑翁の遺偈を借用したのか、という問題がありますが、高橋氏は前者の立場なのでしょうね。
正直、ここで笑いを我慢するのは私にとってかなり苦痛なのですが、時頼が本当に笑翁の遺偈をパクったのであれば、まあ、死の前年に「悟り」を得たとしても、時頼の思想的水準はあまり高くなかった、というか低レベルだったのでしょうね。
私自身は臨終の場面全体が誰かの創作だと考えているので、直接にはこの遺偈が時頼の思想的水準を測る材料にはならないと思っています。
ところで、話が唐突に現代に飛びますが、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は「政治や軍事への関心を欠いた、控えめで穏やかな人間として育ち」、「学校時代は優秀で模範的な生徒」で、「ダマスカス大学医学部を卒業後は軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修」していたが、父のハーフィズ・アル=アサド大統領の後継者だった長兄が交通事故で急死した後、不慣れな政治と軍事の世界に入ったそうですね。
真面目な学究肌の性格といい、兄の急死で運命が激変した点といい、何となく時頼を連想させます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%89
そして、大統領夫人の Asma al-Assad はシリア人の両親の元にイギリスで生まれ、キングスカレッジ・ロンドンでコンピューターサイエンスとフランス文学を学び、卒業後は国際投資銀行で働いていた才媛だそうなので、いささか強引ながら六波羅探題に赴任した北条重時の長女として京都に生まれ、15歳まで京都で育った北条重時の娘(葛西殿)に比すことができそうです。
Asma al-Assad
http://en.wikipedia.org/wiki/Asma_al-Assad
葛西殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%AE%BF
時頼が生きた時代と環境は今のシリアと同じくらい厳しいものだったはずなのに、高橋慎一朗氏のまったりした語彙ともっさりした文体は鎌倉時代の緊張感を全然伝えてくれず、読者を「もやもやした気持ち」に誘いますね。
>若宮王子
これ、私も気になったのですが、本当に分かりにくいですね。
>回虫
この記事はまだ読んでいませんでした。
リチャード三世関係、次から次へと色々出てきますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6903