投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年12月11日(火)23時41分12秒
7日(金)にはかつて金華山への渡し場だった山鳥にも行ってみました。
写真は山鳥の法印墓地です。
月光善弘氏の「金華山の修験道」(『山岳宗教史研究叢書7 東北霊山と修験道』、昭和52年、名著出版)から、山鳥に関係する部分を少し抜き出してみます。
最初と二番目の文章は奥海登和子氏の「金華山信仰」(岩崎敏夫編『東北民俗資料集(四)』所収)からの引用で、三番目は月光氏自身の文章です。
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昔金華山へ参詣する時は必ず山鳥に建っている一ノ鳥居をくぐってから島に渡らないと御利益がないとされていた。本当は塩釜や石巻から海路金華山へ行くことも可能であったのに人々はそれをせず陸路伝いに牡鹿半島を縦断鮎川まで来たらそこから、山越えをして山鳥一ノ鳥居まで歩いた。早朝石巻をたつと丁度日が暮れる時刻に山鳥に到着する。参詣人は山鳥に一泊し次の日の朝金華山へ渡ることになる。(中略)金華山参詣の際の必需品は草鞋である。船を降りる際に今迄履いてきた草鞋をぬいで背負ってきた新しい草鞋を履いて上陸する。霊島に俗界の穢れを持ち込んではならないからである。参拝が終わって離島する際には、神の島からたとえ砂粒一つでも持ち出す事はならないとされていたので再び草鞋をぬいで桟橋に置いて行くのが慣例であった。(p158)
誰がいつ開山したのかははっきりわからない。しかし文禄二年(一五九三)下野国(栃木県)岩倉の成蔵坊長俊が来て大金寺を再興した。成蔵坊長俊はある日、草鞋を脱いで座禅の為山へ入ったまま行方がわからなくなった。そしてしばらくの後洞窟から死体となって発見された。その死体は金華山の対岸、牡鹿半島山鳥の墓所に葬られたが、成蔵坊長俊は偉大な僧だったので山鳥沖を通過する船舶は魔よけに赤い旗を立てて居ないと魔法を使って船を止められてしまったという。(p161)
金華山は聖域であるとの認識が強かったので、大金寺関係の聖職者が遷化しても、島内には死骸を埋葬することなく、対岸の山鳥まで運んで埋葬したのである。従って山鳥には金華山大金寺法印を埋葬した墓碑が現存している。(p166)
※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6635
7日(金)にはかつて金華山への渡し場だった山鳥にも行ってみました。
写真は山鳥の法印墓地です。
月光善弘氏の「金華山の修験道」(『山岳宗教史研究叢書7 東北霊山と修験道』、昭和52年、名著出版)から、山鳥に関係する部分を少し抜き出してみます。
最初と二番目の文章は奥海登和子氏の「金華山信仰」(岩崎敏夫編『東北民俗資料集(四)』所収)からの引用で、三番目は月光氏自身の文章です。
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昔金華山へ参詣する時は必ず山鳥に建っている一ノ鳥居をくぐってから島に渡らないと御利益がないとされていた。本当は塩釜や石巻から海路金華山へ行くことも可能であったのに人々はそれをせず陸路伝いに牡鹿半島を縦断鮎川まで来たらそこから、山越えをして山鳥一ノ鳥居まで歩いた。早朝石巻をたつと丁度日が暮れる時刻に山鳥に到着する。参詣人は山鳥に一泊し次の日の朝金華山へ渡ることになる。(中略)金華山参詣の際の必需品は草鞋である。船を降りる際に今迄履いてきた草鞋をぬいで背負ってきた新しい草鞋を履いて上陸する。霊島に俗界の穢れを持ち込んではならないからである。参拝が終わって離島する際には、神の島からたとえ砂粒一つでも持ち出す事はならないとされていたので再び草鞋をぬいで桟橋に置いて行くのが慣例であった。(p158)
誰がいつ開山したのかははっきりわからない。しかし文禄二年(一五九三)下野国(栃木県)岩倉の成蔵坊長俊が来て大金寺を再興した。成蔵坊長俊はある日、草鞋を脱いで座禅の為山へ入ったまま行方がわからなくなった。そしてしばらくの後洞窟から死体となって発見された。その死体は金華山の対岸、牡鹿半島山鳥の墓所に葬られたが、成蔵坊長俊は偉大な僧だったので山鳥沖を通過する船舶は魔よけに赤い旗を立てて居ないと魔法を使って船を止められてしまったという。(p161)
金華山は聖域であるとの認識が強かったので、大金寺関係の聖職者が遷化しても、島内には死骸を埋葬することなく、対岸の山鳥まで運んで埋葬したのである。従って山鳥には金華山大金寺法印を埋葬した墓碑が現存している。(p166)
※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6635