『国津道(くにつみち)』 目次
『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。
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- 国津道(くにつみち)- 第38回
ラインを開ける。
『酔っぱらった座斎がそっちに向かった! 家にいるならすぐに鍵かけて電気消せ! 外なら帰るな!』
今日は期末で忙しくしていた現場とその関係の課が一緒になって打ち上げに行っている。 加奈は労務課だから期末の忙しさは関係無いのだが、何故か参加していた。 それは加奈から聞いて知っていた。 詩甫は祐樹が来るからと欠席をしていた。
「えー!?」
詩甫の声に単行本を読んでいた祐樹が顔を上げる。
すぐに着信音が鳴った。 当の加奈からである。
『やっと既読になった! 今どこ?』
「家」
『もうそっちに着くはずよ、すぐに鍵と電気!』
「は、はいっ!」
『大声出さない!』
「うぇ~ん」
『泣いてる暇はない! サッサと動く!』
玄関は詩甫が帰ってきた時に鍵をかけていた。 でもかけ忘れていないか、スマホを耳に充てたまま確認に行く。 廊下の電気を点けかけてその手を止める。 開け放したドアからリビングの零れてくる明かりで鍵がかかっているのを確認すると、踵を返してリビングの電気を消した。
「おわっ!」
何も予告されていなかった祐樹が声を上げる。
『なに、今の声』
「義弟、祐樹」
『代わって、理由を説明するから。 詩甫は声を出さない、分かった?』
「うん」
『声出すなって』
無茶を言う・・・。
スマホの明かりに照らされた詩甫が口元に人差し指を立てながら、祐樹にスマホを渡す。 何だろうと思いながらも小声で「もしもし」 と言う。
『祐樹君? 加奈よ、覚えてるよね』
加奈と祐樹は会ったことがある。 朧気ながらその名前と会ったということだけは覚えている。
「うん」
『いい? 今から声を出さないで。 返事もしなくていいから』
「うん」
『おいこら!』
思わず祐樹が口を押えた。 完全に加奈を思い出した、怖いお姉さんだった。
『もしかしてだけど、もう少ししたらチャイムが何度も鳴ったり、ドアが叩かれるかもしれないけど、絶対に出ちゃダメ。 完全に居留守を装う。 居留守って分かるよね、居ない振りをすること。 恐い思いをするかもしれないけど、助けが行くまでお姉ちゃんを守んなさい。 今お姉ちゃんを守れるのは君だけなんだからね』
詩甫の手には小さなライトが持たれていた。 夜遅く帰って来る時用に、いつもバッグの中に入れているものである。 窓側にも玄関側にも向けていない。 下に向け足元を照らしている。 小さなライトだけに照らす範囲は広くない。 明かりの片隅で祐樹が頷いているのを見て、加奈との間に話が成り立っているのだと感じた。
『すぐにお姉ちゃんにスマホを渡して電源を切るように言って』
通話は加奈の方から切られた。
祐樹が詩甫を見上げ、小声で加奈から言われたことを伝えながらスマホを渡すと、すぐに電源を切り二人で寝室に移動した。
「姉ちゃん・・・」
怖くて詩甫にしがみつきたかった。
加奈がどんな話を祐樹に聞かせたのか分からない。 詩甫が祐樹の頭を撫でてやる。
「大丈夫」
祐樹は加奈から、怖いお姉さんから言われた。 詩甫を守りなさいと、今守れるのは祐樹だけなんだと。
それなのに詩甫に励ましてもらってしまった。 加奈の言葉が何度も頭の中で響く。
そうだ、今は自分しかいないんだ。 自分が怖がっていてどうする。 詩甫は自分が守る。 詩甫を怖い目になんてあわせない。
「姉ちゃん、怖くなったらオレの手を握るといいからな」
詩甫が微笑んでいるのが分かる。
「うん、ありがと」
途端、チャイムが鳴った。
詩甫より祐樹の顔が強張る。
チャイムが連打するように何度も鳴る。 その内にドアがドンドンと叩かれだした。 チャイムとドアを叩く音。
怖いというより、恐怖しかない。
怖がりの祐樹が怖い映画を見ることは無かったが、アニメでは似たような場面を見たことがある。 コナンだっただろうか、それともジョジョかワンピースだっただろうか。
「おーいぃ、詩甫ちゃー、居るんらろー」
呂律の回っていない座斎の声がする。
「詩ー甫ーちゃー」
思わず詩甫が祐樹の手を握った。 その祐樹の手が震えていた。 祐樹も頑張ってくれているんだ。
「座斎さん、やめろって」
誰かが止めてくれている。 いくらかホッとできたが、座斎のそれは止まない。
幾度も繰り返していた中で何かを言う声がしたと思ったら、座斎が詩甫の名前を呼ぶ合間に「すみません」 という声が聞こえた。 きっと隣の部屋からの苦情だったのだろう。
その声はさっきの声とは違ったようだ。 少なくとも二人は居てくれているということだ。
座斎がまだドアを叩きチャイムを鳴らしている。 詩甫の名を呼んでいる。 止められているようだが手を振り払っているのだろう。 殆ど止まることなく繰り返されている。
「いい加減にしないと警察に通報されますよ!」
さっき座斎を止めていた声が聞こえた。
「だな、通報される前に逃がしてやるか」
え・・・っと詩甫が下げていた顔を上げた。
座斎を止めていた男が振り返る。
「弦さん、遅い」
男、座斎と同じく願弦の部下は途中で加奈から連絡を受けていた。 願弦がそっちに向かったと。
「これでもかっ飛ばしてきたんだよ。 付き合えよ」
願弦が足元のふらついている座斎を肩に担ぐと、ぐぇ、っと座斎の口から声が漏れた。
「おい、吐くなよ」
外の様子がどうなっているのかは分からなかったが、すぐに詩甫がスマホの電源を入れた。 すぐには立ち上がらない。
「詩ー甫ちゃー」
くぐもった座斎の声が遠ざかっていく。 願弦たちが階段を降りて行ったのだろう。
ようやく立ち上がったスマホをタップする。
『詩甫?! 大丈夫だった?』
「さっき外で願弦さんの声が聞こえて居なくなったみたい」
祐樹はその名前を覚えていた。 ラーメンを食べながらバレンタインの話をしているときに聞いた名前だ。 神主の学校を出ていて実家が神社とも言っていた。 そしていま詩甫を助けてくれた人だ。
『うん、遅れて来た願弦さんがすぐに家に戻って車をとって来るって言ってたから、車にぶち込んで家に送って行くんじゃないかな。 座斎を追って途中挫折して戻ってきた奴らには蹴りを入れといたからね』
相変わらず逞しい。
『それより大丈夫だった?』
「明日、お隣さんに謝らなきゃいけない程度」
『そっか、願弦さんギリアウトだったか』
「怖かったけど、祐樹がいてくれたから」
まだ握っている祐樹の手を軽く握ると祐樹も握り返してきた。
『弟君、役に立ったじゃない』
「うん」
『明日、酔いの冷めた座斎を願弦さんが説教しに行く筈よ。 当分は呑まないんじゃないかな。 まっ、少なくとも今日は安心して寝てちょうだい。 弟君に代わってくれる?』
もう終わったというのにどういうことだろうかと思いながら、祐樹にスマホを渡す。
祐樹もキョトンとしてスマホを受け取る。
「もしもし」
『よっ、ちゃんとお姉ちゃんを守ってくれたね』
怖いお姉さんだった。 思わず姿勢が良くなる。 握っていた詩甫の手を離して正座をすると膝の上に置いた。
「うん」
『お姉ちゃんの様子どうだった?』
祐樹がチラリと詩甫を見ると詩甫が立ち上がり、小さなライトをつけてリビングのドアに向かって歩いて行くところだった。
「怖かったみたい」
怖くなったら祐樹の手を握るといいと言っていた。 その手を握ってきたのだから。
『そっか。 弟君がいてくれて良かった。 アンパンマンだね。 ってことで、ついでにお姉ちゃんに暖かい飲み物を入れてあげてくれる? 牛乳なんてあるかな』
アンパンマン・・・さすがに祐樹もとうに卒業している。 完全に一度会った当時のままの祐樹を想像しているのであろう。 だがアンパンマンはバイキンマンをアンパンチで吹っ飛ばすけど、そんなことも出来なかった。 詩甫に手を握って良いというのが精一杯であって、その手が震えていたのが情けない。 少々、祐樹が落ち込む。
「牛乳は無いけど豆乳ならある」
詩甫がリビングから出るとそっと玄関に足を運ぶ。 スコープで見ても誰も居ない。
ドアを開け外を見る。 加奈の話から願弦は車で来ていたはずだ。 どこにも車など見当たらない。 もう座斎を乗せて出たのだろう。
『豆乳か・・・まっ、それでもいいか。 レンチンできる?』
「うん」
『じゃ、レンチンして温めてお姉ちゃんに飲ませてあげて。 ついでに弟君も飲みなさいね。 じゃね、お休み』
「お休みな・・・」
スマホの向こうから聞こえていた喧騒が消えた。 切られてしまった。 怖いお姉さんはすることが早いらしい。
パチリとリビングの電気が点いた。
「加奈、何を言ってたの?」
「うん、ちょっと」
立ち上がり詩甫にスマホを渡すとキッチンに足を運ぶ。 カップを出して冷蔵庫から出した豆乳を注ぐ。 二つまとめてレンジに入れる。
詩甫は急に電気が消されて投げっぱなしにされていた単行本を手に取った。 栞代わりの紙は挟まれていなかったが、折り目がつくことなくちゃんと置いていたようだ。
「さっきのって、姉ちゃんが頼りにしてる願弦さん?」
ブォ~ンとレンジが鳴っている前に立ったまま祐樹が訊いた。
詩甫が単行本を手にしながら振り返る。
「うん。 駆け付けてくれたみたい」
「優しいんだね」
「ドアをドンドンしてた人は酔っ払っちゃってたって加奈が言ってたけど、その上司だからね。 何かあったら責任取らなくちゃいけないし。 願弦さんならそんなこと関係ないだろうけど」
ピーピーピーとレンジが祐樹を呼ぶ。 どうしてレンチンというのだろうか。 どうしてレンピーピーではないのだろうか。 ふとそんなことを思いながら中から二つのカップを取り出し、スプーンでかき混ぜる。
そっと運んで来て座卓の上に置いた。
「加奈ちゃんに牛乳がないって言ったら、豆乳でもいいから温めて二人で飲みなさいって」
怖いお姉さんを思い出していた。 会ってすぐに『加奈ちゃんと呼びなさい』 と言われていたのだった。
そういうことか。 そういう会話をしていたのか。 詩甫自身のことも心配してくれたが、祐樹のことも心配してくれたのだろう。 詩甫に言わなかったのは男子である祐樹を立ててくれたのかもしれない。
「そっか。 ありがと」
カップを持つと一口飲んだ。 ほどよく温まった豆乳が喉を流れて胃に収まるのを感じる。 ホッとできる。
祐樹も同じように飲む。
「安心できるね」
「うん」
祐樹は何も混ぜない豆乳が苦手だったが、何故か張り詰めていた心が溶けていくようだ。
「怖い思いをさせてごめんね」
怖くなんてなかった、そう言いたかったが、震えている手を詩甫に握られていた。 だから
「豆乳って美味しいんだね」
詩甫が微笑んだ。
翌日の夕方、願弦に連絡を入れた。 加奈は願弦が説教に行くと言っていた。 その途中にスマホを鳴らしたくなかったからこの時間まで待っていた。
昨日は、と礼を言おうとしたら先に取られた。
『いやぁ~、あの馬鹿が迷惑かけちゃって。 親御さんともども説教をしておいたから、もうあんなことは無いと思うよ』
座斎の親ともなれば願弦よりずっと年上になるではないか。 その親も一緒に説教をしたとは、さすがは願弦である。
『悪かったな、もっと早く行ければ良かったんだけど。 怖かったろ』
加奈からラインを貰っていた。 加奈が願弦に連絡を入れると、詩甫の部屋の前であったことを願弦から聞いたという。 そして加奈は詩甫たちが部屋に居たことを願弦に伝えたということであった。 最後に全部願弦に任せるといいよ、と書かれていた。
その願弦は自分が悪いわけではないのに謝ってくる。 願弦とはそういう男だ。
『ま、簡単に許せないだろうが、初犯ってことで出来れば許してやってくれないか? 本人も全然覚えていなかったようだし、頭を抱えて反省してたから』
「はい」
プライベートな時間の部下の尻拭いまでしている。
礼を言いずらい。 礼を言うと迷惑をしたと言っているようなものだ。 願弦の部下が詩甫に迷惑をかけたと。
『じゃ、月曜日に謝らせるからさ、それで許してやってくれる?』
「はい」
結局礼を言えずに電話を切ってしまった。 詩甫が礼を言えないように話を持って行ったたのだろう。
口の上手いのは浅香だけではなかったようだ。 それとも詩甫が話し下手なのだろうか。
「姉ちゃん、お礼を言うって言ってたのに言えてないんじゃない?」
単行本を読んでいたと思っていたらしっかりと聞いていたようだ。
「言わせないように持っていかれちゃった」
「ふーん」
きっと祐樹には複雑な話であろう。
「ね、パァーっとしにボーリングに行こうか」
「うー・・・ん」
どうしたというのだろうか、いつもなら即答と同時に立ち上がるのに。
読んでいた単行本に栞代わりの紙きれを挟むとパタンと閉じた。
「お社のことどうなったの?」
「うん・・・まだ解決策が見当たらないの」
「明日行かない?」
「え?」
「オレだけお社に行く。 お社の様子を見てくる。 姉ちゃんは下で待ってて」
「駄目よ、それで祐樹に何かあったらどうするの」
「何もないよ。 浅香と姉ちゃんが話してたろ? 男は大丈夫だって」
そうだった、瀬戸の書いたファイルに指を這わせながら浅香が読み上げた中にそんなことも入っていた。 だがそれは間違った情報かもしれない。 男であっても親戚筋であれば花生が手をかけるかもしれないのだ。
祐樹は親戚筋ではない。 大婆も長治も親戚筋でなければと言っていた。 だから大婆一人で山に上がり、社に辿り着く前か後に花生によって山から落とされる。 社は関係ない、この山である、それの証人に親戚筋以外の男を伴うと言っていた。 親戚筋で無ければ良いと。
だが、だからと言って祐樹一人を社に行かせるなんてとんでもない。
詩甫は親戚筋ではない。 だが二度も現れたから花生に、大蛇に睨まれたのだ。 そして突き落とされた。 その詩甫である瀞謝と一緒にずっと掃除をしていた祐樹なのだから、何をされるか分からない。
いや、花生とは限らない。 詩甫がこの目でその姿を見たわけではないのだから。 でなければ花生が悲しすぎる。
「・・・駄目」
「姉ちゃんっ」
「解決策がまだ浮かばないけど、お社を忘れてるわけじゃないよ、祐樹まで怪我をしちゃったら朱葉姫が悲しむだけなのよ、それにお姉ちゃんも」
祐樹が下を向いてしまった。
「祐樹の気持ちだけで朱葉姫は嬉しいと思ってくれるから、ね?」
「・・・じゃ、山」
「え?」
「山の中の中には入らない、お社にもいかない。 でも山の下からでも・・・目だけで階段上がって坂を上るだけじゃ駄目? 大きな声で朱葉姫とご供養石にご挨拶するだけ。 それならいいだろ?」
「祐樹・・・」
祐樹の気持ちが有難い。
「ね? いいだろ?」
「でも今日の明日じゃ、浅香さんの予定が分からないよ」
「山の中の中に入るんじゃないから、浅香がいなくてもいいだろ?」
「・・・祐樹」
結局ボーリングには行かなかった。 拗ねているわけではないが、テンションの低い祐樹を連れて行っても楽しんではくれないだろう。
夕飯を終え風呂に入り、今は詩甫のベッドの横に布団を敷いて祐樹が寝息を立てている。
寝返りをうって祐樹の方を見る。
(大きな声でご挨拶・・・)
祐樹がそう言っていた。 それも一つかもしれない。 聞こえないかもしれないが、念じる、若しくは聞こえないかもしれないが声に出す。 耳に届かなくとも、それが第一歩かもしれない。 それが必要なのかもしれない。
(祐樹、有難う)
願弦が言っていた、詩甫一人では何も進まない、それをつくづくと感じる。
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- 国津道(くにつみち)- 第38回
ラインを開ける。
『酔っぱらった座斎がそっちに向かった! 家にいるならすぐに鍵かけて電気消せ! 外なら帰るな!』
今日は期末で忙しくしていた現場とその関係の課が一緒になって打ち上げに行っている。 加奈は労務課だから期末の忙しさは関係無いのだが、何故か参加していた。 それは加奈から聞いて知っていた。 詩甫は祐樹が来るからと欠席をしていた。
「えー!?」
詩甫の声に単行本を読んでいた祐樹が顔を上げる。
すぐに着信音が鳴った。 当の加奈からである。
『やっと既読になった! 今どこ?』
「家」
『もうそっちに着くはずよ、すぐに鍵と電気!』
「は、はいっ!」
『大声出さない!』
「うぇ~ん」
『泣いてる暇はない! サッサと動く!』
玄関は詩甫が帰ってきた時に鍵をかけていた。 でもかけ忘れていないか、スマホを耳に充てたまま確認に行く。 廊下の電気を点けかけてその手を止める。 開け放したドアからリビングの零れてくる明かりで鍵がかかっているのを確認すると、踵を返してリビングの電気を消した。
「おわっ!」
何も予告されていなかった祐樹が声を上げる。
『なに、今の声』
「義弟、祐樹」
『代わって、理由を説明するから。 詩甫は声を出さない、分かった?』
「うん」
『声出すなって』
無茶を言う・・・。
スマホの明かりに照らされた詩甫が口元に人差し指を立てながら、祐樹にスマホを渡す。 何だろうと思いながらも小声で「もしもし」 と言う。
『祐樹君? 加奈よ、覚えてるよね』
加奈と祐樹は会ったことがある。 朧気ながらその名前と会ったということだけは覚えている。
「うん」
『いい? 今から声を出さないで。 返事もしなくていいから』
「うん」
『おいこら!』
思わず祐樹が口を押えた。 完全に加奈を思い出した、怖いお姉さんだった。
『もしかしてだけど、もう少ししたらチャイムが何度も鳴ったり、ドアが叩かれるかもしれないけど、絶対に出ちゃダメ。 完全に居留守を装う。 居留守って分かるよね、居ない振りをすること。 恐い思いをするかもしれないけど、助けが行くまでお姉ちゃんを守んなさい。 今お姉ちゃんを守れるのは君だけなんだからね』
詩甫の手には小さなライトが持たれていた。 夜遅く帰って来る時用に、いつもバッグの中に入れているものである。 窓側にも玄関側にも向けていない。 下に向け足元を照らしている。 小さなライトだけに照らす範囲は広くない。 明かりの片隅で祐樹が頷いているのを見て、加奈との間に話が成り立っているのだと感じた。
『すぐにお姉ちゃんにスマホを渡して電源を切るように言って』
通話は加奈の方から切られた。
祐樹が詩甫を見上げ、小声で加奈から言われたことを伝えながらスマホを渡すと、すぐに電源を切り二人で寝室に移動した。
「姉ちゃん・・・」
怖くて詩甫にしがみつきたかった。
加奈がどんな話を祐樹に聞かせたのか分からない。 詩甫が祐樹の頭を撫でてやる。
「大丈夫」
祐樹は加奈から、怖いお姉さんから言われた。 詩甫を守りなさいと、今守れるのは祐樹だけなんだと。
それなのに詩甫に励ましてもらってしまった。 加奈の言葉が何度も頭の中で響く。
そうだ、今は自分しかいないんだ。 自分が怖がっていてどうする。 詩甫は自分が守る。 詩甫を怖い目になんてあわせない。
「姉ちゃん、怖くなったらオレの手を握るといいからな」
詩甫が微笑んでいるのが分かる。
「うん、ありがと」
途端、チャイムが鳴った。
詩甫より祐樹の顔が強張る。
チャイムが連打するように何度も鳴る。 その内にドアがドンドンと叩かれだした。 チャイムとドアを叩く音。
怖いというより、恐怖しかない。
怖がりの祐樹が怖い映画を見ることは無かったが、アニメでは似たような場面を見たことがある。 コナンだっただろうか、それともジョジョかワンピースだっただろうか。
「おーいぃ、詩甫ちゃー、居るんらろー」
呂律の回っていない座斎の声がする。
「詩ー甫ーちゃー」
思わず詩甫が祐樹の手を握った。 その祐樹の手が震えていた。 祐樹も頑張ってくれているんだ。
「座斎さん、やめろって」
誰かが止めてくれている。 いくらかホッとできたが、座斎のそれは止まない。
幾度も繰り返していた中で何かを言う声がしたと思ったら、座斎が詩甫の名前を呼ぶ合間に「すみません」 という声が聞こえた。 きっと隣の部屋からの苦情だったのだろう。
その声はさっきの声とは違ったようだ。 少なくとも二人は居てくれているということだ。
座斎がまだドアを叩きチャイムを鳴らしている。 詩甫の名を呼んでいる。 止められているようだが手を振り払っているのだろう。 殆ど止まることなく繰り返されている。
「いい加減にしないと警察に通報されますよ!」
さっき座斎を止めていた声が聞こえた。
「だな、通報される前に逃がしてやるか」
え・・・っと詩甫が下げていた顔を上げた。
座斎を止めていた男が振り返る。
「弦さん、遅い」
男、座斎と同じく願弦の部下は途中で加奈から連絡を受けていた。 願弦がそっちに向かったと。
「これでもかっ飛ばしてきたんだよ。 付き合えよ」
願弦が足元のふらついている座斎を肩に担ぐと、ぐぇ、っと座斎の口から声が漏れた。
「おい、吐くなよ」
外の様子がどうなっているのかは分からなかったが、すぐに詩甫がスマホの電源を入れた。 すぐには立ち上がらない。
「詩ー甫ちゃー」
くぐもった座斎の声が遠ざかっていく。 願弦たちが階段を降りて行ったのだろう。
ようやく立ち上がったスマホをタップする。
『詩甫?! 大丈夫だった?』
「さっき外で願弦さんの声が聞こえて居なくなったみたい」
祐樹はその名前を覚えていた。 ラーメンを食べながらバレンタインの話をしているときに聞いた名前だ。 神主の学校を出ていて実家が神社とも言っていた。 そしていま詩甫を助けてくれた人だ。
『うん、遅れて来た願弦さんがすぐに家に戻って車をとって来るって言ってたから、車にぶち込んで家に送って行くんじゃないかな。 座斎を追って途中挫折して戻ってきた奴らには蹴りを入れといたからね』
相変わらず逞しい。
『それより大丈夫だった?』
「明日、お隣さんに謝らなきゃいけない程度」
『そっか、願弦さんギリアウトだったか』
「怖かったけど、祐樹がいてくれたから」
まだ握っている祐樹の手を軽く握ると祐樹も握り返してきた。
『弟君、役に立ったじゃない』
「うん」
『明日、酔いの冷めた座斎を願弦さんが説教しに行く筈よ。 当分は呑まないんじゃないかな。 まっ、少なくとも今日は安心して寝てちょうだい。 弟君に代わってくれる?』
もう終わったというのにどういうことだろうかと思いながら、祐樹にスマホを渡す。
祐樹もキョトンとしてスマホを受け取る。
「もしもし」
『よっ、ちゃんとお姉ちゃんを守ってくれたね』
怖いお姉さんだった。 思わず姿勢が良くなる。 握っていた詩甫の手を離して正座をすると膝の上に置いた。
「うん」
『お姉ちゃんの様子どうだった?』
祐樹がチラリと詩甫を見ると詩甫が立ち上がり、小さなライトをつけてリビングのドアに向かって歩いて行くところだった。
「怖かったみたい」
怖くなったら祐樹の手を握るといいと言っていた。 その手を握ってきたのだから。
『そっか。 弟君がいてくれて良かった。 アンパンマンだね。 ってことで、ついでにお姉ちゃんに暖かい飲み物を入れてあげてくれる? 牛乳なんてあるかな』
アンパンマン・・・さすがに祐樹もとうに卒業している。 完全に一度会った当時のままの祐樹を想像しているのであろう。 だがアンパンマンはバイキンマンをアンパンチで吹っ飛ばすけど、そんなことも出来なかった。 詩甫に手を握って良いというのが精一杯であって、その手が震えていたのが情けない。 少々、祐樹が落ち込む。
「牛乳は無いけど豆乳ならある」
詩甫がリビングから出るとそっと玄関に足を運ぶ。 スコープで見ても誰も居ない。
ドアを開け外を見る。 加奈の話から願弦は車で来ていたはずだ。 どこにも車など見当たらない。 もう座斎を乗せて出たのだろう。
『豆乳か・・・まっ、それでもいいか。 レンチンできる?』
「うん」
『じゃ、レンチンして温めてお姉ちゃんに飲ませてあげて。 ついでに弟君も飲みなさいね。 じゃね、お休み』
「お休みな・・・」
スマホの向こうから聞こえていた喧騒が消えた。 切られてしまった。 怖いお姉さんはすることが早いらしい。
パチリとリビングの電気が点いた。
「加奈、何を言ってたの?」
「うん、ちょっと」
立ち上がり詩甫にスマホを渡すとキッチンに足を運ぶ。 カップを出して冷蔵庫から出した豆乳を注ぐ。 二つまとめてレンジに入れる。
詩甫は急に電気が消されて投げっぱなしにされていた単行本を手に取った。 栞代わりの紙は挟まれていなかったが、折り目がつくことなくちゃんと置いていたようだ。
「さっきのって、姉ちゃんが頼りにしてる願弦さん?」
ブォ~ンとレンジが鳴っている前に立ったまま祐樹が訊いた。
詩甫が単行本を手にしながら振り返る。
「うん。 駆け付けてくれたみたい」
「優しいんだね」
「ドアをドンドンしてた人は酔っ払っちゃってたって加奈が言ってたけど、その上司だからね。 何かあったら責任取らなくちゃいけないし。 願弦さんならそんなこと関係ないだろうけど」
ピーピーピーとレンジが祐樹を呼ぶ。 どうしてレンチンというのだろうか。 どうしてレンピーピーではないのだろうか。 ふとそんなことを思いながら中から二つのカップを取り出し、スプーンでかき混ぜる。
そっと運んで来て座卓の上に置いた。
「加奈ちゃんに牛乳がないって言ったら、豆乳でもいいから温めて二人で飲みなさいって」
怖いお姉さんを思い出していた。 会ってすぐに『加奈ちゃんと呼びなさい』 と言われていたのだった。
そういうことか。 そういう会話をしていたのか。 詩甫自身のことも心配してくれたが、祐樹のことも心配してくれたのだろう。 詩甫に言わなかったのは男子である祐樹を立ててくれたのかもしれない。
「そっか。 ありがと」
カップを持つと一口飲んだ。 ほどよく温まった豆乳が喉を流れて胃に収まるのを感じる。 ホッとできる。
祐樹も同じように飲む。
「安心できるね」
「うん」
祐樹は何も混ぜない豆乳が苦手だったが、何故か張り詰めていた心が溶けていくようだ。
「怖い思いをさせてごめんね」
怖くなんてなかった、そう言いたかったが、震えている手を詩甫に握られていた。 だから
「豆乳って美味しいんだね」
詩甫が微笑んだ。
翌日の夕方、願弦に連絡を入れた。 加奈は願弦が説教に行くと言っていた。 その途中にスマホを鳴らしたくなかったからこの時間まで待っていた。
昨日は、と礼を言おうとしたら先に取られた。
『いやぁ~、あの馬鹿が迷惑かけちゃって。 親御さんともども説教をしておいたから、もうあんなことは無いと思うよ』
座斎の親ともなれば願弦よりずっと年上になるではないか。 その親も一緒に説教をしたとは、さすがは願弦である。
『悪かったな、もっと早く行ければ良かったんだけど。 怖かったろ』
加奈からラインを貰っていた。 加奈が願弦に連絡を入れると、詩甫の部屋の前であったことを願弦から聞いたという。 そして加奈は詩甫たちが部屋に居たことを願弦に伝えたということであった。 最後に全部願弦に任せるといいよ、と書かれていた。
その願弦は自分が悪いわけではないのに謝ってくる。 願弦とはそういう男だ。
『ま、簡単に許せないだろうが、初犯ってことで出来れば許してやってくれないか? 本人も全然覚えていなかったようだし、頭を抱えて反省してたから』
「はい」
プライベートな時間の部下の尻拭いまでしている。
礼を言いずらい。 礼を言うと迷惑をしたと言っているようなものだ。 願弦の部下が詩甫に迷惑をかけたと。
『じゃ、月曜日に謝らせるからさ、それで許してやってくれる?』
「はい」
結局礼を言えずに電話を切ってしまった。 詩甫が礼を言えないように話を持って行ったたのだろう。
口の上手いのは浅香だけではなかったようだ。 それとも詩甫が話し下手なのだろうか。
「姉ちゃん、お礼を言うって言ってたのに言えてないんじゃない?」
単行本を読んでいたと思っていたらしっかりと聞いていたようだ。
「言わせないように持っていかれちゃった」
「ふーん」
きっと祐樹には複雑な話であろう。
「ね、パァーっとしにボーリングに行こうか」
「うー・・・ん」
どうしたというのだろうか、いつもなら即答と同時に立ち上がるのに。
読んでいた単行本に栞代わりの紙きれを挟むとパタンと閉じた。
「お社のことどうなったの?」
「うん・・・まだ解決策が見当たらないの」
「明日行かない?」
「え?」
「オレだけお社に行く。 お社の様子を見てくる。 姉ちゃんは下で待ってて」
「駄目よ、それで祐樹に何かあったらどうするの」
「何もないよ。 浅香と姉ちゃんが話してたろ? 男は大丈夫だって」
そうだった、瀬戸の書いたファイルに指を這わせながら浅香が読み上げた中にそんなことも入っていた。 だがそれは間違った情報かもしれない。 男であっても親戚筋であれば花生が手をかけるかもしれないのだ。
祐樹は親戚筋ではない。 大婆も長治も親戚筋でなければと言っていた。 だから大婆一人で山に上がり、社に辿り着く前か後に花生によって山から落とされる。 社は関係ない、この山である、それの証人に親戚筋以外の男を伴うと言っていた。 親戚筋で無ければ良いと。
だが、だからと言って祐樹一人を社に行かせるなんてとんでもない。
詩甫は親戚筋ではない。 だが二度も現れたから花生に、大蛇に睨まれたのだ。 そして突き落とされた。 その詩甫である瀞謝と一緒にずっと掃除をしていた祐樹なのだから、何をされるか分からない。
いや、花生とは限らない。 詩甫がこの目でその姿を見たわけではないのだから。 でなければ花生が悲しすぎる。
「・・・駄目」
「姉ちゃんっ」
「解決策がまだ浮かばないけど、お社を忘れてるわけじゃないよ、祐樹まで怪我をしちゃったら朱葉姫が悲しむだけなのよ、それにお姉ちゃんも」
祐樹が下を向いてしまった。
「祐樹の気持ちだけで朱葉姫は嬉しいと思ってくれるから、ね?」
「・・・じゃ、山」
「え?」
「山の中の中には入らない、お社にもいかない。 でも山の下からでも・・・目だけで階段上がって坂を上るだけじゃ駄目? 大きな声で朱葉姫とご供養石にご挨拶するだけ。 それならいいだろ?」
「祐樹・・・」
祐樹の気持ちが有難い。
「ね? いいだろ?」
「でも今日の明日じゃ、浅香さんの予定が分からないよ」
「山の中の中に入るんじゃないから、浅香がいなくてもいいだろ?」
「・・・祐樹」
結局ボーリングには行かなかった。 拗ねているわけではないが、テンションの低い祐樹を連れて行っても楽しんではくれないだろう。
夕飯を終え風呂に入り、今は詩甫のベッドの横に布団を敷いて祐樹が寝息を立てている。
寝返りをうって祐樹の方を見る。
(大きな声でご挨拶・・・)
祐樹がそう言っていた。 それも一つかもしれない。 聞こえないかもしれないが、念じる、若しくは聞こえないかもしれないが声に出す。 耳に届かなくとも、それが第一歩かもしれない。 それが必要なのかもしれない。
(祐樹、有難う)
願弦が言っていた、詩甫一人では何も進まない、それをつくづくと感じる。