大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第2回

2018年12月14日 23時58分24秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第2回



紫揺 (しゆら) が進路指導室を出て行った後、進路指導の教師の頭の中には2年前の出来事が過 (よぎ) っていた。

「今思えば懐かしいか・・・」 

足をドンと床に着くと椅子から立ち上がり窓際に立った。 2階の進路指導室からは素晴らしい眺望には程遠く、グラウンドで走る部活に励む生徒の姿が見える。


2年前、紫揺が1年の秋。 2泊3日の野外学習での出来事だった。 野外学習では自然を感じるというのがテーマだった。 宿泊施設には山や河川があり、人工の物ではアスレチックもあった。 とは言え、ほとんどが自然を利用して作ったものである。

そのアスレチックで紫揺はとんでもないことをしでかした。

紫揺の動きがおかしいことに一人の引率の教師が気付いた。
所々、引率の教師が見守る中、友達とはしゃぎながらアスレチックを楽しんでいた紫揺だったが、急に友達から離れて場所を移動しようとした。 それに気付いた友達が紫揺に声を掛ける。

「シユ、何処に行くの?」 他の友達も振り返る。

「あ、さっきの場所に忘れ物をしちゃった。 先に次の所に行ってて」

「一緒に行こうか?」

「いいよ。 すぐに追いつくから」

「そう? じゃ、先に行ってるからね」 淡白な返事を返した。 何故なら、友達たちは薄々気づいていた。 紫揺が何をしたいのか。

器械体操部は突然に宙返りをしたくなるらしい。 これを心得ていた。 
例えば、器械体操部と下校していると急に宙返りや、ターンをする。 これは紫揺に限らず、器械体操部の一種の病気と心得ていた。

「シユ、遠慮しちゃってるけど、絶対何かやるわよ」 バスケ部員が言う。

「ふふ、手も足もウズウズしてるんじゃない?」 これはテニス部員だ。

「言えてる」 最後に言ったのはバトミントン部員だ。

「どうする? シユを見る? それとも次に行く?」

「決まってる。 シユを見る」 残りの二人も頷くと、五人が目を合わせ紫揺の後をソロっと尾けた。

その時だった。 紫揺が不自然に身を隠しながらキョロキョロとしている。 「なんだ?」 と思い、引率の教師が紫揺の後を追おうとしかけた時、紫揺のクラスメイトが紫揺から見えないように、後を尾けているではないか。

すわ、イジメか!? と引率の教師が疑った。 
引率の教師が紫揺ではなく、紫揺のクラスメイトの後を静かに追う。

「ユラ遅いよー」

先に居たのは体操部員16人。 この中で紫揺を含む3人が引き抜きで、あとは一般入部部員だ。

「シーッ! 先生にバレるよ」 言いながら藪から出てきた。

「大丈夫だよ。 もうこの辺りには生徒がいないから、先生もいないよ」

「だといいんだけどね」 木に手をかけた。

「思いっきりやろうよね」 こちらも木に手をかける。

友達とおしゃべりしながら遊ぶのも楽しいが、他部員が居ては、単にアスレチックをこなすだけで、面白みがない。 身体のウズウズが止まらない。 それは機械体操部員全員同じだった。 だからこうして、他生徒が居なくなってから機械体操部員だけで遊ぼうということになっていた

「あれ・・・体操部?」

紫揺のクラスメートの後をつけていた教師が、クラスメート越しに前を見ると、器械体操部の面々が見える。 そして訝し気に紫揺たちの様子を見ていた教師が眉を顰めた途端、目を剥いた。

普通なら2本縄で宙づりにされた丸太の上を次々と渡っていくというものなら、男子女子ともに宙づりにしている丸太の両端の綱をしっかり手で持ち、足の裏で丸太をしっかりと踏んで、次の丸太に移動する。

それを紫揺にさせれば、一本目の丸太でまるで鉄棒のように前回りをしたかと思うと、そのまま膝裏を次の丸太にかけて移動する。 次に逆さまになった状態を腹筋で起きてくると、膝裏で捉えている丸太に手をかけ膝を伸ばし、そのまま丸太に尻から背中を滑らせて上がっていき、難なく丸太に座る。 次の丸太へはまた違うことをしてと、紫揺にとってはこれ以上に楽しいことはなかった。

「さっすが、ユラ。 私にはそんなことできないよー」 一般入部部員が言う。

「やりたかったらやればいいよ。 出来るから」

「出来るわけないし・・・」

「ユラって、自分のことを全然わかってないよね」

「へっ? 楽しいことをしてるだけだよ」

「楽しいって・・・」

ほかにも、傾斜のある道に長くロープが引かれていて、そのロープには持ち手の木の上に滑車がついている。 出発地点には数段の階段が設けてあり、そこに上がり持ち手の木をもって勢いよく上から下へ滑り降りていくのだが、最初は3メートルほどの足の届かない高さであっても、最終地点には地面にかなり近づいている。 150センチ強の身長の紫揺であれば膝を曲げて立つくらいの高さになる。

それをした時には、出発地点は皆と同じだったが、最後の着地では男子が数人なんとかこけずに済んだくらいで、女子においては全員尻もちをついていたところを、滑車がまだ走っているというところから、自分の身体を前後にあふると最後の手前で、そのまま飛び降りるということをした。 

「ユラ、あんまり危険なことしちゃだめだよ。 怪我でもしたら練習に差し支えるよ」 紫揺と共に引き抜きで入った一人が言うと、もう一人もそうだよと、頷く。

陰から見ていた友達たちが 「やっぱりね」 と声を合わせるが、引率の教師はずっと呆気に取られていてその声が聞こえない。 イジメどころか、危険を伴う。

紫揺はいかにも楽しげな顔で、まだまだ色んなことをやってのけていたが、引率の教師がいないところでそんなことを次々とされては一大事である。

我に返った引率の教師が 「コラ―! 怪我をしたらどうする!」 と雷を落とした。 

教師の前に居たクラスメートたちが飛び上がって後ろを振り返った。

それが当時の引率の教師であり、今は進路指導の教師であった。
未来の進路指導の教師は

「体操部は解散! つるんでないでバラバラに他のことをしに行け」

「えー・・・」

「えー、じゃない。 それと藤滝、お前はここで何をするか分からん! 河原で遊んで来い!」

「先生、横暴!」 一般入部部員が言う。

「でも言えてるかも。 これ以上ユラに何か遊ばせたらブレーキが利かないかも」 引き抜きの部員。

「ユラの遊びは後先見ないもんね」 これも同じく引き抜きの部員。

「どうしてそんなこと言うかなぁ。 楽しいだけなのに」

二人が目を合わせ溜息を吐く。

「怪我したら元も子もないでしょ?」

「しないって」

「いいから! 藤滝は河原に行け!」 他の部員は節操があるようだ。 無茶はしないだろうが、当分自分が目を光らせておこう。

「はーい、じゃね」 他の部員に手を振り、案外諦め早く河原に向かおうとした紫揺に、クラスメートが駆け寄る。

「シユ、河原に行っちゃうの?」

「あれ? どうしてここに居るの?」

「あ、それはちょっと」 エヘヘ、と誤魔化す。

「先生が行けって言うから行ってくる」

「付き合おうか?」

「いいよ。 朋美ちゃん、水が嫌いでしょ?」 バスケ部の目を見て言う。

「う・・・」

「朋美ちゃんに付き合ってあげて。 じゃね」

いともあっさりと、河原に向かって行く紫揺。 教師は拍子抜けしたところが若干あるが、無難に終わらせるのが何より。

「ほら、体操部、バラバラに遊び・・・じゃない、野外学習だ、自然を感じてこい」

「はーい」

暫くは遠目に体操部の様子を見ていたが、無茶なことをする様子が見られない。 と、さっき紫揺にああは言ったものの、紫揺が何かをしでかしているのではないかと気になり、他の教師に声を掛けて河原に行ってみた。
河原近くに行くと、他の教師の大きな声が聞こえてきた。

「藤滝!! 何をしてる! 戻ってこい!」

ああ、やっぱり何かしでかしている・・・。 と、頭を抱えたかったが、そんなことをしている暇はない。
足場の悪い河原に降りる道を足早に降りると、叫んでいた教師の目の先を見た。 すると川の中の岩をピョンピョンと跳んで遊んでいる紫揺が目に入った。
川の流れは早く、深さもあるようで水の色は深緑になっている。

「先生、大丈夫。 落ちても泳げるから」

「そんな問題じゃない! 戻ってこい!」

叫んでいる教師に走り寄り、横に立った未来の進路指導教師。

「先生、すみません。 アスレチックでとんでもないことばかりしていたのでこっちに来させしたが、まさかあんなことをするなんて」

「アスレチックでも何かやらかしてたんですか?」 二人とも会話をするが、目は紫揺を見たままだ。

「おい! 藤滝!! お前の顧問に言いつけるぞ!」 未来の進路指導教師が大声で怒鳴った。

「え? 顧問? ・・・ヤバ」 言うとすぐに跳んできたと同じ岩を跳んで河原まで戻ってきた。 

勿論、紫揺がひと跳びする度に教師二人の肝はすくみ上っていた。 それがあったからなのかは分からないが、この後に教師二人からコンコンと言われたのは言うまでもない。

そして未来の進路指導教師が紫揺の首根っこをとると河原を後にして、山に入っていった。
山といってもしれた山なのだが。

歩いていると紫揺が急に止まった。

「どうした?」

「なんでもないです」

少し離れた所に紫揺の顔の高さに枝がちょうど出ていた。 紫揺は枝から目を逸らし、そんなに広くない道を真っ直ぐに歩かず、半円を描くように歩き出した。 未来の進路指導教師から見れば何かに怖がっているように見えた。 紫揺の見ていた目の先を見ると、先に入ってきた誰かが枝に引っかかったのだろうか、枝の先が裂かれ、まるでナイフのように尖っていた。

「先生どうしたんですか?」

「あ、何でもない」

少し歩くと木で作られた2脚の椅子があった。 雨や陽に当たらないようになのか、上左右後ろの4辺を木で作られた箱のような形をしているその中、正面の空いている所にその2脚の椅子が入っていた。

「あそこに座ろうか」

「・・・」 じっとその箱のような物を見ている。

「藤滝?」

「狭い空間は好きじゃないです」

「話があるんだよ。 座って落ち着いて話したいし、あそこなら陽に当たらないだろう。 焼けちゃダメなんだろ?」 焼けあとがついてしまっては、レオタードを着た時にひびく。

見上げた空は抜群の秋晴れとなっていて、この場所は木々が少なくしっかりと陽が降り注いでいる。

「座ろう」 言って、紫揺の腕をとると引っ張りかけた未来の進路指導教師の手を思いっきり振り払った。

「狭いところはイヤだって!!」 先ほどの枝を怖がった時以上の反応だった。

その異様さに未来の進路指導教師は目をパチクリさせたが、すぐ我に返って辺りを見た。

「分かったよ。 じゃあ・・・」 目を先に向けるとベンチがあった。 陽がバッチリと当たる場所だが。 

まぁ、でも今更だ。 さんざん陽の下で遊んでいたのだから。
そこに紫揺を座らせた。

「おい、藤滝。 お前、自分の身体を考えろ。 怪我なんてしたら試合に出られなくなるだろう」

「怪我なんてしません」

「ホンットに・・・」 頭をポリポリと掻くと紫揺の横に座った。 その時、木で出来たベンチが大きく揺れた。

「わっ! 先生! 危ないじゃないですか!」

「ああ、悪い」

「自分の身体のデカさ考えて下さい」 目を眇めてみせた。

この未来の進路指導教師は、柔道部顧問である。 とは言っても、試合に出れば1回戦負けの軟弱柔道部であったが。

「このまま後ろに転げて道の端っこに出たら・・・」 そのあとの言葉は言わなかった。

「だから、悪かったって。 あのなぁ顧問なぁ。 お前のとこの」 紫揺が訝し気な目を向けた。

「告げ口するんですか。 今日のことを」

「しないよ。 そんな話じゃない。 そうじゃなくて、お前に期待してるんだ、顧問は。 俺はその話を聞かされている。 だから、俺の引率のあるところでお前に怪我をさせるわけにはいかないんだよ」

「怪我なんかしないって言ってるじゃないですか」

「ホンットに強情だな。 顧問が言ってた通りってやつだな」 紫揺がもう一度目を眇めて見せる。

「強情で食べ物の好き嫌いが多い。 全くそんな奴ほど、どんどん伸びるってさ」


夜、見回りを終えた未来の進路指導教師が布団に入るとふと思った。

「藤滝は・・・あの様子から見ると閉所恐怖症か? 尋常じゃなかったもんな・・・。 あ、待てよあの木の枝、あの時も普通じゃなかった・・・。 あの枝、先が尖っていたよな。 顔の前に急に出たのならわかるけど、少し離れたところの顔の横だったのに。 もしかして先端恐怖症か? って、なんだよ。 どれだけ怖がりなんだよ。 それなのにあんなとんでもないことばっかり・・・あ、待てよ。 そう言えば」 未来の進路指導教師が記憶をたどった。 

アスレチックで色々やってのけてはくれたが、みんなそんなに高さのないものばかりだった。 高さのある単純な長い滑り台でさえしていなかった。

「それに・・・。 ベンチに座ろうとした時・・・」

『このまま後ろに転げて道の端っこに出たら・・・』 言いたいだけ言っておいて言葉を止めた。 あのまま道の端っこに出たら、崖になっていた。

「え? 高所恐怖症もあるのか?」


結局学校での紫揺の言い分は通った。
学校から何の推薦も受けず、家事手伝いとなり卒業式を終えた紫揺は独りでスタントマンへの門を叩く事となった。


東京に旅立つ10日前の夜、まだ残業で帰ってこない父親をおいて母娘で夕飯をとっていた。

「紫揺ちゃん、来週から本当に東京に行っちゃうの? 一人で大丈夫なの?」

「お母さん、大丈夫よ。 ちゃんとマメに連絡入れるから。 それよりお母さん寂しくない? 大丈夫?」

学校ではやりたい放題、言いたい放題だが、苦労をして育ててくれた両親には気遣う心を持っている。

「お母さんにはお父さんが居てくれるから大丈夫よ。 それに紫揺ちゃんがプレゼントしてくれた旅行にも行ってくるから」

紫揺が東京に発つ前に、細々と貯めた小遣いで両親に一泊二日のツアーをプレゼントしていた。

「うん、明日から楽しんできてね。 お母さんは家のことと仕事で大変だったんだから。 この静岡温泉旅行を切っ掛けにこれからはゆっくりとして。 それに私が働きだしてお給料をもらえたら今度はハワイの旅行だからね」 おどけたように言うと、母親が相好を崩した。

「そうね、ありがとう。 明日と明後日、お父さんとゆっくり温泉に浸かってくるわね」

「うん。 富士山を仰いできて」 この上なくにこやかに答えた。

「ね、紫揺ちゃん」 さっきまでと違ったどこか機微を含む表情を向けた。

「なに?」

「お婆様とお爺様のお話はちゃんと覚えてる?」

他人が聞けば首を傾げるであろう。 どこの富豪でもなければ、共働きをしなければならないほどの生活なのに、祖父母のことをお爺様お婆様と呼ぶのだから。

「うん、とっても素晴らしいお爺様とお婆様でしょ?」

「ええ、そう」


祖父は働きに働き続けた。 祖母をこれ以上なく大切に大切にして。 そして祖父が43歳、祖母が38歳の時に初めて生まれたのが、紫揺の母、早季であった。

早季と言う名は “早くその季節が来ますように” という願いをもって名付けられた。 そしてその早季が年頃になったとき、紫揺の祖父母であり早季の両親の前に十郎を連れて来た。 両親は顔色を変えたが、何度も足を運んでくる十郎と話すたび、その人となりを知り早季をその手に預けることを決心した。

この時に十郎は思いもしない話を聞かされた。 一瞬顔色が変わったが、それがどうであれ早季をずっと守っていく。 義父が義母を大切にしてきたと同じ様にと、腹を据えた。

「お義父さんがお義母さんを守ってこられたように、私が早季さんを守り抜きます。 大切にします」 正座をし両手をつくと、畳に額を押し付けて頭を下げた。

早季を十郎の手に託した紫揺の祖父が、働きすぎがたたり67歳の時に倒れた。 そして翌翌年に亡くなってしまった。 祖父を亡くし憔悴しきった祖母がその後を追うように同年亡くなった。

早季が紫揺を身ごもったのがその翌年だった。

「お婆様はお爺様のことが大好きでいらっしゃったんだよね」

「ええ、とても愛していらっしゃった。 プロポーズをしたのはお婆様からだったんですものね。 それに何よりも誰よりも大切にしてもらっていらっしゃった。 そしてそのお婆様は私を大切にして下さって・・・お婆様とお爺様に紫揺ちゃんを見て頂きたかったわ」

「うん、私もお逢いしたかった」 以前に母親から聞いたことがあった。 お婆様からのプロポーズの言葉を。 何と真っ直ぐな人なのだろうと思った。

母親が自分の両親、紫揺の祖父母のことを話すときには必ず敬語であった。 紫揺もその影響を受けて敬語で話すようにしている。

「お婆様はお郷に帰ることだけを夢見ていらっしゃったのよ。 お爺様と一緒にお郷にね。 そしてお爺様はお婆様をお郷に返してあげたいと、時折言ってらしたわ」

「お郷? 帰ることが出来ないわけがおありだったの?」 

写真を見る限り他国の顔をしていない。 簡単に帰ることが出来るはずなのに。

「ええ・・・。 帰りたくても帰ることが出来なかったの」

「そのお話は聞いてないわ。 どうして? どうして帰ることが出来なかったの?」

自分に親戚が少ない事は分かっていた。 
父、十郎の親戚以外、母の早季の方に親戚がいないのを不思議に思っていた。 早季に兄弟がいないのだから早季側の従兄弟がいないことは分かるが、それでも早季の側の親戚の話を全く聞かない。 それが気にならなかったと言えば嘘になる。

「もしかしたらお爺様とお婆様は駆け落ちとか?」

「紫揺ちゃん!」 

「あ、・・・ごめんなさい」 初めて聞いた母親の大きな声だった。

「あ・・・お母さんこそごめんね、大きな声を出して。 でもね・・・そんなものじゃないの。 お婆様とお爺様は・・・帰りたかったの。 お郷もお婆様とお爺様が一日も早く帰ってこられることを望んでいらっしゃったの。 でもね、その道が分からなかったの」 紫揺を見つめると視線を外し、間を置いて小さく言った。

「私もそこで生まれるはずだったのにね・・・」

「え? なに?」

紫揺に問われて顔を上げた。

「うん? ・・・お母さんもね、お婆様たちのお郷に帰りたかった」

「え? お婆様のお郷に行くんじゃなくて、帰りたい?」 『その道が分からなかったの』 と言う言葉が何より気になったが、今は母親の方が気になった。

紫揺の言葉に笑みで返された。 きっと 『その道が分からなかったの』 ということがどういう事か聞いても笑みで返されるだけだろう。 聞いてはいけない事なんだと思った。

「あのね、前から不思議だったんだけど」

「なに?」

「どうしてお母さんの名前の由来が “早くその季節が来ますように” なの?」

「ええ・・・」 言うと頭をもたげた。

「お母さん?」

「紫揺ちゃん・・・紫揺ちゃんが二十歳になったら話そうと思っていたことがあるの」

「二十歳になったら?」

「ええ、そう。 でももう、紫揺ちゃんに話したほうがいいかもしれない。 お父さんとお母さんが旅行から帰ってきたら話すわね。 その時にお母さんの名前の由来と紫揺ちゃんの名前の由来も話すわ」

「・・・うん、分かった」 何か目に見えないものが母と自分の間に渦巻いているような気がした。



翌日早朝、父母を駅まで見送った。

その夕方、東京行きの荷物をある程度まとめていると戸を叩く音がした。

「あれ? 誰だろ」

玄関の硝子の引戸を開けると思いもしないものを見せられ、名を告げられた。

「静岡県警掛野署の坂谷と言います。 藤滝紫揺さんは御在宅でしょうか?」

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