毎日が当たり前に来ているんじゃない。
そう思うと ほんの小さな事にでも気付くって 大切なことだと思うのですが。
私たちの一日の中は 何気なくあって何気なく終わるものではないと思います。
よく時候の挨拶などで 「寒くなってきましたが 皆さんお元気ですか?」 と聞かれると 「お陰様で 皆元気にしております。」 等と言うお返事をいたしますが この 「お陰様」 というのは どなた様かご存知でしたでしょうか?
あえて考えたことは無かったのですが そう聞かれると 私はてっきり 「貴方様」 とどこか知らずに考えていたようなのです。
時候のご挨拶をして下さっている 「貴方様」 のお陰で皆元気にしております。 と思っていました。
言ってみれば 社交辞令のように考えていました。
それが以前、そうでないことを聞きました。
あくまでも 人それぞれ考え方はあると思います。 それを否定することではありません。
「お陰様」 というのは 陰から見守って下さっている方々のことだそうです。
分かりやすく言えば この世に肉体を持たない方々。 私たちを陰から見守って支えて下さったり、導いたりとして下さっているらしいのです。
何も見返りを求めない 「お陰様」 です。
その 「お陰様」 は一生懸命に私たちに危険を知らせて下さったり、一人じゃないよここにずっと一緒に居るよ悲しまなくていいんだよ、何を不安に思っているの暖かく包んでいるよ
そんなメッセージを 一日中私たちに送ってきて下さってもいるようです。
本来なら 強く 「一日中メッセージを送って下さっているのです」 と書きたいのですが 俗に言う そういう能力とでも言いましょうか、そういうものがあるわけではないので 又聞きの言葉でしか書けません。
実は前回 「私は不安を手放せない」 ということを書きましたが
ずっと一年くらい不安に思っていることがあったのですが ほんの少しのことで 解決が出切る事は分かっていたのです。
ですが その解決をする勇気が無く、また恐怖でもありました。
一年は苦しいです。
そんな時、不安の日記を書く少し前でしたが 一日中長い間 同じ椅子に座っていなくてはならないことがありました。贅沢な椅子でしたので疲れるということはありません。
最初は何も気付かなかったのですが 一日も終わろうかとするくらいに ふと頭をもたげていた 背もたれの頭の所にある ヘッドカバーというのでしょうか 横を向いたときにそれが目に入ったのです。
二色が交互に椅子の頭の所に掛けてあったのですが その色が このブログのサイドバーにある 折り鶴の色と全く同じだったのです。
座っている間は 何をすることもなく ただ、ボーっとしているだけだったのですが 何も考えなくていいということは 言い換えればその時気になっていることが 頭に浮かんできてしまう時間でもあります。
ずっと 手放せない不安ばかりを考えていました。
でも 何処を見渡しても交互にその色があるのです。
もしかしたら 「不安に思う必要は無い」 と教えて下さっているのだろうか。
少しでもメッセージに気付きやすいように 私に一番分かりやすい色で示して下さっているんだろうか。 ふとそんな考えが浮かびました。
二日後くらいに 勇気を振り絞り、恐怖を横に置き 解決の道を選びました。
するとどうでしょう 私自身の不安の気持ちもそうですが 何より不安に思っていた事柄が 風に飛ばされる葉のように 軽く簡単に飛んで行ったのです。
もし 「お陰様」 からのメッセージだったとしたならば 本当に有難いことでした。
それに もしかして 「お陰様」 はもっと前からメッセージを送って来て下さっていたのかも知れません。
私がそれに全然気付かなかったのかもしれません。
「お陰様」 はこれでもか、これでもか と手を変え品を変えして下さって やっと色で私が気付いたのでしょう。
長い間 お手を取らせてしまったようです。
私たちの一日中には こうして当たり前でなく 「お陰様」 や また肉体を持っている方々、その他からの 色んなメッセージが当たり一面散りばめられているのかもしれません。
色んな事を当たり前と思わず 一つ一つに目を向け 色んな事に気付ければと思います。
そうすれば 感謝の気持ちも増していき 怒りや不安などは不必要なものであると心から思え 手放すことが出来るかもしれません。
それに 肉体を持っているのは他人様だけではありません。 自分自身もそうです。
自分の肉体からのメッセージも沢山あるんでしょうね。
目があるから花が見られる。
耳があるから小鳥のさえずりが聞ける。
足があるから走ることが出来る。
この身体があるからメッセージを受けることが出来る。
空気があるから息が出来る。
水の恵み。
日の恵み。
数え切れないほどの 感謝だらけです。
今日も思いのままに書いてしまって 言いたいことが伝えられましたでしょうか?
そう思うと ほんの小さな事にでも気付くって 大切なことだと思うのですが。
私たちの一日の中は 何気なくあって何気なく終わるものではないと思います。
よく時候の挨拶などで 「寒くなってきましたが 皆さんお元気ですか?」 と聞かれると 「お陰様で 皆元気にしております。」 等と言うお返事をいたしますが この 「お陰様」 というのは どなた様かご存知でしたでしょうか?
あえて考えたことは無かったのですが そう聞かれると 私はてっきり 「貴方様」 とどこか知らずに考えていたようなのです。
時候のご挨拶をして下さっている 「貴方様」 のお陰で皆元気にしております。 と思っていました。
言ってみれば 社交辞令のように考えていました。
それが以前、そうでないことを聞きました。
あくまでも 人それぞれ考え方はあると思います。 それを否定することではありません。
「お陰様」 というのは 陰から見守って下さっている方々のことだそうです。
分かりやすく言えば この世に肉体を持たない方々。 私たちを陰から見守って支えて下さったり、導いたりとして下さっているらしいのです。
何も見返りを求めない 「お陰様」 です。
その 「お陰様」 は一生懸命に私たちに危険を知らせて下さったり、一人じゃないよここにずっと一緒に居るよ悲しまなくていいんだよ、何を不安に思っているの暖かく包んでいるよ
そんなメッセージを 一日中私たちに送ってきて下さってもいるようです。
本来なら 強く 「一日中メッセージを送って下さっているのです」 と書きたいのですが 俗に言う そういう能力とでも言いましょうか、そういうものがあるわけではないので 又聞きの言葉でしか書けません。
実は前回 「私は不安を手放せない」 ということを書きましたが
ずっと一年くらい不安に思っていることがあったのですが ほんの少しのことで 解決が出切る事は分かっていたのです。
ですが その解決をする勇気が無く、また恐怖でもありました。
一年は苦しいです。
そんな時、不安の日記を書く少し前でしたが 一日中長い間 同じ椅子に座っていなくてはならないことがありました。贅沢な椅子でしたので疲れるということはありません。
最初は何も気付かなかったのですが 一日も終わろうかとするくらいに ふと頭をもたげていた 背もたれの頭の所にある ヘッドカバーというのでしょうか 横を向いたときにそれが目に入ったのです。
二色が交互に椅子の頭の所に掛けてあったのですが その色が このブログのサイドバーにある 折り鶴の色と全く同じだったのです。
座っている間は 何をすることもなく ただ、ボーっとしているだけだったのですが 何も考えなくていいということは 言い換えればその時気になっていることが 頭に浮かんできてしまう時間でもあります。
ずっと 手放せない不安ばかりを考えていました。
でも 何処を見渡しても交互にその色があるのです。
もしかしたら 「不安に思う必要は無い」 と教えて下さっているのだろうか。
少しでもメッセージに気付きやすいように 私に一番分かりやすい色で示して下さっているんだろうか。 ふとそんな考えが浮かびました。
二日後くらいに 勇気を振り絞り、恐怖を横に置き 解決の道を選びました。
するとどうでしょう 私自身の不安の気持ちもそうですが 何より不安に思っていた事柄が 風に飛ばされる葉のように 軽く簡単に飛んで行ったのです。
もし 「お陰様」 からのメッセージだったとしたならば 本当に有難いことでした。
それに もしかして 「お陰様」 はもっと前からメッセージを送って来て下さっていたのかも知れません。
私がそれに全然気付かなかったのかもしれません。
「お陰様」 はこれでもか、これでもか と手を変え品を変えして下さって やっと色で私が気付いたのでしょう。
長い間 お手を取らせてしまったようです。
私たちの一日中には こうして当たり前でなく 「お陰様」 や また肉体を持っている方々、その他からの 色んなメッセージが当たり一面散りばめられているのかもしれません。
色んな事を当たり前と思わず 一つ一つに目を向け 色んな事に気付ければと思います。
そうすれば 感謝の気持ちも増していき 怒りや不安などは不必要なものであると心から思え 手放すことが出来るかもしれません。
それに 肉体を持っているのは他人様だけではありません。 自分自身もそうです。
自分の肉体からのメッセージも沢山あるんでしょうね。
目があるから花が見られる。
耳があるから小鳥のさえずりが聞ける。
足があるから走ることが出来る。
この身体があるからメッセージを受けることが出来る。
空気があるから息が出来る。
水の恵み。
日の恵み。
数え切れないほどの 感謝だらけです。
今日も思いのままに書いてしまって 言いたいことが伝えられましたでしょうか?