奈良のお水取り 2017年3月1日
本日から14日まで、東大寺の修二会「お水取り」です。
午後19時~19時半の二月堂の松明は、とこしえの魂の連鎖を連想します。
今年で1266回。
私は、あの巨大な大仏殿を前にすると心がすっきり澄み渡り、晴れやかになるのです。二月堂は、自分の魂の故郷ですし、とにもかくにも東大寺を歩く事が私のアイデンティティの統合のツールの一つであるのです。
途切れることなく1266回、つまり1266年続けてきた儀式の事実は、人の一生の連鎖の証しとも云う事ができましょう。
二月堂を見上げ小路を歩くと「自分が東大寺で学ぶ小僧で、巻子(かんす)を両手で持ち、草鞋を履い裸足の足がパタパタと急ぎ足である感覚」が蘇ります。
きっと自分の遺伝子に、それを経験した坊さんがいるのだと確信しているのです。仏教の宗派を超えた学び舎の跡地に立つと、尚更その体感が奮い立ってきます。その後、石山本願寺を追われた僧が北陸を経て新潟に辿り着き、そこに定着しつつも江戸時代の北海道の開拓の為に江戸幕府の命を受けて寺院を建立するまでの祖先の血が私の中にあることを意識すると、自分一人だけの命では無いことを痛切に感ずるのです。多分、それが私の無意識の古層となって「私自身」を表現しているのだと思っています。
それが真実か否かは解りませんが、石山本願寺以前の流れを想像するに、「やはり原点は東大寺だった」と思い馳せるのは無理の無い想像だと思います。
もしかしたら、鑑真和上と共に海を渡ってきた小僧だったかもしれませんし。想像の翼を広げると、どこまでも楽しくなっていきます。
「自分の過去は、自分が生まれてからだけではないこと」をしみじみ感じ取った方が人生は面白いのです。
自分が生まれてから学習する事に少しは祖先の遺伝子が具体的に意識出来るくらい足されていれば、もう少し頭脳明晰になるはずなのですが、人間の脳にはそこまでの機能は与えられなかったようです(笑)
これが人の不思議の一つかもしれません。
同じ過ちを繰り返しながら、人類が命を繋いでいる事に、「人の意味」があるのでしょう。
そのことをこの1266回目の修二会で毎年感ずる事が一人の人間である私の役割なのかもしれません。
奈良のお水取りが終わると、春がやってきます。
今年はキリスト教の四旬節がお水取りと同時に始まります。
リオのカーニバルが終わると、ぱたりと世間が静かになるのです。
祈りの時期を大切にしたいものです。
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