1993年10月28日。日本中が“ドーハの悲劇”に涙した時サウジアラビアはイランとの死闘を 4-3 で凌ぎ悲願のワールトカップ初出場を決めた。もしこの試合、イランが引き分けておれば日本と韓国に出場権が転がり込んでくるところであった。この予選、サウジアラビアにとっての最大のターニングポイントは第三戦の韓国戦、試合終了間際のマダニの同点ゴール。この起死回生のゴールが無ければサウジのアメリカワールトカップ出場も無かった。韓国は第二戦のイラク戦でも終了4分前にジャファルの同点ゴールを許している。韓国がこのどちらかの試合を逃げ切ってくれれば…..(あぁいい加減過去を振り返るのはやめよう…….)
サウジアラビアのワールトカップ初出場までの道程を見るといかにその道が厳しく容易でないものかがわかる。彼らが最初に本格的にアジアの戦いに参戦したのが1984年のロス五輪予選でいきなりカタール、イラクと共に出場権を獲得してしまう。そして同年12月のシンガポールで開催された第7回アジアカップでもロス五輪の余勢をかって準決勝でイラン、決勝戦では中国を破りいきなり優勝を果たしてしまう。だが翌年から始まったワールトカップメキシコ大会予選では1回戦で UAEにあっさりと破れてしまった。(ホーム 0-0 アウェー 0-1 ) 。
1986年ソウルで開催されたアジア大会では決勝戦で韓国に 0-2 で敗れたが準優勝を収め、1988年カタールで開催されたアジアカップでは決勝戦の韓国戦をPK戦で降しリベンジを果たすと共に大会2連覇を飾る。しかし翌年シンガポールで開催されたワールトカップイタリア大会アジア地区最終予選では6か国中5位に終わりワールトカップには届かなかった。1990年北京でのアジア大会では日本を破りベスト8に進出したが準々決勝で北朝鮮に PK 戦の末に敗れた。
そして1992年サウジアラビアは新たな強敵の出現を見る。“日本”だった。広島で行われたアジア大会では大会3連覇を阻まれまさに日の出の勢いの日本の出現にアメリカワールトカップ進出が厳しくなると思われた。だがサウジアラビアはその事を事前に察知していたのかも知れない。1993年10月15日ドーハで相対したサウジアラビア代表のスタメンの中で前年広島での決勝戦に出場した選手は4人だけ。対する日本はアジアカップ決勝戦では出場停止中であったGK松永、そして怪我でプレーできなかった都波に替って三浦泰が左サイドバックに起用され中盤で北澤に替って森保一が起用された以外は同じメンバー。だがそれだけでなく、ドーハ組の中で広島でのアジア大会メンバーは8名しかいなかった。アジアカップのメンバーでは日本に勝てないと思ったのか、実はアジアカップのメンバーはダミーで本当の代表はドーハに派遣された22人だったのかは判らない。
1994年悲願のワールトカップ出場を果たしたサウジアラビアは第二戦でモロッコを 2-1 で破り北朝鮮以来28年振りアジア勢に勝利をもたらすと続くベルギー戦では伝説のオワイランの60mドリブルシュートで降し決勝トーナメントに進出を果たし、アジアにサウジアラビア有りと世界のサッカー界に名を轟かせる事に。
以降1996年アジアカップで8年振りの優勝を果たし、ワールトカップも3大会連続で出場を果たし西アジアの雄として地位を固める様に見えるがここしばらくその勢いに陰りが見え始めている。前回のアジアカップ中国大会では1次リーグでトゥルクメニスタン ( 2-2 ) ウズベキスタン ( 0-1 ) イラク ( 1-2 ) と戦いグループ4位に終わりベスト8進出ならなかった。これはこれまで参加したアジアカップでは必ず決勝戦に進出していたサウジにとって屈辱以外の何物でもなかった。そもそもワールトカップでの戦績もアメリカ大会以降も出場を果たした3大会では全て1次リーグ落ちで南アフリカ(98年 2-2 ) チュニジア ( 06年 2-2 ) 以外の7試合は2002年大会ではドイツに 0-8 と惨敗するなどすべて黒星どころかゴールが奪えない。フランス大会以降の連続出場もアジアからの出場枠が拡がった恩恵と言われているが、日本にもそれは当てはまるかも….
1989年サウジアラビアは Scotland で開催された FIFA U-17 で見事に優勝を果たしているがその時のメンバーでアメリカワールトカップ入りした選手は伝説のGK アルデアイエと MF のファド=アミンの二人のみであったが、同世代の1972-73年生まれの9人の選手がこの時のワールトカップメンバー入りした。しかしこの世代が順調にフル代表に次々に移行していく事は無かった。それがフル代表の強化につながらなかったのではないだろうか?
イスラムの戒律が厳しいサウジアラビアの選手は海外に出掛ける事自体が日本人が考えるよりほど容易でないらしい。しかもサッカー選手には各王族の酋長から潤沢なサラリーが支払われ、その酋長を満足させる為にワールトカップよりも Gulf Cup や所属先でのクラブチームの成功が優先される。代表で、ワールトカップカップで成功する必要も意味も無いのかもしれない。 2005年ドイツで開催された FIFA Confederations Cup を憶えている方も多いと思うが、元々この大会は 1992年に第1回がサウジアラビアで当時のファハド国王(2005年8月急逝)がアジアカップのタイトルを保持していたサウジアラビアと各大陸との王者をサウジアラビアで戦わせる為に企画したものでキングファハドカップと言う大会名であった。1995年に日本代表がサウジアラビアに遠征してこの大会に参加した事を御存知の方も多いだろう。大会は1999年から FIFA に移管され今の形式となっているが豊富な資金があればこう言う大会も企画できるのか…..
1998年、サウジアラビア協会は海外への移籍を解禁。2000年当時のサウジの中心選手 Sami Al Jaber に Wolverhampton からオファーが届いたがアル=ジャバーは国を離れなかった。(離れられなかったのかな??)アル=ジャバーは“サウジのクラブチームは選手達に与えられる権利を与えたがらない。もし将来の強化を考えれば選手達を海外に行かせるべきだ。”と語っている。確かに今のサウジの選手の数人は欧州のスカウトもリストアップしていると思うが。
その筆頭はFWのヤセル・アル・カフタニ。2005年に Al Quadisiya Khobar から約12億円の移籍金で名門アル・ヒラルに移って来た。昨年のワールトカップ、チュニジア戦でもゴールを決めている。も一人の2トップのFWサミ・アルジャベルもアル・ヒラル所属のFWでチュニジア戦でゴールを決めている。
FWのヤセル・アル・カフタニは2005年に Al Quadisiya Khobar から約12億円の移籍金で名門アル・ヒラルに移って来た。昨年のワールトカップ、チュニジア戦でもゴールを決めている。も一人の2トップのFWサミ・アルジャベルもアル・ヒラル所属のFWでチュニジア戦でゴールを決めている。
GKの Mabrouk Zaid はアジア屈指のキーパー。それまで伝説のGKアル・デアイエの陰に隠れていたが昨年のワールトカップではついにデアイエを押しのけ全試合サウジのゴールを守った名門アル・イテハード所属の28歳。その前にはDF陣を統率する アル・モンタシャリがいる。2004,2005年連続ACL王者、名門アル・イティハード所属の25歳。昨年のワールトカップそして前回のアジアカップにも出場している。2005年にはAFC Player of the Year に輝いたがそれは候補だったイランのカリミ、日本の中村俊輔が都合で表彰式に参加出来ない為だったとか?中盤の要、モハメド・ヌールもアル・イテハードの所属。昨年のワールトカップでは2列目の右に配置された。
そしてゲームメーカーはオマール・アム・ガムディ。アル・ヒラル所属の28歳でワールトカップメンバー。前線のアル・カフタニ、アル・シャンベルにスルーパスを配給し続ける。
今年1月UAEで Gulf Cup が開催された。1次リーグはバーレーンを破った後続くカタール戦はモハメド・アルシャルフーブのゴールで1-1の引き分けに終わる。アルシャルフーブはワールトカップメンバーでありながら出場機会がなかった。彼もアル・ヒラル所属の選手。グループリーグの最終戦、イラク戦ではアル・カフタニが決勝のPKを決めた。しかし準決勝では地元UAEに Esmail Mattar の終了直前のゴールで敗れている。アル・アリ所属のDF フセイン・アブドゥール・ガニの怪我による離脱が痛かったのかも知れない。そして Marcos Paqueta 元監督が解任され、ブラジル人の Helio Dos Anjos 新監督が就任したが、1次リーグで敗退したカタールはハンス・ピーター・ブリーゲル監督を解任(あのブリーゲルが….) ベスト4のイラクのアクラム・アーメッド・サルマン氏も大会後解任された。何て厳しいのだろう…
イスラムの戒律が厳しいサウジアラビアは1次リーグをインドネシアでGroup D 韓国(6月11日)インドネシア(6月14日)バーレーン(6月18日)と対戦をするが、インドネシアはイスラム教大国。サウジアラビアにとっては準ホームの様に戦えるか?でもジャカルタの雰囲気はそうでもないしなぁ…. しかし、この組はサウジと韓国が抜きんでている様な気がする。その両国はいきなり初戦であたるが以降の試合を考えリスクを冒さない戦いをするであろう。そして準々決勝の対戦相手、特にイランと当たりたくないであろうが、時差の関係上第3戦を終えてから Group C の試合が終わるので駆け引きが出来ない。
アジア大会が終われば何人かの選手は海外に移籍する….. のだろうか….
それにしてもアル・ヒラルの選手が多いなぁ。フロンターレがACL準決勝で当たるかもしれない。そのアル・ヒラルは今年初めからかつて鹿島アントラーズの監督であったトニーニョ=セレーゾ氏が指揮を執っていたが3か月で解任されてしまった。
サウジアラビアのワールトカップ初出場までの道程を見るといかにその道が厳しく容易でないものかがわかる。彼らが最初に本格的にアジアの戦いに参戦したのが1984年のロス五輪予選でいきなりカタール、イラクと共に出場権を獲得してしまう。そして同年12月のシンガポールで開催された第7回アジアカップでもロス五輪の余勢をかって準決勝でイラン、決勝戦では中国を破りいきなり優勝を果たしてしまう。だが翌年から始まったワールトカップメキシコ大会予選では1回戦で UAEにあっさりと破れてしまった。(ホーム 0-0 アウェー 0-1 ) 。
1986年ソウルで開催されたアジア大会では決勝戦で韓国に 0-2 で敗れたが準優勝を収め、1988年カタールで開催されたアジアカップでは決勝戦の韓国戦をPK戦で降しリベンジを果たすと共に大会2連覇を飾る。しかし翌年シンガポールで開催されたワールトカップイタリア大会アジア地区最終予選では6か国中5位に終わりワールトカップには届かなかった。1990年北京でのアジア大会では日本を破りベスト8に進出したが準々決勝で北朝鮮に PK 戦の末に敗れた。
そして1992年サウジアラビアは新たな強敵の出現を見る。“日本”だった。広島で行われたアジア大会では大会3連覇を阻まれまさに日の出の勢いの日本の出現にアメリカワールトカップ進出が厳しくなると思われた。だがサウジアラビアはその事を事前に察知していたのかも知れない。1993年10月15日ドーハで相対したサウジアラビア代表のスタメンの中で前年広島での決勝戦に出場した選手は4人だけ。対する日本はアジアカップ決勝戦では出場停止中であったGK松永、そして怪我でプレーできなかった都波に替って三浦泰が左サイドバックに起用され中盤で北澤に替って森保一が起用された以外は同じメンバー。だがそれだけでなく、ドーハ組の中で広島でのアジア大会メンバーは8名しかいなかった。アジアカップのメンバーでは日本に勝てないと思ったのか、実はアジアカップのメンバーはダミーで本当の代表はドーハに派遣された22人だったのかは判らない。
1994年悲願のワールトカップ出場を果たしたサウジアラビアは第二戦でモロッコを 2-1 で破り北朝鮮以来28年振りアジア勢に勝利をもたらすと続くベルギー戦では伝説のオワイランの60mドリブルシュートで降し決勝トーナメントに進出を果たし、アジアにサウジアラビア有りと世界のサッカー界に名を轟かせる事に。
以降1996年アジアカップで8年振りの優勝を果たし、ワールトカップも3大会連続で出場を果たし西アジアの雄として地位を固める様に見えるがここしばらくその勢いに陰りが見え始めている。前回のアジアカップ中国大会では1次リーグでトゥルクメニスタン ( 2-2 ) ウズベキスタン ( 0-1 ) イラク ( 1-2 ) と戦いグループ4位に終わりベスト8進出ならなかった。これはこれまで参加したアジアカップでは必ず決勝戦に進出していたサウジにとって屈辱以外の何物でもなかった。そもそもワールトカップでの戦績もアメリカ大会以降も出場を果たした3大会では全て1次リーグ落ちで南アフリカ(98年 2-2 ) チュニジア ( 06年 2-2 ) 以外の7試合は2002年大会ではドイツに 0-8 と惨敗するなどすべて黒星どころかゴールが奪えない。フランス大会以降の連続出場もアジアからの出場枠が拡がった恩恵と言われているが、日本にもそれは当てはまるかも….
1989年サウジアラビアは Scotland で開催された FIFA U-17 で見事に優勝を果たしているがその時のメンバーでアメリカワールトカップ入りした選手は伝説のGK アルデアイエと MF のファド=アミンの二人のみであったが、同世代の1972-73年生まれの9人の選手がこの時のワールトカップメンバー入りした。しかしこの世代が順調にフル代表に次々に移行していく事は無かった。それがフル代表の強化につながらなかったのではないだろうか?
イスラムの戒律が厳しいサウジアラビアの選手は海外に出掛ける事自体が日本人が考えるよりほど容易でないらしい。しかもサッカー選手には各王族の酋長から潤沢なサラリーが支払われ、その酋長を満足させる為にワールトカップよりも Gulf Cup や所属先でのクラブチームの成功が優先される。代表で、ワールトカップカップで成功する必要も意味も無いのかもしれない。 2005年ドイツで開催された FIFA Confederations Cup を憶えている方も多いと思うが、元々この大会は 1992年に第1回がサウジアラビアで当時のファハド国王(2005年8月急逝)がアジアカップのタイトルを保持していたサウジアラビアと各大陸との王者をサウジアラビアで戦わせる為に企画したものでキングファハドカップと言う大会名であった。1995年に日本代表がサウジアラビアに遠征してこの大会に参加した事を御存知の方も多いだろう。大会は1999年から FIFA に移管され今の形式となっているが豊富な資金があればこう言う大会も企画できるのか…..
1998年、サウジアラビア協会は海外への移籍を解禁。2000年当時のサウジの中心選手 Sami Al Jaber に Wolverhampton からオファーが届いたがアル=ジャバーは国を離れなかった。(離れられなかったのかな??)アル=ジャバーは“サウジのクラブチームは選手達に与えられる権利を与えたがらない。もし将来の強化を考えれば選手達を海外に行かせるべきだ。”と語っている。確かに今のサウジの選手の数人は欧州のスカウトもリストアップしていると思うが。
その筆頭はFWのヤセル・アル・カフタニ。2005年に Al Quadisiya Khobar から約12億円の移籍金で名門アル・ヒラルに移って来た。昨年のワールトカップ、チュニジア戦でもゴールを決めている。も一人の2トップのFWサミ・アルジャベルもアル・ヒラル所属のFWでチュニジア戦でゴールを決めている。
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FWのヤセル・アル・カフタニは2005年に Al Quadisiya Khobar から約12億円の移籍金で名門アル・ヒラルに移って来た。昨年のワールトカップ、チュニジア戦でもゴールを決めている。も一人の2トップのFWサミ・アルジャベルもアル・ヒラル所属のFWでチュニジア戦でゴールを決めている。
GKの Mabrouk Zaid はアジア屈指のキーパー。それまで伝説のGKアル・デアイエの陰に隠れていたが昨年のワールトカップではついにデアイエを押しのけ全試合サウジのゴールを守った名門アル・イテハード所属の28歳。その前にはDF陣を統率する アル・モンタシャリがいる。2004,2005年連続ACL王者、名門アル・イティハード所属の25歳。昨年のワールトカップそして前回のアジアカップにも出場している。2005年にはAFC Player of the Year に輝いたがそれは候補だったイランのカリミ、日本の中村俊輔が都合で表彰式に参加出来ない為だったとか?中盤の要、モハメド・ヌールもアル・イテハードの所属。昨年のワールトカップでは2列目の右に配置された。
そしてゲームメーカーはオマール・アム・ガムディ。アル・ヒラル所属の28歳でワールトカップメンバー。前線のアル・カフタニ、アル・シャンベルにスルーパスを配給し続ける。
今年1月UAEで Gulf Cup が開催された。1次リーグはバーレーンを破った後続くカタール戦はモハメド・アルシャルフーブのゴールで1-1の引き分けに終わる。アルシャルフーブはワールトカップメンバーでありながら出場機会がなかった。彼もアル・ヒラル所属の選手。グループリーグの最終戦、イラク戦ではアル・カフタニが決勝のPKを決めた。しかし準決勝では地元UAEに Esmail Mattar の終了直前のゴールで敗れている。アル・アリ所属のDF フセイン・アブドゥール・ガニの怪我による離脱が痛かったのかも知れない。そして Marcos Paqueta 元監督が解任され、ブラジル人の Helio Dos Anjos 新監督が就任したが、1次リーグで敗退したカタールはハンス・ピーター・ブリーゲル監督を解任(あのブリーゲルが….) ベスト4のイラクのアクラム・アーメッド・サルマン氏も大会後解任された。何て厳しいのだろう…
イスラムの戒律が厳しいサウジアラビアは1次リーグをインドネシアでGroup D 韓国(6月11日)インドネシア(6月14日)バーレーン(6月18日)と対戦をするが、インドネシアはイスラム教大国。サウジアラビアにとっては準ホームの様に戦えるか?でもジャカルタの雰囲気はそうでもないしなぁ…. しかし、この組はサウジと韓国が抜きんでている様な気がする。その両国はいきなり初戦であたるが以降の試合を考えリスクを冒さない戦いをするであろう。そして準々決勝の対戦相手、特にイランと当たりたくないであろうが、時差の関係上第3戦を終えてから Group C の試合が終わるので駆け引きが出来ない。
アジア大会が終われば何人かの選手は海外に移籍する….. のだろうか….
それにしてもアル・ヒラルの選手が多いなぁ。フロンターレがACL準決勝で当たるかもしれない。そのアル・ヒラルは今年初めからかつて鹿島アントラーズの監督であったトニーニョ=セレーゾ氏が指揮を執っていたが3か月で解任されてしまった。
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解任人事はアラブ諸国では日常茶飯事らしい。うちの会社といっしょやなぁ....
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