Mr.コンティのRising JAPAN

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ロシアサッカーの今と昔~欧州より

2005-02-23 | EURO Football
Mr.コンティより、遥か欧州のモスクワより記事が送られてきましたので、早速掲載します。

<ロシアサッカーの今昔物語>
今私はモスクワに滞在している。あと1時間ほどでUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦のテレビ中継が始まる。残念ながらロシアというよりも東欧諸国のクラブチームは全て消えてしまった。前回のワールド杯で日本がワールド杯史上初めて白星を挙げた相手がロシアだと記憶に新しい。そして試合後にこの試合結果に業を煮やしたロシアのサッカーファンが暴動を起こした事を憶えている人も多いだろう。
日本代表がソ連邦の時代からいくつか来日した旧ソ連邦のクラブチームを破ったという記憶が私には無い1978年に来日したアムールブラゴベシチェンスクというソ連邦の3部に所属する極東の小クラブにすら勝つことが出来なかった。この年は秋にソ連代表チームが来日し3戦して3敗であった。1988年、ソウル五輪前にソ連の五輪チームが日本に立ち寄り当時の日本代表と日本選抜と1試合ずつ行った。日本選抜は 0-5 と敗れたが代表は大健闘、ソ連チームが調整試合とは言え2点を先行された後に2点を取って引分けた。1991年には親善試合で同年UEFAカップベスト4のスパルタクモスクワが来日、Jリーグ前の読売クラブと引分けている。
終戦直後のソ連ではスポーツはむしろ国内での全国大会での好成績に各スポーツ界は重きを置いていた。しかし、国威掲揚になるとわかるやヘルシンキ五輪から選手団を送るようになり、自国の存在を示す様にメダル狩りを続けた。しかし、サッカー当時全盛であったハンガリー代表、マジックマジャールに対抗出来る力が備わってせいか、エントリーをしなかったが、翌メルボルン五輪では金メダルを獲得、そして60年のヨーロッパネーションズカップ(今の欧州選手権)では優勝を飾る。これは準決勝でスペインとの対戦で当時のスペインの独裁者フランコ将軍が共産主義国の入国を拒否し、対戦を棄権したことに因る。次の大会の決勝戦ではスペイン相手に熱戦を繰り広げ惜敗を喫し準優勝に終わったが、1966年のイングランドワールド杯にもベスト4に入り、欧州でも他の列強と肩を並べ得る実績を収めていた。
しかし、70年代以降五輪では金メダル最多獲得国であり続けるもののサッカーの戦績は下降を始める。それはサッカーという個人の体力、能力が優っていても対外試合を積んで養われる試合運びや、相手との駆け引きも勝敗の鍵を握ると言う競技の持つ特性から来るものだ。
70年代に入り西欧諸国の経済状態が良くなるにつれ各国のプロリーグも一流選手が国境を越えての移籍が進むなど活性化が進む一方で、政治的な事からなかなか西側諸国との試合が出来ず、74年のワールド杯予選ではプレイオフの対戦相手、当時軍部が政権を握ったばかりチリ政府の反共政策に抗議してチリでの対戦を拒否、棄権予選落ちの憂き目に遭う。同じ共産国のポーランド(ミュンヘン五輪金メダル、モントリオール五輪銀メダル74年ワールド杯、82年ワールド杯共に3位)東ドイツ(モントリオール五輪金メダル)チェコスロバキア(76年欧州選手権優勝)が躍進する中、ソ連の目立った成績は地元開催のモスクワ五輪での銅メダルくらい、ようやく80年後半になって名将ロバノフスキー監督に率いられたディナモキエフの選手を中心に構成された代表は88年の欧州選手権で準優勝、ソウル五輪でも金メダルを獲得し、興隆を見せる。特に欧州選手権の準決勝でイタリアを2-0と破った試合は、私の中ではソ連のベストゲームと思われる。しかし、後にペレストロイカ政策により選手立ちが西側クラブにどんどんスカウトされ、またソ連邦も崩壊。新星ロシア代表も地区予選を突破したワールド杯(94年、02年)欧州選手権(96年、04年)でもグループリーグで敗退した。そしてかつては自国の3部リーグのクラブチームにも負けていた日本に敗れてしまった。それが時代の流れか?共産時代の鉄の規律が崩壊したからか?それは今後の彼らの動向から判るかもしれない。

それにしてもマイナス10度のモスクワは、とにかく寒いです。

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