遂にまた見る事が出来たあの試合。メキシコの栄光を知らない私達が90年代の初め迄すがっていたあの試合、そしてあのFK.。
色々問題を起こしている NHK ではるが、サッカー中継に関してはここの右に出るテレビ局は無いと思っている。
民放局で合格点を与えられるのは70年代から“三菱ダイヤモンド・サッカー”を放映していたテレビ東京だけだ。
東大卒の岡野俊一郎氏とサッカーの実況では日本最高峰の金子勝彦アナウンサーとの抜群のやりとりを見た事のある世代は
今の絶叫マシーンと化した民放の実況放送は幼稚で、ただの雑音としか聞こえない時があると感じるのは私だけではないだろう。 J-League 発足前は誰も見向きのしなかったサッカー中継に敬意を払ってくれた放送局は NHK とテレビ東京だけだ。
そのNHKが11月18日に放映した特別番組 “伝説の名勝負「世界が見えた戦い ’86年W杯・アジア最終予選 日本vs韓国 ” を私は正座をして目を皿の様にしてみた。 遂にまた見る事が出来たあの伝説の試合……
あの時私は大学生だった。前年シンガポールで開催されたロス五輪最終予選で4戦4敗の惨敗に終わった日本代表サッカーチームはまさに“破産状態” そこから“更生”して過程を見ていた。 1984年ソウルで行われた蚕室競技場のこけら落とし行事であった韓日戦で木村和司のFKと水沼のボレーショートで勝利を収めた。この勝利は引き分けを挟んだが対韓国戦で初めて連勝を飾りしかも日本が韓国の地で初勝利を挙げた試合でもあった。(この試合の韓国のメンバーは若手主体でベストメンバーではなかったらしいが。)
この勝利をきっかけに破産した代表が復興の狼煙を上げ、翌年から始まったメキシコワールドカップ予選で快進撃を見せた。
1次予選では北朝鮮、シンガポールを抑え、“準決勝”では香港相手に2連勝 ( 3-0, 2-1 ) しあれよあれよと言う間に韓国との“決勝戦”に進出する事となった。
この予選には幸運もあった。まずアジアからの出場枠2が東西地域に1カ国ずつ与えられたことだ。これで前年の Asian Cup で優勝したサウジアラビアや1982年のアジア大会で優勝したイラク、そして前のスペイン大会に出場した強豪クウェートとは対戦せずに済んだ。
そして日本の“準決勝戦”の相手が予想された中国ではなく香港であった事。 日本が1次リーグ突破後に対戦するGroup 4A の勝者は中国が本命視されていた。 “開幕戦“の2月17日には早速香港政府大競技場で両国が対戦し0対0で引き分けた。 その後両国はそれぞれブルネイ、マカオ相手に勝ち星を重ね、5月19日、北京の工人競技場で行われた最終戦で再び両国は対戦した。この時点では両国共に4勝1分勝点9であったが中国はホームでマカオを 6-0 で破る等得失点差 +21 でリードしており最終戦は引き分けても次のラウンドに進出出来た。試合は26分香港が張志徳のゴールで先制すると中国は32分李恢のゴールで追い付く。そして60分に顧錦輝のゴールで香港が再びリードを奪いその後の中国の猛攻を凌ぎ香港が”準決勝“進出を決めた。
中国チームの体たらくに業を煮やした北京の観客は大騒ぎをし最後は人民軍が鎮圧に入ったと言う経緯は当時でも有名だった。
“準決勝戦”の相手が中国だったら日本も簡単に韓国との決勝戦に進出できたかは解らなかったと当時思った。中国は前年の Asian Cup で準優勝するほどのチームだった。日本は前回80年大会に続いて協会は Asian Cupにはエントリーをしなかった。
一方の韓国も1次予選では危ない橋を渡って来た。3月2日カトマンズで臨んだ初戦のネパール戦は勝利をおさめたが僅かに2点差勝利。3月10日 Kuala Lumpur で行われたマレーシア戦は Dallah Salleh に決められたゴールを挽回できずに敗れてしまう。当時韓国はミュンヘン、モスクワ五輪予選でマレーシアに敗北を喫するなど“史上最強”のマレーシアを苦手としていた。
しかしマレーシアは続く3月16日カトマンズで行われたアウェーのネパール戦をスコアレスドローに終わり、その後韓国は4月6日蚕室でネパールを 4-0 と粉砕。5月19日ソウル蚕室で迎えた1次リーグ最終戦も朴昌善、曹敏国のゴールで“苦手”マレーシアを破り1次リーグ突破を決め、インドネシアとの“準決勝戦”はアウェイのジャカルタで 4-1, ホームの蚕室では辺炳柱、金鋳成のゴールで楽々決勝進出を決めた。
マレーシアがカトマンズで3点以上で勝っていてくれれば蚕室での最終戦も…と当時思った。あぁカトマンズ~と Godiego のまねをして口ずさんだ事を覚えている。
そして迎えた10月26日。直接対戦成績では日本サッカー代表は圧倒的に韓国代表に劣っていた。1959年から15年間。そしてその後5年間勝星が無い年が続いた。あの釜本を擁しても1974年の日韓定期戦しか勝利を収められなかった。
しかし直近3試合では日本の地以外で韓国戦初勝利となる1982年アジア大会では 2-1。1983年東京で行われた日韓定期戦では1-1で引き分けたが終了直前まで 1-0 でリードしており、1984年の蚕室のこけら落とし行事の日韓定期戦では 2-1 でソウルで初勝利を収めこれまでとは違うと期待させられるチームになっていた。この“森ジャパン”なら何とかしてくれる。ワールドカップも夢じゃないところまで来ていると当時のサッカーファンは期待していた。
東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうにメキシコの青い空が続いている様な気がします….
NHK山本アナウンサーの歴史的名セリフだ。私はこの試合の数週間前に行われた陸上競技の日本学生選手権に出場したのでこの試合更に特別な思いで見た。そしてスタンドは超満員だった。当時関西に住んでいた私はここでいつか代表の試合を観戦したいなぁ….と夢見ていた。両チームのスタメンは下記の通りだった。
GK 1 趙炳得 (ハレルヤ) DF 14 曹敏国( LG ), 5 鄭龍煥(大宇), 2朴景勲(浦項),12金平錫 (現代)
MF 10朴昌善 (大宇 ), 4 趙広来(大宇), 6李泰昊(大宇) FW 11辺炳柱(大宇), 9 崔淳鍋(浦項),16 金鋳成 (朝鮮大学)
GK 19松井(日本鋼管)DF 7都並(読売), 2 加藤(読売), 4 石神(ヤマハ),5 松木(読売)
MF 8西村(ヤンマー), 13宮内(古河), 10木村(日産)FW 14原(三菱), 11戸塚( 読売 ), 12水沼( 日産 )
曹敏国がスイーパー。朴景勲が3バックの真ん中で朴昌善と趙広来がディフェンシブハーフ。李泰昊がトップ下で崔淳鍋がCFW。
日本はDFラインは4バック。MFは西村がやや下がり目のディフェンシブハーフで木村がやや右寄りで水沼と組む形。宮内は左の2列目。FWは戸塚が真ん中に入り原が左で水沼が右に入った。
ただ韓国は試合がはじまると ⑨崔淳鍋 は2列目に下がる事が多く実質⑪辺炳柱 と⑯金鋳成の2トップの様な形だった。
そして⑥李泰昊がしょっちゅう前線に顔を出していた。
11月18日の特番には当時の主将を務めた加藤久と⑩朴昌善がゲスト出演していいたが朴昌善氏は“日本を徹底研究して来た。”と話していた。 日本が東地区の“決勝戦”進出を決めたのは香港を政府大競技場で 2-1 で破った9月11日。
その40日以上も前の7月30日に韓国はインドネシアを破り“準決勝戦”を終えており十二分過ぎる程の準備期間があった。
しかも日本はこのワールドカップ予選をほぼ同じメンバーが起用され初起用だったのは出場停止の柱谷幸一に替って抜擢された戸塚だけで、また戸塚以外全ての選手が直近3試合の日韓戦でプレーした経験のある選手。木村、原、加藤、都並ら中心選手は3試合全てに出場していたが、韓国戦で対戦経験があると言う事は相手にも知られていると言う事だ。
この日のスタメン以外で起用された事のある選手は池内豊、内山篤、長沢和明(長澤まさみの父親)そして今話題の岡ちゃんこと岡田武史の4人くらいであった。
そして3月に北朝鮮と対戦する前にその準備として韓国に遠征し油公と大宇と練習試合を行ったが大宇所属選手5人がこの日のスタメンに含まれていた。今になればあらゆる角度から日本が研究されつくしていた事が良く解る。
一方の韓国はエース ⑨崔淳鍋 こそ対日本戦直近3試合全てに出場しておりこのワールドカップ予選も6試合全て出場していたがスタメン11人中対日戦直近3試合に出場しなかった選手がGK①趙炳得 、⑤ 鄭龍煥、⑫金平錫、⑭曹敏国の4人。
ワールドカップ予選で日本戦の前6試合中4試合以上に起用された実績のあるのは7人でGK①趙炳得 はこの日本戦が予選初登場。対日戦では1981年の日韓定期戦そして大統領杯依頼の抜擢だった。それまでGKは崔栄仁とオユンキュが3試合ずつ起用されていた。そして翌年のワールドカップではオユンキュが3試合とも起用された。趙炳得は3年後の次の対戦となる国立競技場での日韓定期戦でも起用された。
1984年のシーズンまでオランダの名門PSV Eindhoven でプレーしておりワールドカップ予選全試合にスタメン起用されていた前の韓国代表監督でもあった許丁茂がこの試合はベンチスタートで最後まで起用されなかった。しかし次の蚕室での第二戦は交替出場で起用され決勝ゴールを挙げた。許丁茂はワールドカップでは3試合ともスタメン出場を果たす。
また現代表監督の④趙広来 は1980年3月マレーシアで開催されたモスクワ五輪予選のメンバーとして日本戦にスタメン出場した経験もあった。FW ⑯金鋳成は1984年の日韓定期戦こそ出場したがワールドカップ予選はインドネシア戦の2試合のみに起用された。しかしその後中心選手に成長し翌ワールドカップイタリア大会予選ではアジアトップクラスのドリブルを披露、大会後は Budesliga の Bochum でプレー。更にあのドーハでの日韓戦にもスタメン出場した。
こうしてみれば日本代表も素晴らしいチームだったが韓国代表も若手、中堅、ベテランががっちりと組みあった最強のチームだった。
そして非常に選手層の厚みのあるチームだった。
韓国のキックオフで始まった試合を見ると当時は開始から日本がかなり押していた様に思えた。それは韓国戦となると開始から押しまくられ何とか失点を防ぐ間にカウンターで得点を上げる事が日本の勝つチャンスと思われたのが定番であったからだ。
この試合後何度も聞かれた“韓国は日本を前半攻めさせて…” という方策は確かに取られていたが日本も韓国のDF陣を崩してシュートを放ったシーンは皆無に近かった。 木村には④趙広来 と⑩朴昌善が交替でしっかりとマークに入り、原には⑤ 鄭龍煥が。原がCK時にもファーサイドに流れる事も調べられていた。初起用のテクニシャン戸塚はマンマークの得意な②朴景勲がしっかりと着いており、当時日産自動車で心境著しく木村と絶妙のコンビを披露していた水沼には⑫金平錫がマークに着き得意のドリブルを消した。金平錫もワールドカップでは”準決勝戦“のインドネシア戦から抜擢された選手だった。
大歓声に乗って健闘する日本だったが30分に先制を許す。25分頃から韓国が攻撃に転じ波状攻撃が目立ち始め、⑩朴昌善が左サイドを上がりクロスを入れると原がクリアーしたこぼれ球を⑤ 鄭龍煥に拾われ左サイドに現れた ⑨崔淳鍋 に渡る、 ⑨崔淳鍋 はサイドを上がり再び原がマークに入るが低い弾道のクロスを入れられそのクロスが日本ゴール前に抜けて来た。それを石神がダイレクトでクリアーするが僅かにバウンドがかわったらしくクリアーボールが短くPAのすぐ外で待ち構えていた⑤ 鄭龍煥に拾われそのまま撃たれたショットが日本ゴールに突き刺さった。 石神の周囲には韓国の選手は詰めていなかったがあそこでワントラップして…と求めるのは酷な事だと思った。
石神は更に失点に絡んでしまう。41分に西村へ出したパスが弱くそれを⑩朴昌善にインターセプトされ ⑨崔淳鍋 に送られドリブル突破を許す。必死に戻った加藤と石神の間を通ったパスが中央を上がった⑥李泰昊に入りそのまま撃たれたシュートが日本ゴールに吸い込まれ絶望的な連続失点を喫した。石神からの西村へのパスがイレギュラーした不運もあったが先制された後の日本は何とか同点にしようとかなり焦って混乱しているのが解った。このワールドカップ予選で先制されたのが初めてだった。その隙を突かれた様な気がした。その事を番組で朴昌善氏も指摘していた。
今でもブラウン管を通じて2点を先行されワールドカップへの淡い期待が一気に潮が引く様に醒めて行く雰囲気が良く解る。
しかしそれを振り払ったのがあの伝説のFKだった。2失点目直後のキックオフから戸塚が意地のドリブル突破を中央から図ると韓国選手が身体を寄せて戸塚を倒してFKを得る。距離は少しあるがゴール真正面の絶好の位置だ。GK①趙炳得 は木村のFK対策の為に起用されたのではと今では思う。だけど木村和司はワールドクラスのFKをゴール右上隅に捻じ込んだ。
木村和司が今インタビューで明かしたがあの時は一度ゴールの右に蹴る様な踏み出しをしてGKの重心をずらしてから右上隅を狙ったと話した。前に見た番組で当時の金正男監督が“ゴール前で絶対に反則をするな、と選手には何度も云って来た。”と話す程木村のFKを警戒していたらしく、壁に入っていた朴昌善氏も“見たことも無い回転だった。”と称賛していた。
私を含めた“メキシコの栄光を知らない”70年代からサッカーを見て来たファンはこのFKにすがって生きて来た。
当時陸上競技を続けていたが練習で苦しくなったらあのFKを思い出して乗り越えようとしていた。
後に商用で海外に出掛けて欧州の顧客とサッカーの話題に触れる度に心の中でこのFKを必死に思い出した。世界のどんなGKだってあのFKは止められないんだ、と心の中で叫んでいた。今でもあれ以上のFKを蹴れる選手はいないと信じている。
俊輔よりも本田圭祐よりも上だと勝手に思っている………
俺は今でのあの代表チームが一番好きだ……
勇気付けられたのは当時この試合を見ていた人達だけではなくピッチ上の選手達も同じだったらしい。
リードされているけど控室では“行ける。行けるぞ。”と言う声が多かったと加藤久は語っていた。このワールドカップ予選。それまで日韓両国は6試合をこなして共に14得点を挙げていた。そのうち韓国は前半に8得点後半に6得点。日本は前半に5得点後半に9得点挙げていた。だから日本が後半に得点を上げる好機があると思っていたというコメントも加藤久氏は語っていた。
実際に日本代表は後半の方が前半よりも良い動きを見せていた。開始から松木のオーバーラップや戸塚のポストプレーが見られた。そして水沼がマークに入った金平錫を振り切りボールを持つ時間が増えた。更に木村-水沼のコンビが機能しワンタッチパスが繋がる様になり59分には宮内のミドルシュートを導き出す。 こう言ったプレーは韓国は“持っていない武器”であった。実際にゲストの朴昌善氏は“韓国代表が最も警戒していたケースだった。”と語っていた。
大観衆の前でナーバスになっていたのはホームの日本代表イレブンであったがこれもプロ(韓国)とアマチュア(日本)の違いの一つであったと思う。
またこれは韓国のフォーメーションの変化にも寄与していたと思う。前半は日本を“攻めさせる。”為に前線のラインを下げていたので
全体的にスペース入り込めるが少なかったが後半は比較的ラインが“間延び”してスペースが生まれていた。そこで日本はボールが回る様になり、こぼれ球も拾えていた。そして後半になると1対1でも負けない様になっていた。これは70年代にはなかなか見られない事であった。もし韓国が前半の立ち上がりの様に前線を下げてコンパクトなゾーンを維持しておれば後半の日本の優勢はなかったかもしれない。ただこの試合は日韓共に最前線とDFラインは大きく“間延び”してスペースは大きかった。どちらかと言えば1対1での優位性が試合を左右する時代だった。そして両サイドバックに攻撃参加があまり求められない時代であった。
63分27秒、木村のCKから加藤がバックヘッドですらして狙ったシュートはクロスバーを叩いてしまう。前半にも加藤は木村のCKをファーサイドで飛び込んで惜しくも合わなかったがこれはGK趙炳得が僅かに触れてコースが替ったためで後半のヘッドもいつものベストポジションを ⑨崔淳鍋 に消されていたと語っていた通り韓国に調べられていた事であった。
だけど振り返ると得点シーンを含めて決定的なシーンは全てセットプレーからで相手DF陣を最後まで崩せていなかった。
後半は押され気味の韓国も70分過ぎから主導権を握りだす。韓国選手は1人の選手が色々なポジションをこなせる技量をもっており日本の攻勢に試合中でも対応出来る様になっていた。日本ベンチも68分には戸塚を下げてスピードのある平川(順大)を入れて LW に置き原を CFW に置き、82分には木村を下げて遂にジョージ与那城(読売)を入れるが所属先でコンビを組んでいる戸塚は既にベンチに下がっていた。 朴昌善氏は“与那城選手の投入はもっと早くてもよかったのではないか。また木村選手とのコンビネーションがあっても良かったのではないか。”と指摘しているがまさにその通りだった。
1990年1月Bayern München が来日しJSL選抜と行った試合を観戦したがあの時見たラモスと木村和司のボールのやり取りはまさにピンボールの様にボールが動きBayern München の選手を翻弄する時間帯が短く無かった。
後に生前の当時の森監督が“戸塚と与那城をどこか練習試合でもいいから実践しておればよかった。”と述懐していた記事を見た。韓国ベンチも78分に⑥李泰昊を下げてモスクワ五輪予選の日本戦にスタメンで出場したベテランの趙栄増を入れて守備を固める。試合終盤になると再び韓国の攻撃が目立つようになり⑦金鐘夫が加藤のマークを背負いながら ⑨崔淳鍋 にボールを送りシュートに持ち込まれるが石神が必死にマークに入りゴールを割らせない、87分には右サイドから④趙広来 からボールを受けた⑦金鐘夫が石神のマークを振り切りシュートを撃たれるがGK松井がストップ。金鐘夫はこの年神戸で開催されたユニバーシアード(この大会に出場したいと頑張っていたのを思い出す。最も完全に無理だったけど。)のメンバーで翌年のワールドカップでもメンバー入りした選手。
そして45分43秒。無情のタイムアップのホイッスルが鳴った。
翌日のスポーツ新聞でGK松井先輩が(この方の母校は私と同じ京都西高校です。)“ソウルで 2-0 で勝てばいいんだろ。”と言う力強いコメントが載せられており関西インカレ秋季大会直前の私は勇気付けられた。
しかし水沼、西村を外し柱谷幸一、与那城をスタメン起用して(あと安木に替って勝矢が起用された)攻撃的布陣で臨んだソウルでの第二戦は第一戦よりは試合内容も良くチャンスも作ったがゴールを上げられなかった。
ワールドカップ出場を決めてビクトリーランをする代表選手達に蚕室の大観衆は“あぁ大韓民国”の歌を合唱し。観戦に来ていた全斗換大統領は金正男監督の手を取って大きく上げて祝福した。 このシーンを見て日韓のサッカーの差を痛感させられた。
しかし日本もこれでサッカーのワールドカップが市民権を得られた4年後は必ず…と思ったが実際にワールドカップの舞台に立てるようになるにはドーハの悲劇を経てあと12年も待たねばならなかった。
ワールドカップメキシコ大会では1分2敗に終わった韓国。2年後の地元開催のソウル五輪ではこのチームをベースに車範根も入れて日本以来のアジアでのメダルか獲得を目指したが1次リーグで敗退し、翌年更にパワーアップし臨んだイタリアワールドカップ予選を楽々と突破したが本大会では3連敗。その後のワールドカップでもなかなか勝利を挙げられず日韓共催の2002年大会まで初勝利を待たねばならなかった。 サッカーの様に世界中、アジア中が筆頭スポーツに挙げている競技の強化、進歩には本当に時間が掛かるものだと今になった再認識させられた。
そしてこの番組を見てから今になって入手出来る資料をひっくり返して調べるといかに日本にとって難しい試合であったかと言う事も解った……
今、ワールドカップは出場して当たり前、本大会でどこまで進出できるかの国民関心事になっているがそれも先人の積み重ねが合った結果だ。3年後ワールドカップブラジル大会で日本がベスト8に残る事も夢ではない。
しかし私は今でもこう思っている。あの時の代表、私が何も見ないですらすらとメンバーを唱えられるあの代表チームが今でも一番好きだ…… だれかソウルでの試合のビデオ持っていないかなぁ……
色々問題を起こしている NHK ではるが、サッカー中継に関してはここの右に出るテレビ局は無いと思っている。
民放局で合格点を与えられるのは70年代から“三菱ダイヤモンド・サッカー”を放映していたテレビ東京だけだ。
東大卒の岡野俊一郎氏とサッカーの実況では日本最高峰の金子勝彦アナウンサーとの抜群のやりとりを見た事のある世代は
今の絶叫マシーンと化した民放の実況放送は幼稚で、ただの雑音としか聞こえない時があると感じるのは私だけではないだろう。 J-League 発足前は誰も見向きのしなかったサッカー中継に敬意を払ってくれた放送局は NHK とテレビ東京だけだ。
そのNHKが11月18日に放映した特別番組 “伝説の名勝負「世界が見えた戦い ’86年W杯・アジア最終予選 日本vs韓国 ” を私は正座をして目を皿の様にしてみた。 遂にまた見る事が出来たあの伝説の試合……
あの時私は大学生だった。前年シンガポールで開催されたロス五輪最終予選で4戦4敗の惨敗に終わった日本代表サッカーチームはまさに“破産状態” そこから“更生”して過程を見ていた。 1984年ソウルで行われた蚕室競技場のこけら落とし行事であった韓日戦で木村和司のFKと水沼のボレーショートで勝利を収めた。この勝利は引き分けを挟んだが対韓国戦で初めて連勝を飾りしかも日本が韓国の地で初勝利を挙げた試合でもあった。(この試合の韓国のメンバーは若手主体でベストメンバーではなかったらしいが。)
この勝利をきっかけに破産した代表が復興の狼煙を上げ、翌年から始まったメキシコワールドカップ予選で快進撃を見せた。
1次予選では北朝鮮、シンガポールを抑え、“準決勝”では香港相手に2連勝 ( 3-0, 2-1 ) しあれよあれよと言う間に韓国との“決勝戦”に進出する事となった。
この予選には幸運もあった。まずアジアからの出場枠2が東西地域に1カ国ずつ与えられたことだ。これで前年の Asian Cup で優勝したサウジアラビアや1982年のアジア大会で優勝したイラク、そして前のスペイン大会に出場した強豪クウェートとは対戦せずに済んだ。
そして日本の“準決勝戦”の相手が予想された中国ではなく香港であった事。 日本が1次リーグ突破後に対戦するGroup 4A の勝者は中国が本命視されていた。 “開幕戦“の2月17日には早速香港政府大競技場で両国が対戦し0対0で引き分けた。 その後両国はそれぞれブルネイ、マカオ相手に勝ち星を重ね、5月19日、北京の工人競技場で行われた最終戦で再び両国は対戦した。この時点では両国共に4勝1分勝点9であったが中国はホームでマカオを 6-0 で破る等得失点差 +21 でリードしており最終戦は引き分けても次のラウンドに進出出来た。試合は26分香港が張志徳のゴールで先制すると中国は32分李恢のゴールで追い付く。そして60分に顧錦輝のゴールで香港が再びリードを奪いその後の中国の猛攻を凌ぎ香港が”準決勝“進出を決めた。
中国チームの体たらくに業を煮やした北京の観客は大騒ぎをし最後は人民軍が鎮圧に入ったと言う経緯は当時でも有名だった。
“準決勝戦”の相手が中国だったら日本も簡単に韓国との決勝戦に進出できたかは解らなかったと当時思った。中国は前年の Asian Cup で準優勝するほどのチームだった。日本は前回80年大会に続いて協会は Asian Cupにはエントリーをしなかった。
一方の韓国も1次予選では危ない橋を渡って来た。3月2日カトマンズで臨んだ初戦のネパール戦は勝利をおさめたが僅かに2点差勝利。3月10日 Kuala Lumpur で行われたマレーシア戦は Dallah Salleh に決められたゴールを挽回できずに敗れてしまう。当時韓国はミュンヘン、モスクワ五輪予選でマレーシアに敗北を喫するなど“史上最強”のマレーシアを苦手としていた。
しかしマレーシアは続く3月16日カトマンズで行われたアウェーのネパール戦をスコアレスドローに終わり、その後韓国は4月6日蚕室でネパールを 4-0 と粉砕。5月19日ソウル蚕室で迎えた1次リーグ最終戦も朴昌善、曹敏国のゴールで“苦手”マレーシアを破り1次リーグ突破を決め、インドネシアとの“準決勝戦”はアウェイのジャカルタで 4-1, ホームの蚕室では辺炳柱、金鋳成のゴールで楽々決勝進出を決めた。
マレーシアがカトマンズで3点以上で勝っていてくれれば蚕室での最終戦も…と当時思った。あぁカトマンズ~と Godiego のまねをして口ずさんだ事を覚えている。
そして迎えた10月26日。直接対戦成績では日本サッカー代表は圧倒的に韓国代表に劣っていた。1959年から15年間。そしてその後5年間勝星が無い年が続いた。あの釜本を擁しても1974年の日韓定期戦しか勝利を収められなかった。
しかし直近3試合では日本の地以外で韓国戦初勝利となる1982年アジア大会では 2-1。1983年東京で行われた日韓定期戦では1-1で引き分けたが終了直前まで 1-0 でリードしており、1984年の蚕室のこけら落とし行事の日韓定期戦では 2-1 でソウルで初勝利を収めこれまでとは違うと期待させられるチームになっていた。この“森ジャパン”なら何とかしてくれる。ワールドカップも夢じゃないところまで来ていると当時のサッカーファンは期待していた。
東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうにメキシコの青い空が続いている様な気がします….
NHK山本アナウンサーの歴史的名セリフだ。私はこの試合の数週間前に行われた陸上競技の日本学生選手権に出場したのでこの試合更に特別な思いで見た。そしてスタンドは超満員だった。当時関西に住んでいた私はここでいつか代表の試合を観戦したいなぁ….と夢見ていた。両チームのスタメンは下記の通りだった。
GK 1 趙炳得 (ハレルヤ) DF 14 曹敏国( LG ), 5 鄭龍煥(大宇), 2朴景勲(浦項),12金平錫 (現代)
MF 10朴昌善 (大宇 ), 4 趙広来(大宇), 6李泰昊(大宇) FW 11辺炳柱(大宇), 9 崔淳鍋(浦項),16 金鋳成 (朝鮮大学)
GK 19松井(日本鋼管)DF 7都並(読売), 2 加藤(読売), 4 石神(ヤマハ),5 松木(読売)
MF 8西村(ヤンマー), 13宮内(古河), 10木村(日産)FW 14原(三菱), 11戸塚( 読売 ), 12水沼( 日産 )
曹敏国がスイーパー。朴景勲が3バックの真ん中で朴昌善と趙広来がディフェンシブハーフ。李泰昊がトップ下で崔淳鍋がCFW。
日本はDFラインは4バック。MFは西村がやや下がり目のディフェンシブハーフで木村がやや右寄りで水沼と組む形。宮内は左の2列目。FWは戸塚が真ん中に入り原が左で水沼が右に入った。
ただ韓国は試合がはじまると ⑨崔淳鍋 は2列目に下がる事が多く実質⑪辺炳柱 と⑯金鋳成の2トップの様な形だった。
そして⑥李泰昊がしょっちゅう前線に顔を出していた。
11月18日の特番には当時の主将を務めた加藤久と⑩朴昌善がゲスト出演していいたが朴昌善氏は“日本を徹底研究して来た。”と話していた。 日本が東地区の“決勝戦”進出を決めたのは香港を政府大競技場で 2-1 で破った9月11日。
その40日以上も前の7月30日に韓国はインドネシアを破り“準決勝戦”を終えており十二分過ぎる程の準備期間があった。
しかも日本はこのワールドカップ予選をほぼ同じメンバーが起用され初起用だったのは出場停止の柱谷幸一に替って抜擢された戸塚だけで、また戸塚以外全ての選手が直近3試合の日韓戦でプレーした経験のある選手。木村、原、加藤、都並ら中心選手は3試合全てに出場していたが、韓国戦で対戦経験があると言う事は相手にも知られていると言う事だ。
この日のスタメン以外で起用された事のある選手は池内豊、内山篤、長沢和明(長澤まさみの父親)そして今話題の岡ちゃんこと岡田武史の4人くらいであった。
そして3月に北朝鮮と対戦する前にその準備として韓国に遠征し油公と大宇と練習試合を行ったが大宇所属選手5人がこの日のスタメンに含まれていた。今になればあらゆる角度から日本が研究されつくしていた事が良く解る。
一方の韓国はエース ⑨崔淳鍋 こそ対日本戦直近3試合全てに出場しておりこのワールドカップ予選も6試合全て出場していたがスタメン11人中対日戦直近3試合に出場しなかった選手がGK①趙炳得 、⑤ 鄭龍煥、⑫金平錫、⑭曹敏国の4人。
ワールドカップ予選で日本戦の前6試合中4試合以上に起用された実績のあるのは7人でGK①趙炳得 はこの日本戦が予選初登場。対日戦では1981年の日韓定期戦そして大統領杯依頼の抜擢だった。それまでGKは崔栄仁とオユンキュが3試合ずつ起用されていた。そして翌年のワールドカップではオユンキュが3試合とも起用された。趙炳得は3年後の次の対戦となる国立競技場での日韓定期戦でも起用された。
1984年のシーズンまでオランダの名門PSV Eindhoven でプレーしておりワールドカップ予選全試合にスタメン起用されていた前の韓国代表監督でもあった許丁茂がこの試合はベンチスタートで最後まで起用されなかった。しかし次の蚕室での第二戦は交替出場で起用され決勝ゴールを挙げた。許丁茂はワールドカップでは3試合ともスタメン出場を果たす。
また現代表監督の④趙広来 は1980年3月マレーシアで開催されたモスクワ五輪予選のメンバーとして日本戦にスタメン出場した経験もあった。FW ⑯金鋳成は1984年の日韓定期戦こそ出場したがワールドカップ予選はインドネシア戦の2試合のみに起用された。しかしその後中心選手に成長し翌ワールドカップイタリア大会予選ではアジアトップクラスのドリブルを披露、大会後は Budesliga の Bochum でプレー。更にあのドーハでの日韓戦にもスタメン出場した。
こうしてみれば日本代表も素晴らしいチームだったが韓国代表も若手、中堅、ベテランががっちりと組みあった最強のチームだった。
そして非常に選手層の厚みのあるチームだった。
韓国のキックオフで始まった試合を見ると当時は開始から日本がかなり押していた様に思えた。それは韓国戦となると開始から押しまくられ何とか失点を防ぐ間にカウンターで得点を上げる事が日本の勝つチャンスと思われたのが定番であったからだ。
この試合後何度も聞かれた“韓国は日本を前半攻めさせて…” という方策は確かに取られていたが日本も韓国のDF陣を崩してシュートを放ったシーンは皆無に近かった。 木村には④趙広来 と⑩朴昌善が交替でしっかりとマークに入り、原には⑤ 鄭龍煥が。原がCK時にもファーサイドに流れる事も調べられていた。初起用のテクニシャン戸塚はマンマークの得意な②朴景勲がしっかりと着いており、当時日産自動車で心境著しく木村と絶妙のコンビを披露していた水沼には⑫金平錫がマークに着き得意のドリブルを消した。金平錫もワールドカップでは”準決勝戦“のインドネシア戦から抜擢された選手だった。
大歓声に乗って健闘する日本だったが30分に先制を許す。25分頃から韓国が攻撃に転じ波状攻撃が目立ち始め、⑩朴昌善が左サイドを上がりクロスを入れると原がクリアーしたこぼれ球を⑤ 鄭龍煥に拾われ左サイドに現れた ⑨崔淳鍋 に渡る、 ⑨崔淳鍋 はサイドを上がり再び原がマークに入るが低い弾道のクロスを入れられそのクロスが日本ゴール前に抜けて来た。それを石神がダイレクトでクリアーするが僅かにバウンドがかわったらしくクリアーボールが短くPAのすぐ外で待ち構えていた⑤ 鄭龍煥に拾われそのまま撃たれたショットが日本ゴールに突き刺さった。 石神の周囲には韓国の選手は詰めていなかったがあそこでワントラップして…と求めるのは酷な事だと思った。
石神は更に失点に絡んでしまう。41分に西村へ出したパスが弱くそれを⑩朴昌善にインターセプトされ ⑨崔淳鍋 に送られドリブル突破を許す。必死に戻った加藤と石神の間を通ったパスが中央を上がった⑥李泰昊に入りそのまま撃たれたシュートが日本ゴールに吸い込まれ絶望的な連続失点を喫した。石神からの西村へのパスがイレギュラーした不運もあったが先制された後の日本は何とか同点にしようとかなり焦って混乱しているのが解った。このワールドカップ予選で先制されたのが初めてだった。その隙を突かれた様な気がした。その事を番組で朴昌善氏も指摘していた。
今でもブラウン管を通じて2点を先行されワールドカップへの淡い期待が一気に潮が引く様に醒めて行く雰囲気が良く解る。
しかしそれを振り払ったのがあの伝説のFKだった。2失点目直後のキックオフから戸塚が意地のドリブル突破を中央から図ると韓国選手が身体を寄せて戸塚を倒してFKを得る。距離は少しあるがゴール真正面の絶好の位置だ。GK①趙炳得 は木村のFK対策の為に起用されたのではと今では思う。だけど木村和司はワールドクラスのFKをゴール右上隅に捻じ込んだ。
木村和司が今インタビューで明かしたがあの時は一度ゴールの右に蹴る様な踏み出しをしてGKの重心をずらしてから右上隅を狙ったと話した。前に見た番組で当時の金正男監督が“ゴール前で絶対に反則をするな、と選手には何度も云って来た。”と話す程木村のFKを警戒していたらしく、壁に入っていた朴昌善氏も“見たことも無い回転だった。”と称賛していた。
私を含めた“メキシコの栄光を知らない”70年代からサッカーを見て来たファンはこのFKにすがって生きて来た。
当時陸上競技を続けていたが練習で苦しくなったらあのFKを思い出して乗り越えようとしていた。
後に商用で海外に出掛けて欧州の顧客とサッカーの話題に触れる度に心の中でこのFKを必死に思い出した。世界のどんなGKだってあのFKは止められないんだ、と心の中で叫んでいた。今でもあれ以上のFKを蹴れる選手はいないと信じている。
俊輔よりも本田圭祐よりも上だと勝手に思っている………
俺は今でのあの代表チームが一番好きだ……
勇気付けられたのは当時この試合を見ていた人達だけではなくピッチ上の選手達も同じだったらしい。
リードされているけど控室では“行ける。行けるぞ。”と言う声が多かったと加藤久は語っていた。このワールドカップ予選。それまで日韓両国は6試合をこなして共に14得点を挙げていた。そのうち韓国は前半に8得点後半に6得点。日本は前半に5得点後半に9得点挙げていた。だから日本が後半に得点を上げる好機があると思っていたというコメントも加藤久氏は語っていた。
実際に日本代表は後半の方が前半よりも良い動きを見せていた。開始から松木のオーバーラップや戸塚のポストプレーが見られた。そして水沼がマークに入った金平錫を振り切りボールを持つ時間が増えた。更に木村-水沼のコンビが機能しワンタッチパスが繋がる様になり59分には宮内のミドルシュートを導き出す。 こう言ったプレーは韓国は“持っていない武器”であった。実際にゲストの朴昌善氏は“韓国代表が最も警戒していたケースだった。”と語っていた。
大観衆の前でナーバスになっていたのはホームの日本代表イレブンであったがこれもプロ(韓国)とアマチュア(日本)の違いの一つであったと思う。
またこれは韓国のフォーメーションの変化にも寄与していたと思う。前半は日本を“攻めさせる。”為に前線のラインを下げていたので
全体的にスペース入り込めるが少なかったが後半は比較的ラインが“間延び”してスペースが生まれていた。そこで日本はボールが回る様になり、こぼれ球も拾えていた。そして後半になると1対1でも負けない様になっていた。これは70年代にはなかなか見られない事であった。もし韓国が前半の立ち上がりの様に前線を下げてコンパクトなゾーンを維持しておれば後半の日本の優勢はなかったかもしれない。ただこの試合は日韓共に最前線とDFラインは大きく“間延び”してスペースは大きかった。どちらかと言えば1対1での優位性が試合を左右する時代だった。そして両サイドバックに攻撃参加があまり求められない時代であった。
63分27秒、木村のCKから加藤がバックヘッドですらして狙ったシュートはクロスバーを叩いてしまう。前半にも加藤は木村のCKをファーサイドで飛び込んで惜しくも合わなかったがこれはGK趙炳得が僅かに触れてコースが替ったためで後半のヘッドもいつものベストポジションを ⑨崔淳鍋 に消されていたと語っていた通り韓国に調べられていた事であった。
だけど振り返ると得点シーンを含めて決定的なシーンは全てセットプレーからで相手DF陣を最後まで崩せていなかった。
後半は押され気味の韓国も70分過ぎから主導権を握りだす。韓国選手は1人の選手が色々なポジションをこなせる技量をもっており日本の攻勢に試合中でも対応出来る様になっていた。日本ベンチも68分には戸塚を下げてスピードのある平川(順大)を入れて LW に置き原を CFW に置き、82分には木村を下げて遂にジョージ与那城(読売)を入れるが所属先でコンビを組んでいる戸塚は既にベンチに下がっていた。 朴昌善氏は“与那城選手の投入はもっと早くてもよかったのではないか。また木村選手とのコンビネーションがあっても良かったのではないか。”と指摘しているがまさにその通りだった。
1990年1月Bayern München が来日しJSL選抜と行った試合を観戦したがあの時見たラモスと木村和司のボールのやり取りはまさにピンボールの様にボールが動きBayern München の選手を翻弄する時間帯が短く無かった。
後に生前の当時の森監督が“戸塚と与那城をどこか練習試合でもいいから実践しておればよかった。”と述懐していた記事を見た。韓国ベンチも78分に⑥李泰昊を下げてモスクワ五輪予選の日本戦にスタメンで出場したベテランの趙栄増を入れて守備を固める。試合終盤になると再び韓国の攻撃が目立つようになり⑦金鐘夫が加藤のマークを背負いながら ⑨崔淳鍋 にボールを送りシュートに持ち込まれるが石神が必死にマークに入りゴールを割らせない、87分には右サイドから④趙広来 からボールを受けた⑦金鐘夫が石神のマークを振り切りシュートを撃たれるがGK松井がストップ。金鐘夫はこの年神戸で開催されたユニバーシアード(この大会に出場したいと頑張っていたのを思い出す。最も完全に無理だったけど。)のメンバーで翌年のワールドカップでもメンバー入りした選手。
そして45分43秒。無情のタイムアップのホイッスルが鳴った。
翌日のスポーツ新聞でGK松井先輩が(この方の母校は私と同じ京都西高校です。)“ソウルで 2-0 で勝てばいいんだろ。”と言う力強いコメントが載せられており関西インカレ秋季大会直前の私は勇気付けられた。
しかし水沼、西村を外し柱谷幸一、与那城をスタメン起用して(あと安木に替って勝矢が起用された)攻撃的布陣で臨んだソウルでの第二戦は第一戦よりは試合内容も良くチャンスも作ったがゴールを上げられなかった。
ワールドカップ出場を決めてビクトリーランをする代表選手達に蚕室の大観衆は“あぁ大韓民国”の歌を合唱し。観戦に来ていた全斗換大統領は金正男監督の手を取って大きく上げて祝福した。 このシーンを見て日韓のサッカーの差を痛感させられた。
しかし日本もこれでサッカーのワールドカップが市民権を得られた4年後は必ず…と思ったが実際にワールドカップの舞台に立てるようになるにはドーハの悲劇を経てあと12年も待たねばならなかった。
ワールドカップメキシコ大会では1分2敗に終わった韓国。2年後の地元開催のソウル五輪ではこのチームをベースに車範根も入れて日本以来のアジアでのメダルか獲得を目指したが1次リーグで敗退し、翌年更にパワーアップし臨んだイタリアワールドカップ予選を楽々と突破したが本大会では3連敗。その後のワールドカップでもなかなか勝利を挙げられず日韓共催の2002年大会まで初勝利を待たねばならなかった。 サッカーの様に世界中、アジア中が筆頭スポーツに挙げている競技の強化、進歩には本当に時間が掛かるものだと今になった再認識させられた。
そしてこの番組を見てから今になって入手出来る資料をひっくり返して調べるといかに日本にとって難しい試合であったかと言う事も解った……
今、ワールドカップは出場して当たり前、本大会でどこまで進出できるかの国民関心事になっているがそれも先人の積み重ねが合った結果だ。3年後ワールドカップブラジル大会で日本がベスト8に残る事も夢ではない。
しかし私は今でもこう思っている。あの時の代表、私が何も見ないですらすらとメンバーを唱えられるあの代表チームが今でも一番好きだ…… だれかソウルでの試合のビデオ持っていないかなぁ……
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます