Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

起来~、起来~、起来~、前進、前進、前進

2012-08-08 | 夏季五輪
このオリンピックも中国国歌を何度聴くのだろう?大会中日を過ぎて金メダル獲得数はトップを行く。
子供の時はいつもアメリカとソ連がメダル争いをしていたけど最後は State Amateur で構成されたソ連が金メダル数でアメリカを上回っていた記憶があった。 ヘルシンキ五輪からオリンピックに参加し始めたソ連はアメリカの40個に続く22個の金メダルを獲得し2位に入ると4年後のメルボルン五輪では37個の金メダルを勝ち取り32個のアメリカを抑えて1位に。 4年後のローマ五輪でもソ連の金メダル獲得数はアメリカの34個を9個上回る43個に。しかし続く東京 ( アメリカ36 ソ連 30 ) メキシコ五輪 ( アメリカ45 ソ連 29 ) ではアメリカがソ連を上回る。そして12年振りに欧州で開催されたミュンヘン五輪では東ドイツが台頭して来て事もありアメリカの金メダル数は 33 に激減、ソ連は50に伸ばした。欧州で開催される五輪ではソ連の強さが目立ったがそれは選手亡命の危機が薄いからか? 
だが4年後のモントリオール五輪では東ドイツが40個の金メダルを獲得しアメリカの34個を上回りソ連の49個に続く金メダル獲得数で2位に入った。 Korniel Enderが金メダル4つを勝ち取る等女子水泳で13種目中 らのいた東ドイツは11種目の金メダルを勝ち取り、アメリカの金メダルは最終日の 4 x 100m リレーのみとなった。この時は中学生で最後にアメリカチームが大喜びしているのを憶えている。



この優劣は12年後、東西両陣営が揃った1988年ソウル五輪でも続き36個のアメリカはソ連(55個)東ドイツ(37個)の後塵を拝した。 女子水泳種目で東ドイツのKristin Otto が個人で3つ、リレーで3つのあわせて6個の金メダルを獲得したのを始め14種目中10種目の金メダルが東ドイツ選手で占められたのを憶えている。 



そしてこの翌年誰もが想像しなかった共産圏の崩壊が起こり東ドイツはドイツに吸収され、ソ連は翌バルセロナ五輪こそ独立国家共同体と云う国体で出場しアメリカの37個の金メダルを上回る45個の金メダルを勝ち取ったが、次のアトランタ五輪からは旧ソ連邦は各共和国が独立し、アメリカが金メダル獲得数では首位を走っていた。 そして東ドイツを吸収したドイツはそれほど金メダル数を伸ばせず、むしろ旧東ドイツが前から噂されていた国家での薬物体制が明らかになった。
アメリカに対抗する国として中国が台頭して来たのはシドニー五輪からでこの時はアメリカ(40個)ロシア(32個)に次ぐ3番目となる28個の金メダルを獲得した。
4年後のアテネ五輪ではアメリカが中国が32個の金メダルを勝ち取り40個の金メダルを勝ち取ったアメリカに次いで遂に金メダル数で2番目に上がると前回、2008年、中国は地元開催の北京五輪でアメリカの36個に15個も差を付ける51個の金メダルを獲得する。 競技種目数の違いはあるが、東西両陣営が揃った五輪で1カ国で50個以上の金メダルを勝ち取ったのはソウル五輪のソ連以来であった。
そして今年のロンドン五輪。 大会12日目を終えた時点で金メダル数をみると首位は中国の34個。 次いでアメリカが30個獲得しており序盤なかなか金メダリストが生まれなかった地元英国が12個で3番目に付けている。 そして韓国が12個も金メダルを勝ち取り4番目に付けており、北朝鮮が既に4個の金メダルを獲得している。 ロシアが10個(しかし銀メダル18個、銅メダル20個)しか得ていない。連邦は崩壊したけどかつての勢いは….
日本は金メダルがまだ2個(柔道松本、体操内村)のみだが銀メダル13個、銅メダル14個も勝ち取っておりメダル数だけで言うと5番目である。 

Chinese Taipei, Hong Kong China….

オリンピックで選手達の紹介後に国籍も当然アナウンスされる。台湾や香港の選手はこういうときどう思うのだろう? 女子重量挙げ 53kg で銀メダルを勝ち取った淑浄許 Chun Kuo Hsing は表彰台に上がり国旗が掲揚されるときにどう思ったのだろう。“それは多くの人が思うことだ、たとえそれが容易でないにしても。事実我々は別の国である。 Chinese Taipei は地理的というよりもむしろ政治的な用語。我々は好きではないが受け入れねばならない。それはアスリートにとってはフェアーではない。 我々はそれを説明し、なぜこういう国名と国旗を使っているかを解って貰っている。そしてその国旗を見ているがそれはただ政治的なことだけだ。“ 彼女はそう語った。 
この記事は英国紙で見つけた。 日本の新聞でどこか報道したかな? テレビである中国人が台湾人も香港人もみな中国人。台湾も香港も中国の一部。といって台湾人を怒らせていた。 
1976年モントリオール五輪では台湾呼称問題で開会式の前日に台湾選手団が引き上げてしまった。
この五輪、中国は台湾(当時は中華民国と広く呼ばれていた)が参加をすることに抗議し早々と不参加を表明していたが、大会が開催される5年前には既に国際連合総会が中国の唯一の合法的代表は中華人民共和国であり蒋介石の代表である中華民国を即時追放するという内容の国連総会決議2758を採択したことにより、中華民国は国連脱退を宣言していた。
そして1970年にカナダは中国と国交を樹立したことをはじめとして、中華人民共和国は西側諸国との関係改善を続け、中華民国とこれらの国との国交断絶が相次いだ。
そしてモントリオール五輪で、開催国のカナダは、「R.O.C.=中華民国」の呼称とその国旗である青天白日満地紅旗を使う限り、台湾からの選手団を受け入れられないとの方針をとった。IOCは1969年に交わした取り決めに反するとして非難したが、カナダは態度を変えず、この問題によりモントリオール開催の中止も検討された。IOCが示した「台湾」という呼称を使い五輪旗を掲げる妥協案を台北の中華奧林匹克委員會(R.O.C.オリンピック委員会)は受け入れず、アメリカでカナダ入国を待っていた選手団を呼び戻した。 モントリオール五輪が開催される前年に蒋介石はこの世を去っていた

永遠に経済大国であるという幻想に酔っ払っている政府、役人そして大企業のえらいさんはいつになったら夢から覚めるのでしょう? がんばれ石原東京都知事!



他国の金メダルまで取るなよ….
大会序盤カザフスタンの女子重量挙げ選手が金メダルを連取した。 しかしこの金メダルも中国に帰属するものであると中国では報道されたらしい。

重量挙げ女子63キロ級で金メダルを獲得したマイア・マネザ(カザフスタン)。一方的に“中国出身”と主張され、当惑しているという(ロイター)
 【北京=川越一】ロンドン五輪の重量挙げ女子で金メダルを獲得した2人のカザフスタン選手について、国営新華社通信など中国メディアが「中国人」だと言い張り、物議を醸している。2人は中国メディアが主張する「国籍変更」を否定。他国の金メダルまで中国に関連付けようとする姿勢に、中国国内でも失笑が起きている。
 「中国人」とされているのは、53キロ級の金メダリスト、ズルフィア・チンシャンロ(19)と63キロ級を制したマイア・マネザ(26)。中国メディアは、2人とも中国語ができ、それぞれ「趙長玲(または趙常寧)」「姚麗」という“本名”を持っていると報じている。
 ロンドン五輪公式データでは、チンシャンロはカザフスタン最大の都市アルマトイ出身。清代に中央アジアに逃れた回族の末裔とされる東干族で、伝統的に中国語を話すことができるという。マネザは、彼女自身によると、キルギス生まれで両親とともに10年ほど中国で暮らした経験がある。
一方、中国メディアによれば、チンシャンロの出身地は湖南省の山村。マネザは遼寧省で生まれ育ち、後にコーチに従って湖南省に転籍したという。ともに、競技の普及計画によりカザフスタンに送り出されたというのが中国側が唱える説だ。マネザは「中国で重量挙げの練習をしたことはない」と反論している。
 中国メディアは、マネザに中国語での取材を拒絶され、英語で質問するよう要求されたことに憤慨。「祖国を裏切った」と批判し始めた。ただ、中国のインターネット上では「裏切り」という表現をいさめる声が多い。「汚職にまみれた指導者の下、どれだけの選手が埋没しているのか」などと逆に中国に批判の矛先が向かう結果を招いている。

53kg級でジャーク131kgの五輪記録で優勝したザフスタンの Zulfiya Chinshanlo はカザフ語ではЗүлфия Чиншанло; ロシア語ではЗульфия Чиншанло と表記されるらしく趙常寧 Zhao Changning という中国名も持っているらしい。
1993年7月25日にカザフスタンの首都アルマートィで生まれたとされているが中国メディアは湖南省永州市の生まれとしているらしい。 新華社通信は Chinshanlo は中国で育ちロシア語よりもカザフ語よりも中国語を流暢に話すと報道し、彼女は2008年に湖南スポーツ省の容認を受け 63kg 級で金メダルを勝ち取ったMaiya Maneza と共にカザフスタンに移民したとされている。

Zulfiya Chinshanlo は韓国・高陽で開催された2009年の世界選手権で 219kg ( ジャーク 129kg スナッチ90kg )の記録で中国Chen Xiao Ting の記録を 1kg上回って優勝。翌年、広州で開催されたアジア大会でも 219kg の記録を出しながら中国の Li Ping が230kg ( ジャーク127, スナッチ103:WR ) の世界記録を出して優勝を果たした。そして翌年、パリの世界選手権では今度は Chinshanlo がジャークで130kgの世界新記録を出して 227kg で優勝した。
ロンドン五輪ではジャーク131kg の五輪記録、トータル226kg で金メダル。2位は台湾の淑浄許に7kg差( 219kg : 96, 123 ) をつけてた。 中国からエントリーされたのは Chen Xiao Ting も Li Ping でも無くて周俊がエントリーされ記録無しに終わった。

国際重量挙げ連盟及びロンドン五輪の公式登録では彼女はカザフスタ国籍としているのであるが2009年の世界選手権、2010年のアジア大会で彼女は新疆で2年間中国語を勉強した経験から中国人記者やマスメディアに中国語で
インタビューに答えていたことがあったらしい。それが彼女の“出生”に枝葉が突き出した発端になったらしい。
そしてロンドン五輪で金メダルを勝ち取ってからは多くの中国メディアが彼女は中国湖南省永州で生まれ育った、大会の1週間ほどまえに湖南省スポーツ省役人で元重量挙げのナショナルチームのコーチであった 馬文輝Ma Wenhui 氏が語ったとされる2008年の始めにカザフスタン側の要望により選手を5年間に渡り移民させたと云々という話を引用し始めたらしく、 Chinshanlo はカザフ人のふりをして暮らしていると言われ始めたらしい。
そして Chinshanlo は“もし自分が中国人だったら、こういうチャンスはなかっただろう。”と語り中国側で増大するこの問題については“非常にプレッシャーがかかりどうしていいかわからない。”と困惑しているとの事であった。



Maneza は63kg 級で2010年アジア大会でも 241kg ( 135, 106 ) で 韓国Kim Soo Kyng 240kg ( 133, 107 ) 中国Chen Aichan 233kg ( 125, 108 ) らを抑えて優勝している。
彼女は世界選手権では滅法強く 2009年は246kg ( ジャーク 141 スナッチ 105 ), 2010年は248kg ( ジャーク 143 スナッチ 105 ) で連続優勝を果たした。2011年は248kg ( 139,109 ) を出すも、ロシアの Svetlana Tsarukayava 255kg ( 138,117 ) の後塵を拝したもののロンドン五輪では 245kg (135、110 ) の五輪記録でTsarukayava 237kg ( 125, 112 ) を破り見事金メダルを勝ち取った。 

国際重量挙げ連盟の公式記録では彼女は旧ソ連邦キルギスタン Tokmok で生まれ北京に長年住み2007年にカザフスタンに移民したことになっているが中国メディアは Maneza は元々中国籍を持っており姚麗という名前で遼寧省の阜新市の新蒙古族の自治区である富子村で生まれ育ったと報道されており、2002年遼寧省チームに入り2006年に湖南省チームに移ってからカザフスタンに移民したとも報道された。

しかし Maneza 自身はその報道を否定しており“私はキルギスタンで生まれた。中国では重量上げの練習など一切していない。両親と一緒に中国に10年ほど住んでいたが私のハートはカザフスタンにある。”と答えている。 

あれだけ金メダルを取り続けながらまだ他国の金メダルも取りたいのだろうか???

Zulfiya Chinshanloが出場した53kg級では上述したが中国人選手の選出において問題が発生しているらしい。Chen Xiao Ting でもなく Li Ping でもない周俊が選ばれた背景が見え隠れする。

中国五輪チーム内に“いじめ疑惑” 関係者は火消しに躍起
2012.8.1 06:52 [中国]
 【北京=川越一】ロンドン五輪の重量挙げ女子53キロ級で記録なしに終わった中国の17歳、周俊に対するメディアの心ないバッシングが、国民の批判を浴びている。チーム内での“いじめ”疑惑も浮上。関係者らが火消しに躍起になっている。
 周は7月29日の試合で、スナッチの試技3回すべてを失敗。ジャークの試技を行うことなく敗退した。重量挙げは中国のお家芸の一つだけに、一部の中国メディアは「恥辱」などと表現した。
 実は周の選出には出身の湖北省体育局の利益が絡んでいた。同局は、選考会で勝った同省の選手よりも周が金メダルを獲得する確率が高いと踏み、代表に押し込んだ。
 試合では自己ベストよりも軽い重量から始めるのが鉄則だが、コーチは練習で挙げているギリギリの95キロからのスタートを指示。最初の失敗で動揺すると、経験の浅い周は修正できなかった。
 背景が明らかになると、インターネット上で周への同情論が高まった。メディア側は慌てて謝罪文を掲載。選手村では相部屋だったベテランの王明娟を1人にさせるため、リビングルームで寝かされていたとの報道も流れた。
 国営新華社通信によると、関係者は「試合前日は1人で眠り、しっかり休ませるのが中国チームの伝統だ」と説明。周の試合前日には、王がリビングルームで就寝したなどと、“いじめ”を否定した。


中国でも出身地により差別があるということは聴いてはいた。
しかし選手達の引退後はどうなのだろう? 1960年代~70年代に女子体操でメダルを独占し続けていいた旧ソ連の女子選手達の引退後は誰もがいい生活を送っていたのではないらしい。 
メキシコ五輪個人総合であのチェコスロヴァキアのベラ=チャフラフスカに次いで銀メダルとなったソ連のZinaida Voronina はアルコール中毒に悩まされ同じ体操選手だったご主人の Mikhail Voronin と32歳の時に離婚。その後工場で働いていたがある中は克服できずそれが原因で2001年に53歳で亡くなっている。 
ミュンヘン五輪で個人総合金メダルだった Tamara Lazakovich も引退後はアル中に陥り窃盗罪で逮捕されたりし長年刑務所に入り1992年11月、38歳で亡くなっている。 そして同時期、ミュンヘン五輪では平均台、床運動で金メダルを取り、段違い平行棒で脚が床についてしまうという失敗さえ無ければ個人総合も金メダルのはずで、モントリオール五輪でも団体金メダルのメンバーでミュンヘンの恋人と言われ大人気を誇った Olga Korbut は1991年にアメリカに亘った後に離婚を経験し再婚をするも2002年 US$19.35の万引きをしたとのことで逮捕され本人は否定するも最終的に US$600 の保釈金を払い釈放されたらしい。
そして彼女は現役時代コーチのセクハラに悩まされたことを1999年にプラウダに告白。「コーチの暴力を恐れ、抵抗することができなかった」と語り、セクハラ被害は数年間続いたという。他の女子選手も同様の被害を受け、刑事告発騒ぎまで起きたことを明らかにした
メキシコ五輪平均台で金メダルを勝ち取ったNatalya Kochinskaya は引退後も地元で体育教師をするなど堅実な人生をおくっているらしいが、ソ連邦崩壊後にある雑誌で“自分を含めた体操選手達の人生は厳しかった。 五輪が終わって引退後普通の学校生活に戻れない。他の女の子が読んだ本や見たことのある映画なんてまったく知らなかった。”そう語っていた。


1978年ストラスブールの世界選手権個人総合で優勝しモスクワ五輪でも金メダル候補だった Yelena Mukhina は五輪直前に首の骨を折る重傷を負い重度の身体障害を抱えた。その後懸命のリハビリを続け1984年には24歳で大学を卒業し、IOCから勲章を授与されるなどしたが2006年に亡くなった。その原因は明かされていない。もし彼女がモスクワ出身でなかったら負傷後こんなに立ち直れなかっただろう。



1970年代後半にコマネチの好敵手として活躍したNellie Vladimirovna Kim はモントリオール、モスクワ五輪で団体、個人合わせて
5個の金メダルを勝ち取った。彼女はその後順調な人生を歩み韓国や南アフリカの代表チームのコーチを歴任し国際体操連盟(FIG)・女子体操技術委員会長のポストに着いている。Nellie KimやKochinskaya 彼女の様な人生を旧ソ連邦の体操選手が引退後歩んでいるのは非常にまれなことなのであろう。
しかし Nelie Kim は名前から解るように父親は朝鮮系で母親はタタール人で生まれはタジキスタン。その後もしソ連邦が崩壊していなかったらその出自から今の様なポストに着くことは困難だっただろう。 



スポーツ選手は引退後が長い。だからその後の人生が…..この様に納得するのはオリンピックなんて夢のまた夢だった挫折者の負け惜しみなんだろうなぁ~ 







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