前回の続きです。
市営の無料駐車場から”日本最古の学校”を目指します。
しかし、”目指す”と云うほどの距離ではありませんでした。駐車場から通りに出ると、道路の反対側の右斜め前に、目指す足利学校が見えました。歩道橋を渡ります。
雲一つ、イヤ、二つ、三つ・・・・ありますが、空が青いなァ~~。絶好の観光日和で~~す!
それにしても、駅からの距離が近いです。”史跡”は、特に地方都市では、昔は、煙を吐き出し、大きな音を立て走る鉄道は、市街地から遠ざけられて敷設されたものです。
それで、このJR足利駅ですが、私、高崎線と思っていたのですが、ちょっこと調べて見たら、両毛線でした。”両毛”は聞いたような、聞かないような名称です。
両毛線とは、栃木県小山市の”小山駅”から、群馬県前橋市の”新前橋駅”間を結ぶ鉄道だそうです。両毛とは、栃木県南西部から群馬県南東部を跨る広域地域を”両毛”と呼ぶそうです。
路線距離は84.4㎞、19駅、開業は1884年(明治17年)。それで、実は、新前橋駅を始発・終着とする列車はなく、新前橋より、上越線に乗り入れ高崎駅まで運行しているので、旅客案内上は、小山駅から高崎駅間を両毛線としているそうです。←私の高崎線との勘違いはこれが原因。
因みに、高崎線とは、大宮駅から高崎駅間を結ぶ路線だそうです。でも、いまは、東京駅や上野駅からも高崎線が、相互乗り入れで出ているので、起点が何処か分からなくなります。それにしても最近は、あっち、こっちで、相互乗り入れが流行っています。
話を足利学校に戻します。
こちらが足利学校のほぼ全景。周囲は堀と土塁で囲まれて、一見、”城塞”のような構え。元は武家屋敷だったのか?
日本で " 最古の学校"で、”日本遺産第一号”だそうです。
それで、最古と云われると、当然、いつ?誰が?との疑問が生じます。ところが、これが難しく、諸説入り乱れているそうなのです。
奈良時代の国学の遺制説とか、平安時代の小野篁説とか、鎌倉時代の足利義兼説とか、いろいろあるのです。奈良、平安はあり得ないと思います。
私としては、「学問に関心を寄せて居た北条実時が鎌倉時代の1253年に金沢文庫をつくり、実時の子の顕時、孫の貞顕も学問を好み、文庫を中心に活動していた。足利学校は、この時代に足利氏が一族の学問所として、下野国足利に創立」説を支持したいと考えます。
戦闘集団の武士が政治権力を貴族階級から奪取し、政治支配の必要から、学問に関心を持ち始めたのです。
創立は明確ではないのですが、再興については、諸説はなく、明確に、上杉憲実により1439年との記録があるそうです。
1439年頃と云えば、その28年後に応仁の乱、そして、戦国時代に突入するのです。
次に、”日本遺産第一号”についてです。そもそも、日本遺産は、世界遺産の日本版で、まあ、観光で?集客で?商売繁盛で?・・・、何て本音が、チラチラ見え隠れする制度。
この第一号なのですが、この表現は、かなり誤解を与えかねないと思います。
調べて見たら、日本遺産には幾つかの分野があり、その中のひとつ『近世教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源』の分野で、2015年4月24日に第一回目の発表が文化庁からあったそうです。
それで、そのとき、水戸市の弘道館等とか、岡山県備前市の”何とか等”とか、大分県日田市の”何とか等”とか、同時に四か所が認定されたそうです。
第一号は、教育遺産群としては四か所、その他の分野を入れると、第一号は数十か所から数百か所あるようです。
と云う事で、第一号と云う表現は、適切ではないと考えます。また、認定されるには都道府県が文化庁に申請するのですが、すでに世界遺産に認定されている、有名どころは、当然、日本遺産の申請はしていません。
まあ、兎に角、足利学校です。
イチョウの葉がまぶしいです。ここで入場料を400円だったか、420円だったか払いました。
校門。
こんな案内板。
こちら書院。
書院前のお庭。
学校とは云っても、いまのような校舎的なものは無いようです。
こちらは学生寮。
こんな説明板があります。
足利学校は、まあ、こんなところです。
建築物が、お庭が、特に、どうこう、と云う訳でもないようです。すべては、平成2年の復原なのです。
因みに、案内板にある「(宝暦年間の姿に復原)とありますが、文化財に関しての「ふくげん」ですが、
改造された建物を元の姿に戻す事を『復原』と云い、
失われた消えた建物を、元の姿に戻すことを『復元』と、云うそうです。
それで、それで、学校内の案内板には「復原」の表記で、足利市のホームページには「復元」の表記。この違いは重大です。
兎に角、足利に!日本最古の!教育機関があった!そのことが売りなのでした。
兎に角、栃木県の足利市に来ました。足利学校を見学しました。
と、云う事でした。
次は、鑁阿寺と、織姫神社と、雪輪町を見学です。
それでは、また。