歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑦ 鎌倉でランチは生シラスが不漁で練り物で旨くもなく不味くもなくでした

2014年06月13日 | 鎌倉の風景
先日の続きです。

大船を過ぎ、北鎌倉を過ぎ、鎌倉に12時近くに到着したのです。

実は、何を隠そう、当日の朝までは北鎌倉駅で降り、かの有名な精進料理の“鉢の木”でランチを計画していたのです。

ところが、途中、横須賀線の車中で連れ合いが“鎌倉だから生しらす”となり、北鎌倉で“生しら”探しは、店も少なく無理なので、鎌倉駅下車となったのでした。鎌倉駅ならば、駅前でも、小町通りでも、若宮大路でも、“生しらす”の店は、いくらでもある筈です。

そして、鎌倉駅の駅頭に立ち、


それでは“生しらす”を頂きましょうと、駅前の一等地?の、それなりの“構え”の店の前に立ち、いざ食そうと思ったら“本日は不漁のため生しらすは御座いません”の貼り紙。

エッ!と呟き、貼り紙を見つめ、貼り紙を指差し、連れ合いに視線を向け、本日不漁だって!と告げたのです。彼女はあっさり“しようがないね”と一言。

私も、直ぐに立ち直り、それでは、それでは、と、他の店を物色しつつ十数歩先で、若宮大路に面した、それなりのお店を見つけ入る事にしました。

運良く、わたし達が入ったところで満席。昼時の鎌倉です、ノンビリしているとランチタイムは待たされるのです。その後、二組の客が外に並びました。

それで、眺めは、それなりにヨカッタのです。


料理の方は、


釜揚げしらす御飯に、


こんなモノです。


そして、鎌倉ビール。


彼女は、


魚肉ハンバーグ。


何か、練り物が中心で、ハンバーグは、どう見ても、どう味わっても、どう考えても、薩摩揚げだったそうです。

不味くもなく、旨くもなく、高くもなく、安くもなく・・・、そんな、とても、とても、普通のランチでした。どちらも1250円でした。でも、ビールは旨かった。580円だった?

帰りに判明したのですが、一階が練り物の店で、その店が経営している食事処だったのでした。


やっぱり、北鎌倉の“鉢の木”で精進料理が・・・・・・なんて、頭の隅を過ぎったりしたのでした。まあ、鉢の木で食べれば一人前で四千円前後ですから、財政的な負担は軽減できたけれど・・・・・・。

“生しらす不漁”の貼り紙を見て、困惑し、混乱し、落胆し、動揺し、店選びに慎重さ欠いてしまったと反省したり・・・・・・。

そんな思いを振り払いつつ、若宮大路の、真ん中の、“段葛”を並んで歩いて、鶴岡八幡に向かったのです。

本日はこれまで。


それでは、また。








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⑥ 新橋で横須賀線は地下5階そして女装で踊る人?

2014年06月11日 | 鎌倉の風景
先週の続きみたいなものです。

これまで鎌倉は円覚寺の話を綴ってきました。

あの日、円覚寺に参拝し、感激、感動、その興奮冷めやらぬうちにと、最後の見学地、円覚寺から綴ったのでした。まぁ、そう云う事で、話しは始めに戻り、新橋駅から始まります。

この日の鎌倉行きは朝の通勤時間帯を避け、11時半頃の到着予定でした。二週間前はラッシュ時に乗り合わせ、日暮里で女性専用車両に乗ってしまった失敗を思い出しつつ、山手線に乗り新橋で降りたのです。

新橋駅で横須賀線に乗り換えれば、隣のホームが横須賀線なので、東京駅よりも、品川駅よりも、歩く距離が短いと考えたのです。

そして、新橋駅に到着し、階段を降り、階段を上り、端っこのホームで、横須賀線?横須賀線?と呟きつつ、ホームの柱の案内板を見つめたのですが、東海道線とは書いてあるのですが、横須賀線の文字は見当たらないです。

えっ、どうして、どう云うこと? 昔は、このホームにブルーとアイボリーに塗られた横須賀線の車体を、勤めの往き帰りに眺めていたのに、何故? 誰も居ないホームで二人は呆然として辺りを見回したのです。

ホームの上に取り付けられた大きな看板を仰ぎ見ると、横須賀線は地下5階との表示。えっ、新橋駅に地下ホーム?知らなかった!

私が、毎日、毎日、務めに通っていたのは、思い起こせば40数年も前のことでした。あの頃、烏森口の駅前はバラック的な建物が密集していました。そして、烏森口と云えば、思い出すことがあります。

夕暮れ時になると、毎日、かつらに和服に白粉に紅、蛇の目を手に、女装した男が踊っていたのです。今回、初めて知ったのですが、烏森神社付近に“日本初のゲイバー”が昭和20年頃に出現したそうなのです。

あの和服姿の男性は、烏森口が再開発された後も、駅前ビルの片隅で踊っていました。通り掛かる通勤客は視線を向けず、気にもとめず、知らぬ素振りで通り過ぎて行きました。

彼?彼女?は、最初は“日本初の広告塔”だったのが、いつしか、自分のためだけに、毎日、毎晩、街角に立ち、無視されようが、嫌われようが、自らの世界で、独り、ひたすら踊り続けていた?

話しが、トンデモな方向に逸れてしまいました。兎に角、地下5階を目指し階段をそれなりに急ぎ足で下ったのです。

そして、長い、長い、エレベーターを下り、


歩き、


階段を下り、


地下5階に到着。


横須賀線の表示を見つけて一安心。


長い、長い、トンネルの様な地下駅。


横須賀線の東京駅 - 品川駅間が地下に潜ったのは昭和51年(1976年)だそうです。私が新橋あたりを彷徨いていた頃、人知れず地下で穴を掘っていたようです。

横須賀線が入線して来ました。


そして、もう、大船。


大船と云えば、松竹大船と大船観音です。



大船を過ぎれば、次は北鎌倉です。


それでは、また。




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⑤円覚寺で小津安二郎のあれやこれやで想いを巡らせます

2014年06月05日 | 鎌倉の風景
先日からの続きみたいなものです。

それで、小津監督の墓石に刻まれた“無”の一文字ですが、当時としては珍しいのかと思ったら、近所には、

“寂”とか、


“真”とか、


“然”とか、


と云った、一文字の墓石がちらほらと見かけられました。

“真”は1945年~1979年まで管長を務めた“朝比奈宗源師”の書。“寂”は1980年~2010年まで管長を務めた“足立大進師”の書。“然”は“應樹”書とありますが、現在の管長は足立大進師の後継“横田南嶺師”です。應樹師は誰でしょうか?副管長?

それで、肝心の“無”は誰の書なのか?これが残念ながら撮していなかったのでした。たぶん、いや間違い無く、年代的にも朝比奈宗源師の書の筈です。

それと、この卒塔婆、


つい最近のものです。施主は“小津亜紀子”となっています。確認できたものはすべて施主は亜紀子さんでした。


それで、“小津亜紀子さん”とは誰なのかと気になって、ネットで調べても判らず諦めていたら、先日、又も、このコラム記事で発見。

※朝日新聞6月1日の記事より転載

小津安二郎の弟で“小津信三”の長女と判明。小津の兄弟姉妹は、長男が新一で、次男が安二郎で、三男が信三と、とても判り易く一・二・三となっています。

他に2人の妹が居ました。亜紀子さんは“小津姓”ですから婿取りでしょうか。長井秀行さんは妹の“登貴”の長男です。

それにしても、手みやげを持たずに他家を訪れた甥を激しく叱責するのは、それなりに理解できますが、手みやげを持って来た時の喜ぶ様は、何とも、判り易く、小津作品から抱く彼のイメージとは、かなり異なるものでした。

作品で、喜怒哀楽の表現は、言葉少なくして多くを語り、表情を変えずして感情を表現する。こんなスクリーンの人間表現と、日常的、生身的、人間は異なるのです。これまで、小津のイメージを、何故か作品での笠智衆をイメージしていたようです。

この“手みやげエピソード”を知って、“世界の小津”がとても身近に感じられました。

それで、何ですが、大胆に云わせてもらえば、小津作品の評価も、小津の意図は異なるところで、いろいろな人によって評価されている・・・、と、思うのです。

まあ、優れた芸術作品は、作者の意図を超えて、いろいろな人に、いろいろな解釈をされ、いろいろな影響を与えるモノだと、そう思うのです。

「東京物語」は、小津作品ですが、海外での評価が、作品に影響し、作品を創りあげ、完成させたと思うのです。“晩春の壺論争”も、小津の意図とはまったく無関係に、別次元に飛び出し、作品を創りあげています。

それで、例えば、小津は「東京物語」では家族の“崩壊”を描いたと発言しているのです。でも、しかし、作品を観れば、明らかに、崩壊ではなく“変遷”が描かれています。彼の時間軸が短いのです。

何て、まあ、私の勝手な解釈も飛び出したりして、兎に角、私が、突然、鎌倉に行きたくなり、原節子さんの家を探したり、小津監督の墓参りをしたり、そんな時期に合わせたように、この連載コラムが始まっていたり、何か、不思議なご縁です。

この朝日の連載コラム“小津安二郎がいた時代”は、何故?いまなの?

本日は、取り留めなく、あれやこれやでした。

まあ、いつも、取り留めは無いか?


それでは、また。


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④ 円覚寺で小津安二郎は曇華院達道安居士でした

2014年06月03日 | 鎌倉の風景
北鎌倉の円覚寺に来ています。

“方丈”を後にして、墓地に向かいます。

それで、墓地なのですが、入り口で確認した案内板には墓地の所在は表示されていないのです。


それで、本堂の片隅で警戒?にあたる作務衣姿の女性係員の方に、

「すいません。小津安二郎監督のお墓はどちらでしょうか?」
「はい、こちらを下って行くと駐車場があります、その近くまで行くと墓地の案内板が見えて来ます。木下恵介監督のお墓も近くにありますよ」

と云う事でした。木下恵介さんも近くに居るようです。

お礼を云って方丈を後に歩く事数分、見えて来ました。


配置図もあります。


配置図に眼を凝らし、小津、小津、小津と呟きつつ探したのですが、一通り全体を眺め回しても小津の文字を発見できず。かなり、かなり、興奮しているので、視線があっちに行ったり、こっちに云行ったり、落ち尽きなく泳いでしまうのです。

すると、後ろから、“木下があるよ!さっき木下恵介の側だって云ってたよね」と、連れ合いの声。何処?何処?何処?と私、ここ、ここ、ここよ!と連れ合い。


そんな、こんなの一騒ぎがあってやっと発見。配置図をしっかり頭に刷り込み、先ずは階段を登り、次に右に折れて又階段を登り、辿り着いたら左手方向と、静かに復唱してから、小津監督の墓を目指します。

最初の階段、


右に折れて二つ目の階段、


階段を登り終え、左手方向に眼をやると、見えて来ました“無”と彫られた墓石。周りが、何か、スゴイ事になっています。


右手には静かに眠る木下恵介監督のお墓。先ずは、こちらに合掌。


所狭しと酒瓶が、


いろいろなビールに、いろいろな日本酒に、


いろいろなウィスキー。いろいろな方が、いろいろと頻繁に訪れていろようです。小津安二郎はそんなに酒好きで有名だった?


それにしても「無」の一文字に、小津安二郎はどのような想いを込めたのか?


1963年4月に頸部悪性腫瘍で手術し、一旦退院して10月に再入院、そして12月に亡くなられました。1903年12月12日に生まれて、60年後の12月12日に、還暦を迎え、亡くなられたのです。

突然の発病で入院し、手術し、悪化し、再入院し、帰らぬ人になったのです。この間、8ヶ月でした。

私が墓参りをしたこの日が5月23日で、2日後の朝日新聞の朝刊にこんな記事が載りました。


・・・・・・「何も悪いことをしていないのにどうしてこんな病気になっちゃったんだろう」という小津に、岩下はかける言葉を見つけられなかった。二人は病室の長いすに並んで座り、ドリンクを飲みながら静かに時を過ごした。「じっと座ってにこにこしてらした。長い時間だったような気もします」・・・・・・

まさに、小津作品のワンシーンを思わせます。もしかして、この時小津は、映画のワンシーンを役者として演じていた? 演ずる小津、別の角度から見ている監督の小津。

記事の一段上で、

・・・・・・「人間というのは悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものじゃないよ」・・・・・・

と云っているのです。これは人間観察の結果ではなく、小津の美学であり、思いであり、スクリーン上でのひとつの芸術的表現であって、現実として、生身の人間として、そう云うことには・・・・・・。

長いすに腰掛け、アミノ酸ドリンクを飲み、にこにこしていた小津、静かな時の流れ、でも、しかし、小津も生身の人間として、病が、悪性腫瘍が、憎い!悔しい!死にたくない!生きたい!と、ひとり叫んでいたと思います。

墓石の無は、悟りとしての“無”なのか? それとも、悔しさの一端を表明した“無”なのか?

戒名は“曇華院達道常安居士”刻まれています。曇華(ドンゲ)は優曇華(ウドンゲ)で、仏教では三千年一度花開く云われる幻の花のようです。

生前の小津監督が傑出した稀な才能の持ち主だったことを称える院号だと思います。

いろいろな思いを抱きつつ、墓前の酒を眺めつつ、手を合わせました。いま、ここに立っている、この場所に、あの原節子も・・・と考えると、何か、とても、不思議な気持ちになりました。

本日は、これまで。


では、また。


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③ 円覚寺方丈の庭は枯れてない“枯れ山水”で時は止まります

2014年05月30日 | 鎌倉の風景
一昨日からの続きです。

円覚寺の方丈に居ます。

本堂を静かに抜け、


目指す裏庭に出ます。思わず、ホォ~~と静かに、ため息が・・・。


庭の緑が裏山へと続いています。静かです、爽やかです。


手前の白い玉砂利、緑の苔?、


ごつごつした大きな石、中くらいの石に囲まれた池、


禅寺によくある枯山水ではなく、“枯山水風”のお庭です。ホントに静かです。車の音も、横須賀線の電車の音も、人声も、何も聞こえづ、流れる風も静かで爽やか。時が止まり静寂。

この日は、少し身体を動かすと、額にうっすら汗をかく程度の気温。イスに座り、庭を眺め、風を感じ、涼しさを感じ、しばしウットリ。


木の家はイイです。手触りも、目触り?も、とても優しくて、美しいです。


じっと見つめていると、小枝のような、小さな木が、海に浮かぶ島の、大きな樹に見えてきました。


もっと、もっと、ずっと、ずっと、お庭を眺めていたかったのですが、円覚寺には大事な目的があります。そろそろイスから起ち上がって本堂で仏様にお参りです。



天井もイイ。照明もイイ。


戸帖(とちょう)もイイ。


失礼して裏側をチェック。京都の「神田法衣店」謹製。


京都の西陣織。はしたないのですが、ちょこっと調べたら、この大きさですと数百万円ほどでした。失礼しました。


久しぶりのお寺で、久しぶりのお庭を眺め、気分は癒され、新鮮、清らか、こころ爽やかに、それでは、方丈を後に、次は、あるお方の墓参りです。


鎌倉で、円覚寺で、“あるお方”の墓参りと云えば、もうお判りと思います。


それでは、また。


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② 円覚寺大方丈の御不浄はとても清浄で気持ちがイイ!

2014年05月28日 | 鎌倉の風景
一昨日の続きです。

総門を通り、三解脱門を通り、仏殿に向かいます。

円覚寺はこのように、いろいろな建物が点在する、大伽藍となっています。


仏殿は、円覚寺のご本尊が祀られている建物です。大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊、昭和39年(1964年)の再建、と云う事は再建までに40年間もの月日が流れているのです。現在の“円覚寺の威光”を持ってすれば数年で再建可能?


1964年の再建ですから?もちろん?鉄筋コンクリート製です。ところで、私、鉄筋コンクリートと云うと、どうしても、何故か、“テッキンカンコンクリート”と、頭の中で呟いてしまうのです。


キンキラキンの冠を被った釈迦像で“宝冠釈迦如来座像”です。ちょっとお顔が怖いです。それなりに時の流れを経過し、それなりのお方の作なのでしょうが、特に“重文”等の指定は無いようです。


見上げると天井から龍が睨んでいます。


描いたのは守屋多々志画伯で、“監修”したのが“前田青邨画伯”こう云う絵にも、作者とか、監修者とか、なんて事があるのです。守屋さんとしてはかなり微妙だった?

それで、天井に龍を見ると、何故か、思わず“手を叩いて”反響を試してしまいました。

連れ合いに“何やっての?こんなところで?”的な視線を向けらました。ここは円覚寺、日光東照宮ではありません、当然、龍は鳴きませんでした。

円覚寺大伽藍の中心である本殿ですが、何か、物足りない想いを残しつつ、本殿を後にしたのです。

本殿は歴史的遺物でも美術鑑賞品でもなく、現役の宗教施設なのだと、認識を改めつつ“方丈”に向かったのです。


門構えも、なかなかです。


方丈には庭園があるようです。


入って直ぐ左手にこの百観音が祀られています。


江戸時代に彫られ、境内に点在していたものを、


昭和58年に、すべてこの一画に移したそうです。一体、一体、じっくりと拝見したかったのですが、本日は、諸般の事情により全体を一望するだけにとどめました。


「方丈」とは、こう云う事でした。


靴を脱ぎ、帽子を脱ぎ、静かな方丈に足を踏み入れます。


丁度いいタイミングで、“東司”を発見、用足しをして行きます。


お寺のトイレは“不浄”ではいけません。


“清浄”でなければならないのです。信仰の修行は整理、整頓、清潔、清掃、から始まるのです。トイレの汚い宗教施設は怪しいのです。

さすが、禅宗の大本山です。円覚寺です、とても、とても、清潔です。


本堂に入ります。仏前では海外からの参拝者がガイドの説明を受けていました。


先ずは、お庭から拝見します。

この先は次回。


それでは、また。


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① 北鎌倉で“円覚寺と云う世界”に興奮しました

2014年05月26日 | 鎌倉の風景
円覚寺に行って来ました。

そうです、先週、23日の金曜日に、また、鎌倉に行って来ました。前回は5月8日ですから二週間ぶりの鎌倉です。

この日、円覚寺に直行した訳ではないのですが、兎にも角にも、円覚寺に興奮したので、円覚寺から話しを始めます。

何と云っても、“本格的なお寺?”は何十年かぶり?で、とても、とても、いっぱい、いっぱい、興奮して、拝観料を納めるとき、財布の所在が判らなくなるほどでした。

それで、円覚寺前の踏切からの北鎌倉駅の眺め、もう、ホント、小津の世界そのまんまです。


臨済宗大本山円覚寺。この石畳、この周りを囲む木々の緑、堪らないです。ホント!そこのお方!撮影の邪魔!でも、居なくなるまで待てないのです。


石段の高さと云い、石段の上の光と影と云い、山門と云い、堪らないです。ドキドキで、ワクワクです。


瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)。臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山第二位、本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は弘安5年(1282年)無学祖元、だそうです。


こちらで拝観料を納めるのですが、ここでも驚き!拝観料300円が“Suica”でOKなのです。この日、私も駅でSuicaを購入していたのです。かなり遅まきながら、時代の変わったことを実感。


トイレの在りかをチェック。未だ大丈夫。


また石段があり、その先に山門が見えて来ました。


山門は、三門で、三解脱門で、“空・無相・無願”でした。かなりムズカシイのです。神社の鳥居と同じ様に、俗世界との境界のようです。


イイです!ホンモノは!


やはり、誰が、何と、云っても、木造建築です。鉄筋コンクリート製では、時が流れると、汚らしさが益し、みすぼらしさが益し、単なる廃墟になるだけです。まあ、世の中には廃墟マニアも居ますが。


この木組みが、


何とも、


何とも、


何とも、云えません。久しぶりです。


上ばかり見ていたら、足下で可愛い女の子の声が聞こえて来ました。社会科見学でしょうか?お寺の由緒謂われが書かれたプリントを、声に出して読み上げているのです。神社仏閣への興味は小学生ではチョット無理だと思います。

趣味が神社仏閣への参拝!なんて答える小学生が居たとしたら、これはチョット?いや、かなり・・・です。それで、女子1名、男子3名のこのグループのリーダーは女の子のようでした。身体も一番大きかったです。

それで、今日は、こちらも、女1名、男1名なのです。こちらも女子がリーダー? あまり、ウロキョロして、写真を撮りまくっていると、リーダーの姿を見失うのです。


それでは、急いで、仏殿に向かいます。こちらも立派な建物です。


これより、ご本尊に参拝です。


それでは、また。


※5月8日の下見話しは途中で中断し、興奮冷めやらぬままに、本番話しに突入です。下見話しは、そのうちいつか綴ります。


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鎌倉へ行って来ました ⑦ 鶴岡八幡宮は鉄筋コンクリートにペンキ塗りですか?

2014年05月21日 | 鎌倉の風景
前回からの続きです。

兎に角、鎌倉と云えば、由緒と歴史で、鶴岡八幡宮なのです。

一般観光客にとって、修学旅行にとって、遠足にとって、海外からの観光客にとって、鎌倉観光の中心なのです。私も、一般観光客の一人として、鶴岡八幡宮に参拝です。

鶴岡八幡宮と云えば、大石段に“大銀杏でした”


大銀杏と云えば、折れて倒れて、今はこのお姿。


記憶は薄らいできましたが、まあ、こういう事なのです。


倒れた根っこから、新しい芽が育ち始めています。まあ、数百年も経てば、それらしい景色に戻ることでしょう。


上から見ると、遺跡の発掘現場的?な風景。


八幡宮と掲げられた桜門。


どう見ても、どう考えても、残念ながら、


これは鉄筋コンクリート製で、朱色のペンキ塗り。


本宮は江戸時代の建築で国の重要文化財だそうです。太鼓を叩いている建物は参拝者が祈祷を受けるところで、ここも、本宮だそうですが、こちらも鉄筋コンクリートでした。

その奥に見えるのが、きっと正真正銘の本宮で、これこそ重要文化財なのでしょう。一般の参拝者は近づけないようです。


神社と云えば、お守りとおみくじです。お守りは千円です。さすが、国際観光都市の鶴岡八幡です。“身も心も美しく”だそうです。身は身体ではなく身だしなみ?


おみくじは、圧倒的に女性に人気があります。男はこの手のモノは信じないのです。


9月に行われる例大祭の御輿ですかね。


一通り見学し、本殿に二礼二拍手一礼してお賽銭を百円納めて、参拝を済ませました。

大石段から見る若宮大路。一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居が見渡せます。


大石段を下りる巫女さん。絵になります。


さあ、鎌倉駅に向かいます。そろそろお昼、何処かで、ランチです。



それでは、また。


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鎌倉へ行って来ました ⑥ 鶴岡八幡宮でキュウリと禰宜と巫女の二人連れ

2014年05月19日 | 鎌倉の風景
前回の続きです。

それでは、“三の鳥居”をくぐって神域に入ります。一の鳥居は由比ヶ浜の近く立っているそうです。


さすがに国際的な観光地、いっぱい、いっぱい観光客がぞろぞろ歩いています。思えば、これほどまでの観光地を訪れたのは久しぶりです。


目一杯観光地で、目一杯観光して、こちらのお二人は未だ昼前なのに、相当お疲れの様子。未だ陽は高い、これからですよお二人さん!


太鼓橋ナメで本宮をパチリ!思ったほどの効果はなし?


こちらが鶴岡八幡宮の境内案内図です。

※公式HPより転載。

プロぽっい方が撮影しています。


高校生の修学旅行と思われます。グループ毎に記念撮影。きっと、青春の想い出、卒業アルバムを飾る一コマ。それにしても、何故?こんな地味な石橋をバックに撮るの?


最近見かけるキュウリの一本漬けの屋台、1本200円です。高いのか?、安いのか?、適正なのか? オジサンとしてはキュウリが一本で200円は、とても高いと思います。

スーパーで一本30円位ですから、加工費を入れても原価は40円程度?粗利は160円として、平日のこの日、チョット見で販売本数は1時間で20~30本と推定、営業時間を9時から17時として、160円×25本×8時間=32000円/日。 

神域で、何と、まあ、下世話な、他人の懐勘定など・・・・・・、失礼しました。

他にも屋台では、イチゴ飴、ぶどう飴、ギンナン、タピオカなんてモノも売っていました。


本殿に真っ直ぐ向かわず、参道を右に折れます。こちらは、ぐっと落ち着いて、ひっそり静かで、人通りも疎らで、とても、とても、神域の趣。上の図で社務所前の通りです。


そんなところに、禰宜?と巫女さんが連れだって登場。


巫女さんが、何か、少しずつ距離を取り始めました。カメラを意識しだしたようです。


玉石積みの上に矢来垣、その奥には建仁寺垣、


建仁寺垣越しのツツジ、絵になります!


静かにツツジを愛でて、参道へと戻ります。

本宮の下に到着。この構図が、とても、とても、鶴岡八幡宮だと思っております。


本宮への参拝は次回。


それでは、また。


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鎌倉へ行って来ました ⑤ 若宮大路は段葛の謎とクズ石の哀れ

2014年05月17日 | 鎌倉の風景
前回の続きです。

金沢街道から裏道の住宅街を抜けて、鎌倉のメインストリートである、若宮大路に出ました。


こんな風な?方も歩いていました。何故か?ちょっと怪しい?妖しい?のでパチリ。


こちらは、まったく怪しくない、黄色い帽子を被った小学生です。孫と同じ5年生の遠足?それとも6年生の修学旅行?この頃は女の子の方が背が高いのです。ホント、中には、もう、オバサン的な貫禄の子もいます。


海外からの観光客です。サングラスが似合います。日本人は顔に凹凸が少ないので、ナカナカムズカシイのです。


でも、旦那は太りすぎです。奥さんもチョッピリ肥満領域に足を踏み入れた? 旦那より、奥さんは、かなり若そうに見えます。 


こちらは女子高生、ソフトクリームを食べながら鎌倉歩き、イイ想い出をつくって下さい。


右から左に書かれた看板に昭和初期の趣が、貝細工のおみやげ屋さんのようです。看板には製造卸となっていますが、小売りもしてるんですよね?湯浅商店さん?


こちらのお酒屋も昭和初期?


男より女は元気です。


居ました!人力車と車夫。国際観光都市には必須アイテム。母は、むかし、むかしの、その昔、母親と二人で乗ったことがあるそうです。いまから80数年も前のことです。


女子高生の修学旅行。ホントに、もう、輝いています。


若宮大路は、小学生で、中学生で、高校生で、いっぱい、いっぱい、輝いていました。ホントに羨ましい。


鶴岡八幡が見えてきました。


それで、この若宮大路の中央部分の“歩行者専用通路”ですが、きっと、道路を拡張した際に、車と人を分離し、混雑の改善、歩行者の安全、何て事で整備された、と、思っていました。


でも、しかし、だったのです。これは、鎌倉時代に造られていたのでした。幕府が置かれ人口が増え、山を削り住宅地を造成した為に山の保水力が低下。

保水力の低下は雨が降る度に、若宮大路に“ぬかるみ”を出現させたのでした。これでは、とっても、とっても、参拝者は歩き辛いとなり、解決策として道の中央部を一段高くしたのでした。

この一段高い部分を“段葛”と云うそうです。
何故に段葛なの?
段の付いた葛?とは如何に?

調べてみると、“葛石”(かずらいし)を積み上げて一段高くしたので、“段葛”と呼ばれているようです。

では、葛石とは? 神社仏閣の基礎部分の上端の縁にある、縁石(へりいし)を兼ねる長方形の石の事を云うそうです。

何で?基礎部分の上端の縁石を、葛石と云うのか?

ここからは、わたしの大胆にして緻密な、語源推定を申し上げると、葛は「カズラ」と云う読みと、“くず”とも読みます。

と、云うことは、基礎に使われる石は、石としては“屑”の部類に入る? 基礎は、まさしく縁の下の力持ちで、日陰で、目立たないので、外観はどうでもヨカッタのです。

外観の良い石は高価で、見てくれの悪い石は安価で、商売的にはクズ石なのです。でも、しかし、いくら何でも、クズと露骨に読んでは、クズの石が可哀想です、クズ石が聞いたら、ぜったいに気を悪くします。

そこで、植物の“葛”を充てて、葛石と表記し“かずらいし”と呼んだのです。

我ながら、なかなか、見事な推論でした。誰も褒めてくれないので、自分で褒める事にします。

石コロひとつにも、この心遣い、優しいと云うか、奥ゆかしいと云うか、思いやりがあると云うか、ワビ・サビと云うか、粋と云うか、ものの哀れと云うか、これぞ日本のこころなのです。

何か、鶴岡八幡宮を前にした所為か、とても、とても、大和こころが刺激されてしまったようです。

兎に角、これから、参拝です。


それでは、また。


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