犠牲を犠牲で贖えば

 
 ライレブ氏の意見をご紹介します。市民D氏との対話です。文責はチマルトフにあります。

  

「福島産の野菜を食べて、福島復興を支援したいと思います」
「福島の野菜は概ね汚染されているのを知ってのことだろうね?」
「そんなのは風評被害ですよ。今流通しているのは安全なものです。政府も大丈夫だと言ってます」
「風評被害というのは、根拠のない噂のせいで受ける被害のことだよ。福島産の野菜が汚染されているというのは、根拠がある。ただ政府がその根拠をごまかしているんだ。でたらめな基準値、でたらめな検査、でたらめな産地表記、でたらめな出荷でね」
「でも、食べても平気です」
「子育てを終えた爺婆の台詞だね。そんな奴らが安全だとピーアールし、権限を持っていればその権限下で、自分より若い世代にも強要するんだからねえ。汚染学校給食や汚染社内定食なんかでね」
「でも、このままじゃ農家はやっていけません」
「もうすでにやっていけないものを無理にやっていこうとするから、こういうことになるんだよ。いいかね、農家はれっきとした被害者なんだ。本来なら、しかるべき奴らが農家の野菜を買い上げて補償すべきなんだよ。それがないから、農家のほうも苦し紛れに汚染野菜を売ろうとする。つまり、ババ抜きの発想なのさ。自分がババを引き当てないように、ババをたらいまわしにするわけだ」
「福島以外の人々は、自らババを引き受けてあげるくらい、すべきだと思います」
「農家は必死だからそう考えるかも知れない。だが、農家でない者がそう考えるなら、ただの偽善だよ。そんなことしたって、結局のところ農家は救われないんだから」
「でも、農家にとっては死活問題です。何をしても責められるものじゃありません」
「本当にそうかね?」
「はい……」
「放射能汚染の被害で、農家が困っているのは誰も否定しないだろう。だが、汚染という同じ基準で言えば、消費者だって困っているんだ。ところで、生計という基準で言うとだね、農家は困っているが、消費者は困っていない。そこで農家は、自分の犠牲を他人の犠牲で贖おうとするわけなんだが、ここで重要なのは、農家の犠牲はせいぜいカネだが、消費者の犠牲はそれだけじゃ済まないってことだ。つまり犠牲は、人体汚染、しかも若い世代の人体汚染なんだよ。贖うことのできないものを贖おうとすると、得てして取り返しのつかない結果を生むものなのさ」

  

 画像は、クレー「朝食についての熟考」。
  パウル・クレー(Paul Klee, 1879-1940, Swiss)
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