「チエちゃんの青春」第2回をご期待の皆様、申し訳ありません。ここで、ちょっとブレイクです。書きたい波が押し寄せてきました・・・
岡林信康さんの「チューリップのアップリケ」には、少し思い出があります。
私が小学6年の頃、にしゃばあちゃん一家は家業の豆腐屋を廃業し、F市へ転居することになりました。
子供であった私は知りませんでしたが、大人たちの間では、ここで一悶着あったらしいのです。
転居新築するにあたり、住んでいる土地(田んぼ付)が売れないことには、資金が不足していたのです。生家の窮状を見兼ねた祖母は、祖父と父に土地を買ってくれるよう懇願したのです。それも、地価よりも相当高い値段です。
生さぬ仲であった父と祖母は、これが原因で揉めて、しばらく口を利かなかったそうな・・・
それでも、どうにか話はまとまり、無事転居し、その新築の家を訪問することになりました。賢一兄の車で向かう途中、その歌はカーラジオから流れてきました。
うちの家は貧乏で、お金のことが原因でお母さんは家を出て行ってしまった。
お父さんも買ってはくれるけれど、チューリップのアップリケの付いた
スカートを、私はやっぱりお母さんに買ってほしい。
(だから、お母さん、早く帰ってきて・・・)
こんな意味の歌です。
ダミ声の大阪弁で歌う悲しいその曲は、誰の何という曲なのか聞き逃してしまったのですが、私の心の中に刻まれることになったのです。
そうして、数年後、深夜放送を聴くようになって、
「次の曲は、岡林信康さんでチューリップのアップリケ
うちがなんぼ早よ 起きても
お父ちゃんはもう くつトントンたたいてはる
あんまりうちのこと かもてくれはらへん
うちのお母ちゃん どこへ行ってしもたのん・・・」
すぐに、あの時の曲であることに気づきました。
それ以来、「チューリップのアップリケ」は私の大好きな曲になり、岡林信康さんの他の曲も次々と聴いていったのです。
彼は60年代フォークの時代に活躍し、団塊の世代の方々に人気のあったシンガーです。
あの頃のフォークソングは、70年代よりもメッセージ性が強く、反戦歌や社会を風刺した曲が多かったようです。
岡林信康さんの「チューリップのアップリケ」には、少し思い出があります。
私が小学6年の頃、にしゃばあちゃん一家は家業の豆腐屋を廃業し、F市へ転居することになりました。
子供であった私は知りませんでしたが、大人たちの間では、ここで一悶着あったらしいのです。
転居新築するにあたり、住んでいる土地(田んぼ付)が売れないことには、資金が不足していたのです。生家の窮状を見兼ねた祖母は、祖父と父に土地を買ってくれるよう懇願したのです。それも、地価よりも相当高い値段です。
生さぬ仲であった父と祖母は、これが原因で揉めて、しばらく口を利かなかったそうな・・・
それでも、どうにか話はまとまり、無事転居し、その新築の家を訪問することになりました。賢一兄の車で向かう途中、その歌はカーラジオから流れてきました。
うちの家は貧乏で、お金のことが原因でお母さんは家を出て行ってしまった。
お父さんも買ってはくれるけれど、チューリップのアップリケの付いた
スカートを、私はやっぱりお母さんに買ってほしい。
(だから、お母さん、早く帰ってきて・・・)
こんな意味の歌です。
ダミ声の大阪弁で歌う悲しいその曲は、誰の何という曲なのか聞き逃してしまったのですが、私の心の中に刻まれることになったのです。
そうして、数年後、深夜放送を聴くようになって、
「次の曲は、岡林信康さんでチューリップのアップリケ
うちがなんぼ早よ 起きても
お父ちゃんはもう くつトントンたたいてはる
あんまりうちのこと かもてくれはらへん
うちのお母ちゃん どこへ行ってしもたのん・・・」
すぐに、あの時の曲であることに気づきました。
それ以来、「チューリップのアップリケ」は私の大好きな曲になり、岡林信康さんの他の曲も次々と聴いていったのです。
彼は60年代フォークの時代に活躍し、団塊の世代の方々に人気のあったシンガーです。
あの頃のフォークソングは、70年代よりもメッセージ性が強く、反戦歌や社会を風刺した曲が多かったようです。
「チューリップのアップリケ」の歌詞、悲しくてやりきれない気持ちになりますね。
もちろん、今でも!
「イムジン河」の作られた経緯を、少し前にテレビで放送してました・・・。
確か、廃盤になってしまったので、この歌の存在を知ってる人は、少ないでしょうね・・・。
「おらは死んじまっただ~♪」は、ヒットしたわね・・・。
岡林さんは、フォークの神様と言われてますね。
私は、彼の曲は、あまり知りません・・・・。
旦那は、好きみたいです。
今でも、それらの歌を聴くと、そのころのことを思い出して涙が出ますね。
私は2年前に大きな手術を受け、それから少し臆病になり、カラオケなどには行きませんでしたが、今夜は久しぶりに職場の方々とスナックに行き、「チエちゃんの青春 第1回(昭和ダイアリー編)」を読んだこともあって「遠い世界に」を1曲だけ思いっきり歌ってみました。
あのメンバー3人の音楽が、与えた影響はすごいものがあると思います。
解散してからも、それぞれに活躍してましたしね。
「チューリップのアップリケ」はたった1度、カーラジオで聴いただけだったのですが、覚えていたんです。
テレビしか知らなかった私は、フォーク・クル・・は「帰って来たヨッパライ」以後は知りませんでした。
深夜放送を聴くようになってから「イムジン河」を知りました。
放送禁止になったはずですが、何処で聴いたんでしょう?
過ぎ去ってみれば、あれは何だったんだと思うような出来事がたくさんあります。
その時代が許さなかったのでしょうね。
岡林信康さんについて、私の記憶が誤っていました。
彼は69年に「チューリップのアップリケ」を発表したようです。
60年代末から70年代初めにかけて活躍したのですね。
若い頃に聴いた曲は忘れないものです。
あの頃の曲が懐メロになってしまいました。
カラオケ、思いっきり歌えてよかったですね。
これから、少しずつ楽しんでみませんか?
思いっきり歌うと、スッキリします。
カラオケは私のストレス解消法の一つかもしれません。
発売前にラジオの深夜放送で唄ってましたが、理由ありで発売禁止になりました。
その後、日本語訳詞した松山猛さんによって、結成されたフォークグループ、ミューテーション・ファクトリーによって松山猛の訳詩による『イムジン河』を吹き込み、アングラ・レコード・クラブから配布されたようですよ。ウィキペディア(Wikipedia)に載ってました~。
多分、私達が深夜放送で聞くことが出来たのは、フォーク・クルセダーズの曲の特集みたいなのがあって、聴く事が出来たんだとおもいますよ~。
でも、当時の歌は確かにメッセージ性が高いです。
訴えたい事がキチンと歌詞になっている。
それは谷やんにも理解できます。
安保闘争の頃って、若者には団結したパワーが合ったように思います。
新宿駅西口でフォーク集会なんかをやっていたのも、この頃でしょうか?!
記憶が曖昧です・・・
たぶん同じ頃ではないでしょうか。
そのころに青春だった私より一世代上の方たち。
先日福島へ旅行したときは、半分くらいがその世代で
まさにその駅で歌っていたとか、「ともしび」で歌ったとか
バスが、走る歌声喫茶状態でした。
そして、その中に入って何の違和感もなかった私。
「あんた、どうしてそんな歌知ってるの?」
言われましても、ギターを手にするとそんな歌の楽譜
ばかりが載っていましたもの。