元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」

2015-04-13 06:35:40 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE IMITATION GAME )題材が興味深く、構成が巧みで、キャストの仕事ぶりも申し分ない。高評価も頷けるほどの出来の良さで、惜しくもアカデミー作品賞の獲得は逃したが、今年度の外国映画の収穫の一つになることは間違いなしだ。

 1951年、マンチェスターにある数学者のアラン・チューリングの家が荒らされるという事件が発生。取り調べを受けたチューリングは戦時中にブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧する。一方、担当刑事はチューリングの経歴を知って驚く。1939年、思わしくない戦況を打破するために、イギリス軍当局は難攻不落と言われたドイツ軍の暗号“エニグマ”の解読チームを発足させる。集められたのはチューリングをはじめとするエキスパート達。だが、プライドが高く無愛想な彼は他のメンバーとの間に壁を作り、そのため仕事は滞りがちだった。

 そんな時クロスワードパズルの達人の女性ジョーンが参加。チューリングの良き理解者となったことで、チームに結束力が出てくる。やがて彼らは偶然から暗号解読のきっかけをつかむが、上層部からの思わぬ横槍で解読した情報を実際の戦術に反映することが出来なくなる。さらに映画は、チューリングの少年時代における秘められた過去をも描き出す。

 主人公はナチスドイツの暗号を解読し連合軍を勝利に導いた人物とされるが、今までその名前があまり知られていなかったこと自体が彼の不遇を示していると言えよう。その背景を3つの時制をほぼ同時進行させることによって、チューリングの内面描写に重点を置いて進行していくのは適切な処理である。

 彼は当時は罰せられた同性愛者であり、少年時代は挫折を味わい、マイノリティーの哀しみを抱えながらも暗号解読チームに加わることによって次第に“公”に目覚めてゆく。しかし、戦争には勝利したものの自分達の成果が不本意な形で使われ、失意の戦後を迎える。おそらくは、チームに参加せずに自己の研究のみに没頭していれば、面白味は無いがそんなに辛酸を嘗めることもなく人生を全うしていたことだろう。

 ところが他者や当局側に関わり、自らの言動が広範囲な影響を与える立場になると、彼のアイデンティティーは大きく揺さぶられる。またそこに戦争という理不尽な事象が加わることにより、チューリングの苦悩は作劇と同様に重層的になっていく。このあたりの持って行き方は見事だ。

 北欧出身のモルテン・ティルドゥム監督にとってこれが初めて手掛ける英語圏映画だが、堂々とした演出で目立った瑕疵は感じさせない。主役のベネディクト・カンバーバッチは名演というしかなく、アンビバレンツな主人公の内面を的確に表現していて見事だ。キーラ・ナイトレイやマシュー・グード、チャールズ・ダンス等、共演者のパフォーマンスも申し分ない。

 さらに特筆すべきはサミー・シェルドン・ディファーによる衣装デザインで、ブリティッシュ・トラッドの真髄を見せてくれるだけではなく、各キャラクターに応じたコーディネートを工夫している点も感心した。
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「大統領の理髪師」

2015-04-12 06:57:26 | 映画の感想(た行)
 (英題:The President's Barber)2004年韓国作品。どうも要領を得ない映画だ。本国人ならばウケるのかもしれないが、こっちはシラけるだけだ。韓国の朴正煕大統領時代(63年から79年)を、彼の散髪係になった一庶民(床屋)の視点から描くコメディ。

 60年代、“青瓦台”のある孝子洞で理髪店を営むソン・ハンモは、大統領の近くに住むことを誇りに思い、政府の言うことに疑いを持たないナイーヴな男だった。そんな彼が、ひょんなことから大統領の専属理髪師に選ばれてしまう。名誉ある任務だと思われるが、少しの粗相も許されないハードな仕事で、ハンモのストレスは増すばかり。しかも、北のスパイが潜入する騒動が勃発。その巻き添えを食らって、ハンモの息子ナガンが警察に連行されてしまう。ハンモは事態を収拾すべく、町中を駆け回る。



 ここで紹介される閣僚達の下世話な勢力争いと、それに翻弄される主人公。そして何も考えないままに熱烈な政権与党支持者となっている下町の人々の有り様は、当事者ではない日本人が観てもピンと来ない。喜劇の体裁を取ってはいるが、ほとんど笑える箇所がない(強いて挙げれば、学生のデモ行進の中を、リアカーを押しながら右往左往する場面ぐらいだ)。それどころか“当時の韓国は、何て愚かな事ばかりやってたのだろうか”と嘆息してしまった。

 「二重スパイ」や「シルミド」を観た時も思ったが、どうやら韓国人は当時を“過ぎ去った事”と片付け、挙げ句の果ては本作のように“笑い飛ばす対象”と位置付けているようである。ならば現在の韓国はそれほど上等な国なのか。竹島問題に対するスタンス等を見ても、韓国は先代の朴大統領時代と同程度あるいはそれ以上の夜郎自大ぶりではないか。

 しかも映画は当時の経済成長が日本からの拠出金によるところが大きいことに触れもしない。逆に閣僚達が“日本の士官学校の何期生か”ということに拘るあたりを茶化してみせる。ハッキリ言ってウンザリしてしまった。

 これがデビュー作だというイム・チャンサンの演出は大味で、ソン・ガンホやムン・ソリ等のクセ者キャストを配しているわりには画面が弾まない。茶色のフィルターをかけたノスタルジックな映像も、一本調子で全編やられると飽きる。
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「ソロモンの偽証 前篇・事件」

2015-04-11 06:48:05 | 映画の感想(さ行)

 あくまでも“前篇”なので、これ一本だけで最終的な評価は出来ないのだが、話の辻褄が合っていない点が目立つのは愉快になれない。パート2でよほど頑張らないと、この違和感は払拭できないだろう(正直言って、あまり期待はしていないが ^^;)。

 雪が積もった1990年のクリスマスの朝、城東第三中学校2年A組の涼子と野田は、同じクラスの男子生徒・柏木の遺体を発見する。死因は屋上からの転落だ。警察は自殺と断定し、その方向で事態は収束するかに見えたが、涼子を含めた何人かに他殺を告発した差出人不明の手紙が届く。そこには、札付きの不良生徒として知られる大出とその仲間達が柏木を屋上から突き落としたことが書かれていた。それを嗅ぎ付けたマスコミが不用意に動いたことにより、地域を巻き込んだ大きな騒ぎになる。

 学級委員でもある涼子は、柏木の小学校時代の友人だという他校の生徒・神原と共に、自分達の手で真相を突き止めるため、学校内裁判の開廷を提案する。周りの生徒は最初は冷ややかな態度を取るが、やがて教師陣の無策ぶりを目の当たりにするに及んで、賛同者は増えていく。

 まず腑に落ちないのが、どうして学内裁判が必要なのか説明されていないことだ。もちろん劇中には“そんなことは無駄だ”という意味のセリフも少なからず存在するのだが、主人公たちは“自分の中では事件は終わっていない”とばかりに強行する。これはハッキリ言って、独りよがりなのではないか。

 しかも、件の告発状を送りつけた人間は劇中ではほぼ特定されており、結局は警察の見解が一番筋が通っているように思われる。つまりはヒロイン達の行動には何ら合理的な動機が伴っていないのだ(あるのは感情的な衝動のみ)。さらに、涼子が学内裁判を始めるにあたって警察に証拠を提示するように求めるに至っては失笑するしかない。警察が中学生の“お遊び”に付き合うはずが無いだろう。

 また、大人の側の描き方は何か(小児的な)悪意がこもっているような粗雑さでウンザリする。特にマスコミの扱いは酷い。いくらマスコミ人種は無責任だと言っても、こんな無茶苦茶なことをするはずもない。

 巷では主人公を演じる藤野涼子の評価が高いようだが、“ちゃんと演技しなきゃ!”という思いだけが先行して余裕が見られず、あまり良いパフォーマンスだとは思えない。何より全然可愛くないのはマイナスだ。それよりも神原役の板垣瑞生や、クラスメートの樹里を演じる石井杏奈の方が印象が強い。成島出の演出は取り立てて特筆するようなものはなく、さて、後篇はどうなることやら。
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「タイタンズを忘れない」

2015-04-10 06:36:25 | 映画の感想(た行)

 (原題:Remember the Titans )2000年作品。やっぱりこういう題材を撮らせるとアメリカ映画はイキイキと見える。それほど脚本に工夫があるわけでもないが、スポーツ場面の高揚感はそれを忘れさせてくれる。見て損はない佳編だ。

 1971年、公民権運動が盛んになり人種差別問題が取り沙汰されるようにはなったが、本作の舞台になるヴァージニア州アレキサンドリアのような田舎町では、そんなことは“ヨソの世界の話”であるはずだった。ところがいつの間にかリベラル化の波は地方にも行き渡るようになり、白人の高校と黒人の高校が町の猛反対を押し切って合併される。当然のことながら両校のクラブ活動も合同で行われることになり、アメリカンフットボール部は統一チームのタイタンズとなる。

 その監督の座に就いたのは黒人のハーマン・ブーンだが、前任の白人のヘッド・コーチであるビル・ヨーストとの確執が生じ、その他にも部の内外を問わずゴタゴタが起こる。そんな中、都会からやってきた転校生のロニーは持ち前の明るいキャラクターと進歩的な姿勢で、学内に新しい風を起こす。やがてチームは一致団結して、州大会に挑むのであった。

 実話の映画化であるが、大きな挫折を味わうこともなしに連戦連勝で突き進んでいくのはウソッぽい。部員達の連帯を深めるために、ブーンが生徒たち連れてゲディスバーグの古戦場までランニングさせ、かつて人種間の偏見によって多くの若者が命を落としたこと教えると、たちまちチームの雰囲気が良い方向に変わってしまうあたりも、ありがちな展開だ。

 しかし、それまで仲違いしていた彼らが人種の垣根を越えて大舞台で活躍するという鉄板の設定においては、小さな欠点など気にならなくなる。ボアズ・イェーキンの演出はスポーツ場面の描写に卓越したものがあり、試合のシーンの高揚感は強く印象付けられる。

 ブーン役のデンゼル・ワシントンをはじめ、ウィル・パットン、キップ・パルデュー、ライアン・ゴズリング、ケイト・ボスワース等、ベテランから若手までソツのない仕事ぶりをこなしている。フィリップ・ルースロのカメラによる奥行きのある映像と、トレヴァー・ラビンの勇壮な音楽、そして当時のヒット・ナンバーを集めた挿入曲も効果的だ。
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「プリデスティネーション」

2015-04-06 06:30:38 | 映画の感想(は行)

 (原題:Predestination)宣伝ポスターは何やら“SF大作”みたいな雰囲気だが、実際は上映時間は短く、小品とも言えるオーストラリア映画だ。出来の方は悪くない。ウィットに富んだ短編小説を読んだような(実際に原作小説も短編なのだが ^^;)、ホロ苦い味わいが残る。

 1970年のニューヨーク。凶悪な爆弾テロが続き、街は不穏な雰囲気の中にあった。裏通りのバーにフラリとやって来た青年ジョンは、バーテンダーに不思議な身の上話を始める。彼は孤児で、しかも以前はジェーンという女性であり、ある“事件”によって元々両性具有者であった彼女は男性として生きるハメになったという。そのトラブルの当事者である流れ者に対し、悶々とした気持ちを抱えて今まで生きてきたらしい。

 ここでバーテンダーの方も正体を明かす。彼は時間と場所を自在に移動できる政府のエージェントで、爆弾魔を追っているのだという。パーテンダーは訝るジョンと一緒に地下に隠してあった携帯型タイムマシンで“事件”が起きた1963年に飛び、その流れ者がジェーンに会うことを何とか阻止しようとする。しかし、事態は思いがけない展開を見せる。ロバート・A・ハインラインの短編小説「輪廻の蛇」の映画化だ。

 勘の良い観客ならば途中でオチは分かってしまう。だが、それでも最後まで飽きずに付き合えるのは、脚色と演出を担当したピーター&マイケル・スピエリッグ兄弟によるドラマの御膳立ての巧みさによる。序盤のミステリアスなネタ振りから中盤以降の一気呵成の展開まで、緩みが無い。冗長なショットやカットを廃し、物語の本筋から作劇が離れない。もっとも、爆弾魔の本当の動機が不明確な点はマイナスだが、ドラマティックな話の持って行き方の中にあってはさほど気にならない。

 さほど予算が掛かっていない映画なのでハデな映像は期待出来ないが、それでもジェーンが宇宙開発局のテストを受けるときの古典SF的な舞台セットは見事だ。そしてキャストの仕事ぶりには感心した。謎のバーテンダーを演じるイーサン・ホークは飄々とした中に不気味さを垣間見せる妙演だが、それよりも強い印象を受けたのが、ジェーン/ジョンに扮するサラ・スヌークの存在感である。

 最初彼女が男装して出てきたときは、かつてのジョディ・フォスターを思わせる聡明さを感じさせ、本来の女性の姿ではフェミニンな魅力を振りまくという風に、かなり演技の幅が広い。オーストラリアにこんな逸材がいたとは驚きで、しかも87生まれと若く、今後の活躍が期待される。

 ハインラインの作品としては「月は無慈悲な夜の女王」が映画化予定だが、SF小説はまだまだ映画のネタの宝庫であり、積極的な映像化を望みたい。
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「ビューティフル・ピープル」

2015-04-05 06:39:40 | 映画の感想(は行)
 (原題:BEAUTIFUL PEOPLE)99年イギリス作品。まあまあの出来である。ロンドンを舞台にした旧ユーゴに所縁のある人間たちの集団劇だが、よくまとめられていて、上映時間がたとえばポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」みたいに犯罪的に長くないのは良い。それから、劇中の各陣営を偏見なしに描いているのも納得した。反面、肝心のイギリス人の描写にはイマイチ気合いが入っていない。やはり作者がボスニア出身で、ホスト国の描写まで手が回らなかったというのが実情だろう。

 バスの中で偶然にクロアチア人とセルビア人が出会い、たちまちバトルが開始される。2人は負傷して病院に運ばれるが、そこでも様々な人間模様が展開。ジャンキーのフーリガン青年とか、ボスニア難民と恋仲になる研修医とか、妻に家出をされて双子の息子の世話で大忙しになる医者とか、いろいろな連中が入り乱れて騒ぎをを起こす。



 一応はコメディの形式をとり、笑える場面もあるのだが、その能天気ぶりが故国で地獄のような苦しみを味わったからこそ生まれたヤケクソな感情に由来していることを暗示させるあたり、かなり印象は苦いものがある(何しろボスニアの状況も無理矢理に笑い飛ばしているほどだ)。ただ前述のようにイギリス人の扱いは通り一遍だ。完全にステレオタイプだし、特に従軍ジャーナリストの強迫観念うんぬんの話など、不要だ。

 監督と脚本はジャスミン・ディズダーで、99年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞。シャーロット・コールマンやニコラス・ファレル等、キャストは馴染みのない面々が並ぶが、けっこういい味を出している。
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「第12回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その4)

2015-04-04 06:53:19 | プア・オーディオへの招待
 今回のフェアの特別企画として、地元ラジオのDJであるTOGGY(トギー)を司会に迎えて“ハイレゾとは何れぞ?”と題した座談会が催された。パーソナリティは主催ディーラーの幹部と、ネットワークプレーヤー等を供給するメーカーの担当者だ。とはいえ、私はそのすべてを聞いておらず、後半部分を客席の後ろの方で立ったまま傍聴したに過ぎない。どうして全編聞かなかったかというと、ハイレゾ(ハイレゾリューション)音源自体にあまり興味が持てないからだ。

 前にも書いたが、ハイレゾ音源は所詮オーディオという狭い世界の中の潮流の一つに過ぎず、業界の市場全体を大きくするようなムーヴメントには成り得ないと思っている。何しろ、ハイレゾどころか従来型のCDも聴いたことが無い若年層が増えている昨今だ。



 ただ、終わり近くになってTOGGYが聴衆に向かって言ったセリフは印象的だった。彼は職業柄、現役ミュージシャンの新譜を逐一チェック出来る立場にあるが、会場を埋めた手練れのマニア諸氏に向かって“皆さん、最近のミュージシャンの音源は聴いていますか? ・・・・って、聴いてないですよねぇ。たとえば大昔の女性ジャズヴォーカルの「名盤」ばかりを何千回も繰り返し聴くのがオーディオマニアですから”というような意味のことを冗談交じりで述べたのだ。

 会場は笑いに包まれたが、そこには苦々しいものがあったことは否めない。ハイレゾだハイレグだ(?)何だと目新しいデバイスは取り沙汰されるが、オーディオマニアが聴くのは相変らず往年の旧盤ばかり。いくら最近の音源は音質面で劣るとはいえ、現在進行形の音楽のトレンドから目を背けていては、浮世離れするばかりだ。趣味のオーディオが斜陽化したのは、こういった既存のマニアの“保守傾向”にも少し原因があるのかもしれない。

 あと、TOGGYを起用したのは悪くないが、いまひとつ人選に工夫が足りなかったように思う。確かに彼は本職のDJであり、確かに司会もソツなくこなしている。問題は、オーディオ業界関係者以外の出演者が彼だけだったという点だ。もっと幅広い層をフェア会場に呼び込むように、少しでも一般的にネームヴァリューのある面子を追加で持ってくるべきではなかったか。



 地元テレビ局のキャスターやリポーターでもいいし、福岡よしもとの芸人でもいいし、HKT48LinQ等のローカル・アイドルグループのメンバーでもいい(地方のタレントならば出演料も高くないはず)。場を盛り上げて集客力が期待できるようパーソナリティを揃え、外部に対して情報発信できるような御膳立てをした方が良かった。とにかく、加齢臭の漂う既存のオーディオファン達(笑)とは異なる客層を掴むような努力をしないと、この業界に未来はないだろう。

 ホームシアターのコーナーでは、話題のドルビーアトモスのデモンストレーションが行われていたが、従来のサラウンドよりも立体感が増した音場が形成され、改めてこの分野は日進月歩であることを思い知らされた。とはいえ、関係者の話によるとヴィジュアル関連機器は頻繁にモデルチェンジが行われ、消費者側としては購入した機器がすぐに陳腐化してしまうらしい。まるで“598スピーカー”全盛時のようなことが、ホームシアターの世界で横行しているというのは、あまりユーザーフレンドリーな状況ではないと思う。

 最後に、本題と関係ないことをひとつ。会場の福岡国際会議場の近くに「麺屋 黒船 博多店」というラーメン屋があり、ここの塩ラーメンがとても美味しかったのだが、今回前を通ったらいつの間にか閉店していた(爆)。店を畳んだ原因は分からないが、豚骨ラーメンしかラーメンとは認めない福岡市民の嗜好性によるものだったのかもしれない。いずれにしろ、残念ではある(笑)。

(この項おわり)
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「第12回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その3)

2015-04-03 06:36:19 | プア・オーディオへの招待
 ONKYOが昨年(2014年)に発売したスピーカー、D-77NEは家電量販店にも置いてある商品だが、試聴環境がいくらか良好なフェア会場で改めて対峙したいと思い、じっくりと聴いてみた。どうしてこの製品に興味を持ったのかというと、D-77NEは80年代に一世を風靡した“598スピーカー”の生き残りであるからだ。

 その昔、国内メーカーはこぞって30センチウーファーを搭載した大型ブックシェルフのスピーカーをリリースしていた。どれも判で押したような定格で、同じようなサイズ。そして25kg以上の重量がある製品を、一本59,800円(およびそれに類する価格)で売っていたのだ。それらはバブル崩壊とオーディオ人口の減少に伴ってほとんど消えていったが、唯一ONKYOだけはそのスタイルのモデルを作り続けていた。



 とはいえ私は80年代においても“598スピーカー”を評価しておらず(短期間保有していたが、すぐに処分した)、この後継機種であるD-77NEにも期待はしていなかった。だが、オーディオを取り巻く環境が変わった現在、昔ながらの外観・構成でONKYOがどのような提案をしてくるのか確かめたいという気持ちがあった。なお、駆動していたアンプ類も同社製品である。

 実際聴いてみると、やはり大口径のウーファーの威力は凄いと思った。低域は量感があり、しかも音像の立ち上がりと立ち下がりが速く、音場を広く確保出来る。現在主流のトールボーイ型スピーカーとは全く異なる展開を見せることは確かだ。しかしながら、中高域は味気ない。ボソボソとして素っ気なく、レンジが広がらない印象を受ける。この点は他社の製品(特に欧米ブランド品)に大きく水をあけられる。要するにこれは、豊かな低音と復古調のデザインを求めるユーザーのみを対象とした製品だ。

 スタッフに売れ行きを聞いてみると、懐かしさで興味を持ってくれるリスナーは少なくないが、実際の出荷数はそれほどでもないという。理由は価格にあるらしい。この製品は一本175,000円であり、実に“598スピーカー”の3倍近い値付けだ。かつての“598スピーカー”のセールスポイントが“物量投入されている割には値段が高くない”というものであったことを考え合わせると、D-77NEに市場価値がそれほどあるとは思えない。これからも同社がこの形態のスピーカーを発売し続けていくのかどうか、疑問の残るところである。

 なお、別のブースでD-77NEと同価格帯の製品であるフィンランドAMPHION社のArgon3を試聴した。筐体が大きくないので低域のスケール感などは望めないが、明るく伸びやかな展開で聴いていて楽しい。同じ予算ならば、こっちの方を選ぶユーザーも多いだろう。



 DENONの高級プリメインアンプPMA-SX1(定価580,000円)もフェア会場で聴きたかったモデルだ。しかも繋げていたスピーカーは英国B&W社の802Dという(リファレンスにも成り得る)上位機器なので、このアンプの素性をチェックするには最適な環境である。だが、出てきた音は個人的にはとても評価できないものであった。

 フットワークの重いサウンドで、音楽が響かないのである。音像は分厚く全域に渡って馬力はあるが、伸びやかさに欠け透明度もイマイチだ。よく聴けば解像度や情報量は十分に確保されていて、その面では値段相応のクォリティは達成されているとは言えるが、聴いて面白い音かと聞かれると、色好い返事は出来ない。とにかく、今までショップやフェア会場で何度も接した802Dから、あまり楽しくない音が出ているのを聴くのは初めてだ。

 この音を聴いて思い出したのは、昔のSANSUIのプリメインアンプだ。もちろん両者は音色は違うが、方法論には共通するものを感じる。とはいえ当時はSANSUIの音を好むリスナーは少なくなかったので、今のこのPMA-SX1も市場に受け入れられる余地はあると思われる。しかしながら、私は好きではない。同じ金額を出すならばROTELのセパレートアンプか、あるいは少し予算を積み上げてACCUPHASESPECのプリメイン型を選びたい(まあ、いずれにしても買えないのだが ^^;)。

(この項つづく)
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「第12回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2015-04-02 06:35:30 | プア・オーディオへの招待
 今回もオーディオ評論家の福田雅光の司会による“オーディオアクセサリーの聴き比べ大会”が実施されたが、製品をOYAIDESAECのケーブル類に絞っていたのは分かりやすかった(その割には段取りの悪い進行ではあったが ^^;)。事前に“試聴”する製品をまとめたレジュメが配布されていたのも有難い。これならば後で“あのとき装着していたケーブルは何だったのだろうか”と思い悩まずに済む(笑)。

 とはいえ、個人的にはあまり収穫のある出し物ではなかった。OYAIDEとSAECの製品はあまり好きではないし、付属ケーブルからの市販品への換装の効果も、すでに周知の事実と言っていい。強いて挙げれば、短い距離で不用意に芯線の太いスピーカーケーブルを使うと、音が鈍重になることが再確認できたことぐらいだろうか。この意味では“ケーブルは高価であるほど良い”というのは正しくない。



 あと、毎度の事ながら福田がイベントに使用する音楽ソースは愉快になれない。前回よりはいくらかマシだが、それでも一般的に馴染みの無い楽曲ばかりで、それを何回も聴かされるのは疲れる。もっとポピュラーな音楽ソフトを採用して欲しいものだ。

 試聴出来たスピーカーの中で最も印象的だったのは、米国YG ACOUSTICS社の新製品Carmel 2である(駆動していたアンプは米国KRELL社のもの)。同社のスピーカーは、以前上位機種のHaileyを聴いたことがあったが、値段を考えればあまり良い製品とは思えなかった。対してCarmel 2はHaileyの約半分のプライス(とはいっても約360万円だが ^^;)ながら、素晴らしい出来栄えを示している。

 音が実に清涼。広い音場にはチリひとつ落ちておらず、どこまでも見渡せる。音像は堅牢で一点の滲みもなく、しかも硬さは感じられず表面が滑らかに磨かれている。もちろん音色は明るく、特定周波数帯域での強調感も無く、いくら聴いても疲れない。とにかく欠点が見つからないのだ。墓石みたいに無愛想なデザインだけは好き嫌いが分かれるが、威圧感の小さいサイズも含めて、ハイエンド機が買えるマニアならば興味を覚えずにはいられないパフォーマンスの高さを誇る。



 フィンランドのPENAUDIO社のCENYA SIGNATUREも優れ物のコンパクト型スピーカーだった。以前から発売されていたCENYAのデラックス・ヴァージョンだが、仕上げの違い以上に音質はリファインされている。音場は上下左右に広がり、北欧メーカーらしい透き通るような音像の練り上げとクールな空気感が周囲に充満する。定価は120万円で、このサイズの製品にしては嫌味な価格設定だが(笑)、この表現力に価値を見出す金回りの良いユーザーならば、導入に躊躇しないだろう。

 北九州市にある2005年設立のKITHIT社は、外付けのスーパーツイーター(超高域ユニット)を出品していた。実はこの会社は九州工業大学(国立)のベンチャー企業である。スピーカーそのものに取り付けるのではなく、近くに設置するだけで効果があるという触れ込みだったが、実際聴いてみると高音だけではなく中低域も密度が濃くなったような印象を受けたのには驚いた。

 大学がベンチャービジネスを起こすこと自体は珍しくはないが、オーディオ業界へも進出していることは今回初めて知った。業界主催のオーディオ銘機賞も獲得しているそうで、こういう形でのニューカマーは、これからもどんどん出てきて欲しい。

(この項つづく)
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「第12回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2015-04-01 06:43:00 | プア・オーディオへの招待
 去る3月27日から29日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で今年も開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきたのでリポートしたい。まず印象付けられるのが、アナログプレーヤー(およびその関連機器)の展示が目立っていたことだ。

 もちろん、これまでも毎回アナログ関連の出品は行われていたが、今回は各ブースにレコードプレーヤーが複数台置かれており、スピーカーやアンプのデモにもアナログ音源が使われることも多かった。これは昨今の“アナログ復権”のトレンドを意識したものだ。最近ではレコードプレーヤーを置いているCDショップがけっこうあり、渋谷ではHMVのレコード専門店もオープンした。この動きに業界が反応したのは当然だろう。



 アナログレコード及びそのプレーヤーは、CDやPC音源と比べると“趣味性”は格段に高い。ブラックボックスばかりで素人には全容が掴めないデジタル音源に対し、針が盤面をトレースする様子が実際に確認出来て、それに調整を加えることによって、面白いほど音が変わっていく展開を実感出来るアナログ音源は“これぞオーディオ”という醍醐味を醸し出す。

 各展示商品の中で特に目を引いたのは、DS Audioからリリースされた光カートリッジだ。DS AudioはDigital Stream社が立ち上げたオーディオブランドである。同社は88年創立の国産光学技術専門メーカーであり、当初は光ディスクの業務チェック用のピックアップの製造を手掛けていた。また良く知られたところでは、Microsoft社との共同開発による光学式マウスが挙げられる。

 デジタル方面のデバイスを提供しているメーカーがアナログに進出するというのは意外だが、その製品もユニークなものだ。前にも書いたが、カートリッジとはレコード針及びレコードの音溝の振幅を電気信号に変換するための発電装置等を含めた機器の総称である。通常、カートリッジは磁石あるいはコイルを用いて針の動きを検出するのだが、この光カートリッジは針の動きに光を照射し、信号を光の変化量として捉え出力する。



 この光カートリッジは理論としては昔からあり、実際に70年代前半には東芝やTRIO(現KENWOOD)等が製品化したという。しかし、当時の技術では製造工程や品質安定性に関するハードルが高すぎたために、早々に撤退してしまったらしい。今回それが可能になったのは、LEDの採用によるところが大きい。単純に考えて、磁石あるいはコイルを使用しないということは、磁気がもたらす数々の“影響”をクリア出来ることを意味する。その“影響”には良くないものも含まれていることは想像に難くなく、その意味では画期的な製品かもしれない。

 提供しているモデルは2機種で、上位製品は30万円を超える。しかも、専用のイコライザーを併用しなければならず、マニアでも二の足を踏んでしまうような価格設定だ。出てくる音はスムーズで良いとは思うが、同価格帯の他社製品と聴き比べたわけではないので、商品自体の競争力に関しては未知数である。それでもこのDS Audioに期待したいと思ったのは、開発スタッフが若いからだ。

 まだ20代の開発主任は、数年前に初めてアナログレコードの音に接し、その密度の濃いサウンドに驚愕したという。それが切っ掛けとなって今回の製品化に向けて全力を注ぐようになったらしいが、当然のことながら懐古趣味のオールドファンなんか相手にしていない。レコードを新しいメディアとして幅広い層にアピールさせるために今後も業務に邁進するとのことで、頼もしいと思ったものだ。これからも注視したいブランドである。

(この項つづく)
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