元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」

2010-10-21 06:38:39 | 映画の感想(ら行)
 (原題:The League of Extraordinary Gentlemen )2003年作品。19世紀後半に書かれた娯楽小説の登場人物たちが一堂に集まり、世界征服を狙う悪の結社と戦うというアクション・アドベンチャー篇(原作は同名のコミック)。

 正直言って出来はあまり良くない。戦闘シーンこそ派手だが、展開が行き当たりばったりで、ここ一番の「物語の勘どころ」が見えてこない。画面がやたら暗いのもマイナスで、これでは「SFXの予算をケチるため暗くして誤魔化しました」と言ってるのと同じだ。蛇足的なエピローグにも脱力してしまう。

 でも、個人的には決して嫌いではない。こういう山田風太郎の「魔界転生」みたいな“ヒーロー集合映画”は好きなのだ。しかも「ソロモン王の宝窟」のアラン・クォーターメインとか「海底二万マイル」のネモ船長のような“やや通好み”のキャラクターを揃えているところが嬉しい。映画の最後に敵役の正体が“某有名小説の悪役”である点もグッド。あと、ノーチラス号の造形なんかも悪くないしね。

 ショーン・コネリーをはじめとするキャストも楽しそうに演じているし、脚本と演出をリファイン出来れば、続編を作ってもいいと思ったが、現時点でもパート2の話は聞かない。残念なことだ。
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「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」

2010-10-20 06:41:10 | 映画の感想(な行)

 ズバリ言って、これは主演女優・佐藤寛子のハダカを堪能するための映画である。それ以外の見所はない。ボディ自体はスリムなのに、バストだけはとてもデカい(そして、形も良い ^^;)。下半身にも余計な肉は付いておらず、足も見事に長くて細い。実に理想的なプロポーションだ。彼女が脱ぐシーンには、おそらく客席のオッサンどもからは多くの溜め息が洩れたことだろう(爆)。

 演技者としての佐藤は未熟だ。表情に乏しく、セリフ回しも棒読みである。同世代の若手女優陣と比べれば随分と見劣りするのは確かだ。しかし、この“カラダを張れる”というアドバンテージは捨てがたい。もうちょっと演技を勉強すれば、独自の地位を獲得するかもしれない。それまで身体の線を維持して頑張って欲しいものだ。

 さて、本作は93年に製作された「ヌードの夜」の続編である。監督と脚本は引き続き石井隆が担当し、主人公にも竹中直人が扮している。出来としては、駄作だった前作に対してこの映画は少しはマシである。しかし取り立てて評価すべきシャシンでもなく、まあ“凡作”のレベルだろう。

 代行屋の紅次郎こと村木(竹中)のもとに、死んだ父親の散骨時に誤って紛失した高級腕時計を探してほしいと言う若い女(佐藤)がやってくる。不審を抱きながらも引き受けた村木だが、やがて彼女の母と姉が企む奸計に巻き込まれていく。

 過去の石井作品に出てきたたようなキャラクターを寄せ集め、カメラワークも美術も従来通りで新味はない。ストーリー面でも序盤の緊迫感は中盤ぐらいで早々に薄れ、あとは行き当たりばったりの御都合主義的なプロットの羅列だ。正直、後半は眠くなる。しかし、そこを見計らったように佐藤寛子の“オッパイ攻撃”が炸裂し(笑)、スクリーンからは絶対に目が離せなくなる。これもある意味“うまい作劇”なのかもしれない。

 脇を固める大竹しのぶや井上晴美の演技は、悪くはないけど予想通り。宍戸錠も出てくるが、大した見せ場もない。ただし前回で余貴美子が演じたヒロインのような“不快感を覚えるキャラクター”が見当たらないのは本作の長所かと思う。なお、女刑事役で出ていた東風万智子は元の真中瞳が改名したものだ。事務所を辞めたせいらしいが、芸能界で生きていくのもいろいろと事情があって大変みたいである。
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「酔画仙」

2010-10-19 06:36:49 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Chihawseon)2002年作品。韓国の巨匠イム・グォンテクによる映画で、19世紀末に活躍した天才画家チャン・スンオプの生涯を描く。

 2002年度カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得した作品だが、正直言ってイム監督はこの前作「春香伝」で受賞すべきだったと思う。格調の高い映像、特に主人公が描く素晴らしい山水画の世界が全面展開されるのには感心したが、物語の部分がいささか心許ない。

 最初から伝記映画を狙っているせいか、スンオプの一生を総花的に駆け足で追うことに腐心するあまり、主人公の心情や絵画に対するインスピレーションといった肝心の部分がほとんど描かれていない。もっと、特定のエピソードをじっくりと腰を落ち着けて撮り上げるべきではなかったか。スンオプに扮するチェ・ミンシクは好演で、脇に回ったアン・ソンギの存在感も捨て難いだけに何とも残念だ。

 チョン・イルソンの撮影とキム・ヨンドンによる音楽は良い。なお、朝鮮半島の近代史を描くに当たって単純に“日本が悪い”だの“清国が悪い”だのといった一面的な見方を全然していないのは、作者の賢明さゆえだろう。
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「おにいちゃんのハナビ」

2010-10-18 06:32:07 | 映画の感想(あ行)

 とても感動的な映画で、観賞後の満足感も高い。通俗的に言えば本作は“難病もの”である。しかしこの手の映画にありがちな、ワザとらしい展開やこれ見よがしの“泣かせ”の演出などはほとんどない。それは映画の焦点が“去りゆく者への哀惜の念”ではなく“これから生きる者へのメッセージ”であるからだ。

 舞台は新潟県の小千谷市片貝町。都会から越してきた一家の高校生の娘は白血病に冒されていた。彼女が半年間の病院生活を経てやっと家に戻ると、兄は高校を出て進学も就職もせずに引きこもりになっていた。両親は彼女を心配させまいと、入院中は兄のことを伏せていたのだ。元より快活な性格の妹は、そんな兄を励まそうとする。

 難病を患う者が目一杯元気であり、健康であるはずの人間が死んだような生活を送っているという、この逆転の構図が面白い。本作のタイトルは「おにいちゃんのハナビ」であり、決して「妹の花火」ではない。通常のお涙頂戴映画ならば、死の床にある妹にキレイな花火を見せるシーンをクライマックスに持ってきて“泣かせ”に走るところだが、彼女は中盤を過ぎたあたりで再入院し、あっけなく退場してしまう。打ち上がる花火は、文字通り精神的な落ち込みから再起する兄のためにあるのだ。

 片貝町で毎年9月に行われる祭において、町民たちが打ち上げる花火は冠婚葬祭のシンボルになっている。このモチーフを取り入れたことが勝因で、終盤の花火は去っていった妹の供養であると同時に、これから長い人生を歩む兄の門出を祝するものである。また、生きている者は死んだ者達のかつての存在感によって“生かされている”ということを、雄弁に語るものだ。この透徹した作者の人生観には共感出来る。

 主役の高良健吾と谷村美月は好演。彼らが扮する兄妹の関係性を見ているだけで泣けてしまう。宮崎美子や大杉漣らの脇のキャストも万全だ。監督はこれが劇場用映画デビュー作となる国本雅広だが、実話だという題材に過度に寄りかからずに丁寧に仕上げている。

 ただし、劇中に出てくる青年団(みたいなもの)の扱いには違和感が残った。何をやっている団体なのかは一応説明されるのだが、あまり大した活動をしているようには見えない(単なる仲良し会みたいだ)。逆に言えば、それを除けば破綻のない映画ということでもある。誰にでも奨められる佳篇であることは間違いない。
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「ファム・ファタール」

2010-10-17 06:26:36 | 映画の感想(は行)
 (原題:Femme Fatale)2002年作品。美貌を武器に富を手に入れようとする悪女の運命を、ケレン味たっぷりの映像で追ったピカレスク篇。

 この映画のストーリーは底抜けである。カンヌ映画祭の会場から盗み出した宝石が中盤以降どこかに行ってしまうのをはじめ、逃亡を企てた女主人公の前には絵に描いたような御都合主義的展開が待ち受ける。さらにラスト近くにはそれまでの筋書きをチャラにするような「禁じ手」でお茶を濁す有様。

 しかしそこはブライアン・デ・パルマ監督。アホなストーリーを帳消しにするような映像のアドベンチャーを用意しているのだ・・・・と思ったらさにあらず。昔はサマになっていた画面分割や高速度撮影などのテクニックは見る影もなく衰え、それをまたしつこく繰り返すものだから、観ている方は面倒くさくなってしまう。

 事件を追うパパラッチ役にアントニオ・バンデラスも出てくるが、脚本がズンドコなので手持ち無沙汰の様子。見所といえば冒頭近くのウッフン場面ぐらいだろうか(笑)。

 しかしまあ、老監督の他愛のない空想話に付き合ってやったと思えば、あまり腹も立たないかもしれない。主演のレベッカ・ローミン=ステイモスは「X-MEN」シリーズで全身真っ青メイクのミュータントを演じていた女優だが、今回はキレイな素顔としなやかな肢体を存分に披露しており、悪女役として今後も期待できそうだ。
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「パリ20区、僕たちのクラス」

2010-10-09 06:49:40 | 映画の感想(は行)

 (原題:Entre les murs)とにかく面白い。パリ市内にある公立中学校のクラスの描写が実社会の数々の問題とリンクしてゆく様子は、映画的興趣に溢れている。題材は地味ながら、第61のカンヌ国際映画祭で大賞を獲得しただけあって、ヴォルテージはかなり高い。

 主人公は2年生のクラスを担当する国語教師だが、演じているのはこの作品の原作者でもあるフランソワ・ベゴドーだ。彼は実際に中学校で国語教員として教壇に立ったことがあるという。しかし劇映画の出演経験はないらしく、ここでは“彼自身”を演じていると言っても良いだろう。それ以外のキャストも全員素人で、映画の中では“本名”で登場する。

 明らかにこれはイランのアッバス・キアロスタミ監督あたりが得意とする“ドラマとドキュメンタリーとの融合”であるが、方向性は異なる。キアロスタミがドキュメンタリー環境の中で作者がテーマを振ることにより偶発的なドラマを喚起させるのに対し、本作の監督ローラン・カンテが狙うのはドキュメンタリー手法によるドラマの積み上げである。これはよほど脚本を練り上げないと話がウソっぽくなってしまうが、カンテとベゴドーによるシナリオは堅牢そのもので、ケチの付けようがない。

 人種も境遇も異なる生徒達に、文法の基礎から教え込む教師の苦労は並大抵のものではない。何しろ十分にフランス語を話せない者もいるほどだ。親との三者面談でも、親にはフランス語は全く通じないケースだってある。通訳を担当する生徒だって、マジメに訳しているのかどうかも分からない。

 一つずつ積み木を積むように生徒達を導き、何とかクラスのまとまりが見えてきたかと思ったら、またしてもトラブルが起きて最初からやり直し。言うことをなかなか聞かない多彩すぎる生徒達の有り様は、もちろん移民問題などフランスの抱える社会問題の暗喩だ。

 ただし教師は逃げることはできない。たとえ徒労に終わろうとも、徒手空拳で状況に立ち向かうだけである。この開き直りとも言える作者の切迫したスタンスは、あくまでもポジティヴな希望を持ちたいという、逆境に対する宣戦布告だろう。学校から一歩も外に出ることはないカメラも、作者の決意の強さを表している。

 退学も有り得るフランスの学校のシステム、生徒代表が参加しての職員会議、せわしない教室の様子や極端に狭い校庭など、いろいろと興味深いモチーフが満載で、それだけでも観る価値はある。それにしてもラストの痛烈なこと。つくづく教師というのはストレスの多い職業である(私なんかには務まらない ^^;)。
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Nmodeの試聴会に行ってきた(その2)。

2010-10-08 06:40:28 | プア・オーディオへの招待

 前回のアーティクルで、福岡市にあるオーディオショップ「吉田苑」におけるNmode(エヌモード)の新製品の試聴会に参考出品されていた試作品のスピーカーが凄いことを述べたが、少なくとも現時点ではあれは非売品だ。メインはやはり新作アンプの方である。

 紹介されていたのはX-PM2FとX-PM10。定価が前者が14万円で、後者が33万円である。どちらも基本的な回路構成は同じで、出力は共に10W×2程度と、トランジスタ型アンプにしてはかなり低い。なお、X-PM10は電源部分を別筐体にしたセパレート式の形状である。

 いずれも省電力で駆動力を稼ぐデジタルアンプの体裁を取っているが、今回は1ビット方式を採用しているため、パワーよりも音質を確保する作戦に出たようだ。もっとも、10W×2という出力はそう捨てたものではない。コンパクト型のスピーカーならば(一部の超低能率の製品を除けば)十分な音圧が得られる。フロアスタンディング型でも図体のデカいものは無理だが、スリムなトールボーイタイプならば何も問題はないようだ。

 両機種とも前作のX-PM1よりも透明感や解像度が磨かれており、音場はどこまでも見通しが良い。おそらくはサンプリング周波数のアップが効果を上げているのだろう。X-PM2FとX-PM10との差だが、基本的な音色は同じながら、解像度や音場の広さは異なる。X-PM10には時折ハッとするような音の伸びがあり、ソースによっては艶っぽい表現も出来る。大音量派には向かないが、一般家庭で普通の音量で楽しむことを想定すると、コストパフォーマンスはかなり高いと思う。

 もっともX-PM2Fにしても価格を考えれば上質で、ミドルレンジのセグメントまでのスピーカーならばこれで十分かもしれない。・・・・というか、この出力のアンプで鳴らせないような規格のスピーカーは(一般家庭用途としての)コンセプトが間違っているんじゃないかという言い方も出来よう。

 Nmodeではハイエンド機の製作も企画しているようだが、なかなか良い音を出す素子が見つからないとかで、実現は未定らしい。気長に待ちたい。

 いずれにしても、これらの製品を見ていると、かつての“アンプは重ければ重いほど良い”という物量投入主義は過去のものになった感がある。庶民の住宅事情も考えれば、Nmodeの製品のような比較的コンパクトな形状で駆動力を発揮するアンプの方がアピール度が高い。他の国内大手メーカーも見習って欲しいものだ。

(この項おわり)
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Nmodeの試聴会に行ってきた(その1)。

2010-10-07 06:37:30 | プア・オーディオへの招待

 先日、福岡市にあるオーディオショップ「吉田苑」において専門メーカー「Nmode」の新製品の試聴会が開催されていたので、足を運んでみた。

 Nmode(エヌモード)は2008年に創立されたニューカマーで、最初にリリースされたプリメインアンプのX-PM1とCDプレーヤーのX-CD1の試聴会にも以前行ったことがあるのだが、今回はその第二弾の商品のデモンストレーションである。

 展示機種はX-PM1の実質的な後継機種であるX-PM2Fと上位機種のX-PM10であったが、何よりインパクトがあったのはそれらのアンプではなく、Nmodeのエンジニアが新たに作成した開発用モニタースピーカーだ。まだ世界にワンセットしかないシロモノだが、とにかく音の鮮度がスゴい。驚異的な定位の良さと音場(特に奥行き)の深さ。音像の立ち上がりと立ち下がりのスピードは並大抵のものではなく、ただただ舌を巻くばかり。

 キャビネットはジュラルミン製。しかも、スピーカースタンド(置き台)と完全一体化。バスレフダクト(低音が出る穴)は底面に開いているが、もちろんこれも高剛性のジュラルミンで出来ている。ユニットはオーストリアのハイエンドメーカーCONSENSUS AUDIO社のスピーカーに使われているものと同じ製造元(ドイツのTHIEL&PARTNER社)から導入されたものらしく、振動板はセラミックスである。なお、サランネットはないが振動板は卵の殻ほどの強度しかないため、金網でユニットを覆っている。重さはスタンド込みでおよそ60kg。推定の出力音圧レベルは約90dB。インピーダンスは4Ω強とのこと。

 残念ながら音色は決して明るくはないのだが、国内大手メーカーのスピーカーみたいな無味乾燥な暗さもなく、物理特性を突き詰めたその果てにあるような清涼な世界を演出している。ちょうど、往年の松下電器(現Panasonic)がTechnicsブランドで展開していたオーディオ機器が最後期に到達した次元にどこか通じるようなものがあると思った。

 クラシック、ジャズ、ロック、歌謡曲とあらゆるジャンルを鳴らしてみたが、どれも全く破綻無し。真の意味でオールマイティである。本来モニター用なので自室でリラックスして音楽を楽しむような使い方は向いておらず、したがって私個人はあまり導入したいとは思わないが、スピーカーにしっかり対峙して真剣に聴き込むような使い方をすれば真価を発揮するだろう。

 実売するとしたらペア130万円か140万円ぐらいになるかもしれないとメーカー担当者はコメントしていたが、この音でその値段だったら「安い」かもしれない。サウンドマニアならば要チェックの製品であろう。

 肝心のアンプのインプレッションだが、それは次回のアーティクルで述べることにする。

(この項つづく)
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「セラフィーヌの庭」

2010-10-06 06:36:46 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SERAPHINE )主演女優のヨランド・モローに圧倒される映画だ。素朴派の女流画家セラフィーヌ・ルイに扮する彼女は、セラフィーヌとは本当にこのような人物であったと観る者に思わせる存在感を獲得している。

 20世紀初頭のパリ郊外のサンリスに住んでいた、貧しく孤独な中年の家政婦セラフィーヌの唯一の生き甲斐は絵を描くことだった。教会へ足繁く通う信心深さも紹介されるが、彼女の製作意欲の根元は自然との対話である。

 これは一神教であるキリスト教とは相容れないアニミズムであり、日本の“八百万の神々”といった概念にも近い。たぶん彼女の中ではキリストでさえ“数多居る神々の一人”でしかなかったのだろう。そういう独自の世界観を持っている彼女が孤独だったのは当然かもしれない。

 ところが、その絵の才能は田舎で埋もれたままでは終わらなかった。高名なドイツ人の画商ウーデに見出され、一躍その名を知られるようになるのだ。もとより経済的成功や戦争や大恐慌などの世俗的な事柄に無縁だった彼女は、否応なくそれらに巻き込まれるようになり、精神のバランスを崩してゆく。

 改めて思うのだが、突出した才能というのは本人を幸せにはしないことが多々ある。特にセラフィーヌのように狂気と正気の狭間にいるような人間にとって、実社会の過度の干渉は禁物なのだ。

 もしも彼女が日本に生まれていたらどうだろうか。草花や大樹と心通わす様子は、ちょっと変わっているとは思われるだろうが、自然物信仰など珍しくもない我が国では決して阻害されることはないはずだ。運命の悪戯を感じずには居られない。劇中で紹介される彼女の絵は、常人の認識する世界を超えるような屹立した個性を有している。いつか実際に接してみたいものだ。

 マルタン・プロヴォストの演出は抑制されたタッチを維持しているが、密度は高い。ヒロインの“彼岸を見ているような目つき”を巧みに切り取るシーンに代表される集中力と、引きのショットでの堅牢な画面構築には感心させられる。説明的なセリフやヘンに饒舌な場面を極力廃しているのも納得だ。美術に興味を持つ者だけではなく、骨太な人間ドラマを味わいたい観客をも満足させる、力のこもった作品である。
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「北京ヴァイオリン」

2010-10-05 06:40:15 | 映画の感想(は行)
 (英題:Together)2002年作品。ハリウッドで「キリング・ミー・ソフトリー」を手掛けた後、中国に戻った陳凱歌が撮ったのは、音楽の才能に恵まれた息子とお人よしの父との固い絆を描くという、ベタベタの“お涙頂戴劇”だ。

 そもそも田舎町の食堂のコックに過ぎない父親が、どうやって息子にヴァイオリンをマスター出来るだけの環境を整えられたのか大いに疑問だし、失意の音楽家や母親の雰囲気を持つ女性との出会いも御都合主義の極みである。

 元より演出力には定評のある陳監督だから、そういった疑問点は“メロドラマのお約束事”として詮索をさせず、観客の紅涙を誘うという作品の意図は十分クリアしている(音楽の使い方も万全だ)。しかし、かつて「黄色い大地」や「さらば、わが愛/覇王別姫」のようなアジア映画史に残る傑作を手掛けた彼が、こんな下世話なネタでお茶を濁している事実は決して愉快なものではない。映画作家としての矜持は地方と都市部との絶望的なまでの貧富の差を描く序盤部分にかろうじて見えるのみ。

 予定調和的なセンチメンタリズムが“巨匠の作品”として通用してしまう状況は、たぶん「至福のとき」を撮った頃の張藝謀と通じるものがあるのだろう。今の中国では“こんな映画”しか作れないのかもしれない。
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