元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「オリーブの林をぬけて」

2009-03-14 06:39:37 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Through the Olive Trees)94年作品。前回紹介したアッバス・キアロスタミ監督の「そして人生はつづく」にはイランの大地震の翌日に結婚した若夫婦のエピソードがある。もちろん、演じる彼らはプロの俳優ではなく地元の若者だ。ただし、実は二人は夫婦ではなく、しかも彼氏は彼女にプロポーズして断られていたという。男には財産も学歴もないからというのが理由。この事実を知ったキアロスタミ監督は、二人を主人公にラブ・ストーリーを撮り上げる。それがこの映画だ。

 「そして人生はつづく」の撮影風景が何度も挿入される。若い夫を演じる彼氏は、何度も彼女にセリフを言うのだが、彼女は頑として受け付けない。自分が振った男をいくら映画とはいえ夫とは呼ばないのだ。NGの連続。監督は妥協して撮り終えるが、出演者を村まで送る車には二人は乗りきれない。歩いて戻る途中、彼氏は彼女に最後の説得を試みるのだが・・・・。

 撮影所を舞台にして、映画の中では恋人を演ずる二人が、実際はお互い微妙な確執を抱えていて、それが実生活に反映するという、トリュフォーの「アメリカの夜」の例を出すまでもなく、これは、昔のハリウッドでも数多く作られた“バックステージもの”の構図を持つ映画だ。ただ決定的に違うところ---それはこの映画を近来まれに見る傑作に押し上げている要因なのだが---映画の“虚構性”の壁を見事に乗り越えていることだ。



 “誰だって自分の役は上手に演じることができる”。キアロスタミはインタビューでこう答えている。演じる側がカメラの前でも本人自身でいられるような環境をつくる、一見簡単なようでいて実は至難の業であることをあえてやってしまうキアロスタミの非凡さは「友だちのうちはどこ?」の感想にも書いているが、その“作風”はこの映画でひとつのピークに達している。冒頭、監督役の俳優が女性キャストを村人たちから選ぶ場面はぶっつけ本番で、彼氏役の男がキャンプで老人と延々と話すシーンも“事実”である。

 ただ“こういうアドリブに近い場面があるからフィクションの虚構性を乗り越えている”と言いたいのではない。アドリブは虚構の上でこそ有効であるに過ぎない。重要なのはアドリブ云々を論じるようなドラマの恣意性から映画自体が解放されている点である。「そして人生はつづく」に登場する老人が“この家は私のではないが、映画のスタッフがそう言うので、そういうことになってる”と種明かしをしたのと同様、この映画でも「そして人生はつづく」のいくつかのシーンが別のアングルから描かれているように、映画のからくりはとっくの昔に披露されている。虚構を明かした上に、なおかつ自然な“現実”を“構築”していく作者の確信犯ぶりは、映画作家としてのひとつの理想像ではないかと思ってしまう。

 例によって映像技巧的には十分に練られている。“自然なエピソード”をプロットとして積み上げていく作者の力量を、美しいカメラワークが盛り上げる。そして映画はクライマックスを迎える。

 一瞥もせずに歩く彼女に、彼は後ろからどこまでも付いて行く。“僕は地震で住む家もないが、最初から家を持っている奴なんていない。二人で力を合わせて家を建てよう。学のない僕だって勉強すれば字ぐらい読めるようになる。反対していた君の両親も地震で亡くなったし、みんなゼロからの出発だ。二人でやり直そう。これきり会えないかもしれないんだ。お願いだから返事をしてくれ”。二人はそのままオリーブの林を抜け、地の果てまで延びたジグザグ道をどこまでも歩く。すでに彼らは画面の奥に遠ざかり、彼氏の必死の訴えも観客には聞こえない。俯瞰でとらえた彼らは二つの点に過ぎなくなるが、それでも雄大な大地に負けないほどの登場人物の真摯さが伝わってくる。

 そしてラストは書けないが、私はこんな素晴らしい結末を、こんな見事な演出を、見たことがない。映画を観てきて本当によかった、と心から思えるような、至福の瞬間。この頃のアッバス・キアロスタミの作品群は映画の希望そのものだ。ハリウッドから遠く離れ、イランというアジアの片隅で映画は今も時代の“前衛”を走っている。

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