元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「友だちのうちはどこ?」

2009-03-12 06:28:52 | 映画の感想(た行)
 (英題:Where Is the Friend's Home? )87年作品。イラン北部の小さな村。主人公の小学校2年生アハマッドは、ある日間違えて友人モハメドのノートを持って帰って来たことに気付く。モハメドはその日ノートに宿題を書いてこなかったことで先生にこっぴどく叱られている。しかも、もう一度ノートを忘れると学校を追い出されるかもしれないのだ。何とかして今日中にノートをモハメドに返さなければならない。アハマッドは山の向こうにあるモハメドの住む村にたった一人で出かけていくのであったが・・・・。監督はイランの巨匠アッバス・キアロスタミで、彼の作品で初めて我が国に本格的に紹介された映画だ。

 ハッキリ言って、これは製作当時としては驚くべき映画である。我々が映画の登場人物について考えるとき、役者の演技うんぬんに触れないわけにはいかない。“自然な演技だった”とか“熱演だった”“いまいち体現化されていない”などなど。それは俳優が演技をするという前提にもとづいて言っているわけで、演技を必要とせず、俳優も必要がない映画とはドキュメンタリーであって劇映画ではないはずである。でも、登場人物が演技せず(あるいは演技をまったく感じさせず)、しかも作品として劇映画以外の何物でもなかったら? そんなバカな、と誰でも思う。しかしこの映画はまさにそれなのだ。



 主人公の少年の生活の場にカメラを持ち込み、やがてカメラをまったく意識しない状況に仕立て上げる。そこで作者は“本当に”アハマッドのカバンの中に友人モハメドのノートを入れる。困惑した彼は“本当に”山を越えてモハメドにノートを返しに行くのだ。つまりここで起こっていること、登場人物の行動はすべて“本当”であり、演技ではない。外出を許可しない頑固な母親や、気むずかしい祖父や、純朴なクラスメートたちは“本物の”リアクションを示し“本音の”セリフを吐く。劇映画の中に“本物”を構築するという手法は今まで多くの映画作家たちが試みてきたことと思うが、成功した例をあまり聞かない。まさに映画にとっての“夢”を実現した作品といえるのではないだろうか。

 しかし、対象をなんとか苦労して自然に撮れば映画の中に“本物”が実現すると思ったら大間違いだ。そのためキアロスタミ監督は演技をほとんどさせなかった代わりに、演出には映画技法の限りを尽くしている。まずカメラワーク。ワンシーン・ワンカット手法の長回しと、効果的な横と縦の移動が主人公の揺れ動く心情をなんとよく表現していたことだろう。山の上に生えている象徴的な一本の木や、見知らぬ村の迷路のごとき描写、夜、世界の終わりのような漆黒の闇と、激しい風にあおられてはためく洗濯物の強烈な存在感。構図の素晴らしさに圧倒されてしまった。さらに物語を歯切れよく1時間半にまとめ上げた編集の見事さも特筆したい。

 さらに感心したのが作者の主人公にそそぐ愛情である。友だちを大事にし、家族思いの好ましいキャラクター(当然、演技ではなく本物である)を生かす設定。そしてこの映画のラストシーンは、歴代のイラン映画の中でも出色の出来だ。世界各地の映画祭で賞を獲得したのも頷ける、必見の秀作である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「愛のむきだし」 | トップ | 「そして人生はつづく」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画の感想(た行)」カテゴリの最新記事