(英題:TREASURE ISLAND )93年台湾作品。製作総指揮・侯孝賢。監督は当時気鋭の若手だった陳國富(チェン・クオフー)。未曾有の発展を遂げた現代の台北に生きる若者たちの一触即発の緊張感、不安な時代の空気を描き出す野心作である。
冒頭、タイトル・バックに寺の門らしき場所で太鼓を打ち鳴らし踊りまくる若者たちが映し出される。ところがこれは本編とは全く関係がない。そして映画は喫茶店の中でたわいない会話に興じる若者たちの姿をとらえるが、その中の女の子が突然ナイフを突きつけられるという事件が発生。しかし、カメラはこのドラマティックな出来事に興味を示さず、リン・チャン扮する若い男を画面の中心に据える。さらに、場面は唐突に街の写真屋で現像の仕事をしている女の子がチャンからの連絡を無線機で受けるシーンに変わる。ここでトレイシー・スー演じる彼女が彼のガールフレンドらしいことがわかるが、詳細な説明を無視するかのごとく、画面は次々と対象を別のキャラクター、別の場面状況に求めて飛び回る。
バラバラなシーン展開は登場人物の人間関係をもあらわしている。本音を見せず、表面的なリアクションを追うだけの彼らを結び付けるのは、留守番電話・無線機・FAXといった匿名性の強いメディアである。もっとも、作者は“それでは本当の人間同士のコミュニケーションは成り立たない”というアホみたいな“常識的”スタンスは持ち合わせていない。膝突き合わせて対峙することだけが人間関係ではなく、むしろ匿名メディアの持つ情報収集能力や双方向性こそが別のコミュニケーションを生み出す手段ではないのかと、観客に問いただしているようにも思える。
映画はチャンが謎の美女(ヴェロニカ・イップ)の日記帳を拾ったことから急転回する。彼女を囲っているのはマフィアのボスで、当然主人公は犯罪に巻き込まれ、サスペンス映画の様相を呈してくる。しかし、当然作者の興味は犯罪映画そのものにあるのではない。無気力で生きている実感のないこの女の唯一の拠り所は、架空の読み手に宛てた日記帳に自分の考えを書き綴ることなのだ。これも一種の匿名メディアだとは言えないか? このメディアが主人公によって他者へ伝達されるとき、それ自体が力を持ち、女の妄想が自分も周囲の者も破滅に追い込んでいく。そのスリルを描いているのだ。
映像処理の素晴らしさやカッティング技術の見事さについて述べるには紙面が足りない。主人公とガールフレンドは愛を確認するが、ラストの台北の街をバックに飛び回る匿名メディアの未確認情報の洪水は、この世界が新しいコミュニケーションの段階に入ったことを如実に示している。それが善か悪かはわからない。しかし、我々は確実にそれに直面しているのだ。
冒頭、タイトル・バックに寺の門らしき場所で太鼓を打ち鳴らし踊りまくる若者たちが映し出される。ところがこれは本編とは全く関係がない。そして映画は喫茶店の中でたわいない会話に興じる若者たちの姿をとらえるが、その中の女の子が突然ナイフを突きつけられるという事件が発生。しかし、カメラはこのドラマティックな出来事に興味を示さず、リン・チャン扮する若い男を画面の中心に据える。さらに、場面は唐突に街の写真屋で現像の仕事をしている女の子がチャンからの連絡を無線機で受けるシーンに変わる。ここでトレイシー・スー演じる彼女が彼のガールフレンドらしいことがわかるが、詳細な説明を無視するかのごとく、画面は次々と対象を別のキャラクター、別の場面状況に求めて飛び回る。
バラバラなシーン展開は登場人物の人間関係をもあらわしている。本音を見せず、表面的なリアクションを追うだけの彼らを結び付けるのは、留守番電話・無線機・FAXといった匿名性の強いメディアである。もっとも、作者は“それでは本当の人間同士のコミュニケーションは成り立たない”というアホみたいな“常識的”スタンスは持ち合わせていない。膝突き合わせて対峙することだけが人間関係ではなく、むしろ匿名メディアの持つ情報収集能力や双方向性こそが別のコミュニケーションを生み出す手段ではないのかと、観客に問いただしているようにも思える。
映画はチャンが謎の美女(ヴェロニカ・イップ)の日記帳を拾ったことから急転回する。彼女を囲っているのはマフィアのボスで、当然主人公は犯罪に巻き込まれ、サスペンス映画の様相を呈してくる。しかし、当然作者の興味は犯罪映画そのものにあるのではない。無気力で生きている実感のないこの女の唯一の拠り所は、架空の読み手に宛てた日記帳に自分の考えを書き綴ることなのだ。これも一種の匿名メディアだとは言えないか? このメディアが主人公によって他者へ伝達されるとき、それ自体が力を持ち、女の妄想が自分も周囲の者も破滅に追い込んでいく。そのスリルを描いているのだ。
映像処理の素晴らしさやカッティング技術の見事さについて述べるには紙面が足りない。主人公とガールフレンドは愛を確認するが、ラストの台北の街をバックに飛び回る匿名メディアの未確認情報の洪水は、この世界が新しいコミュニケーションの段階に入ったことを如実に示している。それが善か悪かはわからない。しかし、我々は確実にそれに直面しているのだ。