元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「宝島(パオタオ) トレジャー・アイランド」

2009-03-08 06:31:08 | 映画の感想(は行)
 (英題:TREASURE ISLAND )93年台湾作品。製作総指揮・侯孝賢。監督は当時気鋭の若手だった陳國富(チェン・クオフー)。未曾有の発展を遂げた現代の台北に生きる若者たちの一触即発の緊張感、不安な時代の空気を描き出す野心作である。

 冒頭、タイトル・バックに寺の門らしき場所で太鼓を打ち鳴らし踊りまくる若者たちが映し出される。ところがこれは本編とは全く関係がない。そして映画は喫茶店の中でたわいない会話に興じる若者たちの姿をとらえるが、その中の女の子が突然ナイフを突きつけられるという事件が発生。しかし、カメラはこのドラマティックな出来事に興味を示さず、リン・チャン扮する若い男を画面の中心に据える。さらに、場面は唐突に街の写真屋で現像の仕事をしている女の子がチャンからの連絡を無線機で受けるシーンに変わる。ここでトレイシー・スー演じる彼女が彼のガールフレンドらしいことがわかるが、詳細な説明を無視するかのごとく、画面は次々と対象を別のキャラクター、別の場面状況に求めて飛び回る。

 バラバラなシーン展開は登場人物の人間関係をもあらわしている。本音を見せず、表面的なリアクションを追うだけの彼らを結び付けるのは、留守番電話・無線機・FAXといった匿名性の強いメディアである。もっとも、作者は“それでは本当の人間同士のコミュニケーションは成り立たない”というアホみたいな“常識的”スタンスは持ち合わせていない。膝突き合わせて対峙することだけが人間関係ではなく、むしろ匿名メディアの持つ情報収集能力や双方向性こそが別のコミュニケーションを生み出す手段ではないのかと、観客に問いただしているようにも思える。

 映画はチャンが謎の美女(ヴェロニカ・イップ)の日記帳を拾ったことから急転回する。彼女を囲っているのはマフィアのボスで、当然主人公は犯罪に巻き込まれ、サスペンス映画の様相を呈してくる。しかし、当然作者の興味は犯罪映画そのものにあるのではない。無気力で生きている実感のないこの女の唯一の拠り所は、架空の読み手に宛てた日記帳に自分の考えを書き綴ることなのだ。これも一種の匿名メディアだとは言えないか? このメディアが主人公によって他者へ伝達されるとき、それ自体が力を持ち、女の妄想が自分も周囲の者も破滅に追い込んでいく。そのスリルを描いているのだ。

 映像処理の素晴らしさやカッティング技術の見事さについて述べるには紙面が足りない。主人公とガールフレンドは愛を確認するが、ラストの台北の街をバックに飛び回る匿名メディアの未確認情報の洪水は、この世界が新しいコミュニケーションの段階に入ったことを如実に示している。それが善か悪かはわからない。しかし、我々は確実にそれに直面しているのだ。
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「罪とか罰とか」

2009-03-07 06:34:20 | 映画の感想(た行)

 期待していなかったが、とても楽しめた。売れない三流アイドルが、ひょんなことから警察署の“一日署長”を務めることになる。しかし、その日に限って重大事件が勃発。さらに担当刑事は彼女の元恋人で、連続殺人犯という裏の顔を持っている。署長室は“拷問室”(笑)などがある地下の薄暗い一角に置かれ、署員には子供とか顔がモザイク処理されてよく見えない奴など常軌を逸した面々が揃っている。副署長にいたっては担当刑事の殺人癖を隠匿する始末。

 だいたい“一日署長”の“任期”が夜の12時までというのもあり得ないし、捜査の指示を出すなんてことも絶対にない。かようにふざけた設定と展開の映画ながら、紙一重で“下品な駄作”に終わってしまうことを回避しているのは、監督と脚本を担当しているケラリーノ・サンドロヴィッチの“舞台劇を意識した映画作り”によるところが大きい。本作が最初は演劇を想定していたという話は聞かないが、限定された空間での場面が目立つ点や、登場人物の動きが多いシーンであえてカメラの長回しを敢行したりと、明らかにステージ上での演出を連想させる映像処理が目を引く。

 別に“舞台劇がベースだから映画版もOKなのだ”と言うつもりはない。だが、製作する際に演劇版としての一つの“完成された作劇形態”を想定すると、スラップスティックなブラック・コメディを撮る場合には有利に働く。こういうスタイルの映画は、ぶっつけ本番で撮ると空中分解してしまうことが多々あるだけに尚更だ。時制を入れ替えたシークエンスの配置もなかなか妙味があり、そのへんのお手軽笑劇とは一線を画する単館系のスノッブな雰囲気(謎)を程よく取り入れている。

 そして映画全体を引き締めているのは、何と言っても主演の成海璃子だ。台頭著しい昨今の若手女優陣の中にあって、最も年少のレベルでいながら、一番大人っぽい。今回も実際の年齢より上の役柄で、劇中(実年齢にフィットしているはずの)高校の制服を着ている回想場面があるが、恐ろしく似合ってないのには苦笑してしまった。また心持ち“体重増えた?”という外見も相まって(爆)、かなりの安定感・重量感を醸し出している。いくら周囲がおどけていても全く動じないのだ。あたかも作品のアンカーの役目を果たすような存在感で、まことに端倪すべからざる人材と言うしかない。

 脇のキャストも多彩で、狂言回し的な役どころの段田安則や苦労が絶えないマネージャー役の犬山イヌコ、珍しく悪役に回る奥菜恵、さらに安藤サクラや麻生久美子の怪演など濃いパフォーマンスが繰り広げられる。ギャグの扱いは秀逸で、ラスト20分間のドタバタに収斂してゆく構成力も侮れない。さらには結果としてヒロインの成長ドラマとしての側面も感じられ、興趣の尽きない一作である。
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「ロケッティア」

2009-03-06 06:30:09 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Rocketeer )91年作品。80年代に世に出た人気コミックの映画化で、監督は「ミクロキッズ」や「遠い空の向こうに」などのジョー・ジョンストン。1930年代のハリウッドを舞台にナチスの手先と戦う空飛ぶヒーロー、ロケッティアの活躍を描く。

 映画の中盤の、飛行機スタントの途中で気を失った仲間を助けるため、ロケッティアが初めて群衆の前に姿をあらわすシーンが気に入った。一番SFXがうまくいっているシークエンスで、スコーンと晴れた大空を自由自在に飛び回るスリルと爽快感が、カメラを主人公の目の位置に持って来る画面作りによって、観客にダイレクトに伝わって来る。そのあとのナイトクラブでの乱闘場面や、クライマックスの飛行船上での炎上シーンなども盛り上げようとしているのだが、やっぱり中盤のこの場面には及ばない。

 この美しい青空は、当時ハリウッドで作られていた西部劇の、あのどこまでも青い空と通じるものがあると思う。舞台をハリウッドに持ってきたのは、古き良きアメリカ映画の明るいタッチを再現しようとしている、作者のレトロ趣味があるからに違いない。やはり空飛ぶヒーローであるスーパーマンは都会のスモッグで汚れた空を飛ぶことが多かったし、バットマンに至っては(自分では飛ばないが)天気の悪い夜中だけを選んで活躍していた。それらに比べると、このロケッティアはアメリカ映画らしい明るい正義の味方だと言える。

 主役のビル・キャンベルは当時テレビ出身の若手で、屈折感のまるでないキャラクターはこの映画にぴったりだ。敵方のボスのティモシー・ダルトンは「007」シリーズよりこっちの方がいいのではないかと思うほどキザったらしい役にはまっていたし、ヒロイン役のジェニファー・コネリーの、思いもかけないグラマーさには驚いた(笑)。ラストの処理は続編製作への色気が見られたが、現時点においても二作目以降の話は聞かない。残念なことだ。
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「ハルフウェイ」

2009-03-05 06:26:06 | 映画の感想(は行)

 切なくて爽やかな学園ドラマの良作だ。世俗にまみれた生臭い日々を送る私のようなオッサンにとっては、一服の清涼剤の役割を果たしてくれる(爆)。あの頃に置き忘れてしまったようなピュアな心情を・・・・というか、私の場合そもそも当時からそんな心情があったのかどうか非常に怪しいが(笑)・・・・さり気なくスッと想起させてくれるような、そんな甘酸っぱい気分に浸ることが出来る。

 話としては実に他愛がないものだ。北海道・小樽の高校を舞台に、付き合い始めたボーイフレンドが東京の大学への進学を希望していることが判明し、自分と離ればなれになることに気を病むが、反面好きな相手には自分の道を突き進んで欲しいという気持ちもあり、そんなこんなで悩みに悩む女生徒を主人公として描いている。

 ハッキリ言って、この年代でのそういう屈託は長い人生の間のちょっとした“通過点”にすぎない。中高年になって振り返れば“ああ、そんなこともあったか”と笑い飛ばすような出来事である。ただし、人生というのはその些細な“通過点”の積み重ねであることも、また事実だ。もしも相手が地元の大学を受験し、ずっとヒロインと一緒にいたとして、そのまま微温的な関係を向こう何年間続けていても、それが二人にとってプラスになるのかどうかは誰にも分からない。反対に、二人が距離的に隔てられていても、それを乗り越えることが出来るならば決してマイナスにはならないだろう。

 先のことは予想できないが、今この瞬間に相手のことを思いやること、そして自分の“本当の心の声”に耳を傾けること、そんな真摯な姿勢こそが“単なる通過点”を掛け替えのない人生のマイルストーンへと押し上げる原動力となるのだ。

 本作で監督デビューする北川悦吏子はテレビドラマで数々の実績を残した脚本家だが、私はそれらのドラマを見たことがないので北川の作風がどういうものかは分からない。しかし、この映画は製作を担当している岩井俊二のカラーが色濃く出ていると思う。特に作品の雰囲気が岩井の監督作「花とアリス」とよく似ている。演出家の個性をどう発揮させるかという点においては万全な結果ではないのかもしれないが、出来が良ければそれでヨシだろう。

 主演の北乃きいは今回は自然体の演技で勝負。即物的なカメラワークも相まって、観る者に“彼女の実生活もこんな感じではないのか”(笑)と思わせるほどの説得力を持つ。今後が楽しみな若手の逸材だ。相手役の岡田将生も良い。進学校の生徒という設定にしては少々チャラい外見だが(爆)、決して下品にならず演技に安定感がある。友人役の仲里依紗も相変わらずイイ味出しているし、教師役に大沢たかおが出てきた時は“これは「ラブファイト」の二の舞か!”と危惧したが、今回は出しゃばらずに北乃との共演場面を印象的なものにしている。

 キリリと冷えた北海道の秋の空気感。茫漠とした風景に紅葉がアクセントを付ける。小林武史の音楽とSalyuによるエンディングテーマも申し分ない。甘酸っぱい気分で劇場を後に出来る、なかなかの佳篇だ。
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「老人Z」

2009-03-04 06:31:35 | 映画の感想(ら行)

 91年作品。原作・脚本・メカニックデザインに大友克洋、キャラクターデザインに江口寿史、監督が北久保弘之、以上のスタッフによるアニメーション映画。

 舞台は近未来。政府は来るべき超高齢化社会に対応するため、寝たきり老人の完全看護システム「Z」を開発する。第六世代コンピューターを搭載し、移動する場所に合わせて変形、完璧な医療装置とネットワーク機能を持つこの「Z」のモニターに選ばれたのが、看護学生の晴子が担当している高沢老人だった。老人を無理矢理「Z」の中に押し込めて研究室に隔離した当局側だが、「Z」の通信機能を使って老人は晴子の学校のコンピューターにSOSを飛ばす。大学病院に入院している元ハッカーの老人たちの助けを得て、「Z」と交信することに成功したのもつかの間、「Z」は高沢老人の脳波とシンクロし、老人の思い出の場所をめざして暴走を開始する。

 まず、アイデアが素晴らしい。意志を持った老人介護ロボットがモビルスーツ化して暴れ出すという発想。スピルバーグだって思い付かない。そしてとんでもないアクション・シーンの連続。他のメカを吸収同化して成長を続ける「Z」の造形デザインの非凡さ。クライマックスは「Z」を上回る新型メカニックと「Z」との激闘だ。たたみかけるような演出で息をもつかせない。

 しかし、アクション一辺倒のジェットコースター・ムービーとは明らかに違う。キャラクターすべてに血が通っており、ムダな登場人物が一人もいない。随所にギャグを盛り込んでおり展開が一本調子にならない。そして特筆すべきは老人の回想シーンに見られる小津安二郎的なノスタルジックなタッチや、老人のアパートのいかにも庶民的な空間の描写で、作者は日本映画のよさを相当理解しているとみた。

 ラストの秀逸なオチまで、存分に楽しませてくれるこの作品。間違いなく90年代初頭を代表する国産アニメーションの佳篇だ。
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「チェンジリング」

2009-03-03 06:27:26 | 映画の感想(た行)

 (原題:CHANGELING)もっと話を整理した方が良いと思った。舞台は1928年のロスアンジェルス。失踪した幼い息子を取り戻そうとする母親。数ヶ月という時間を経て見つかった“息子”は別人。果たしてその“息子”の正体は、そして本当の息子はどこへ行ったのか・・・・。こういう設定だと事件の真相が明らかになった時点で映画としては一応の“決着”が付くはずである。しかし、本作はそれから先が不用意に長いのだ。

 事件がひとまず終わって裁判に入るのは当然。だが、この映画は刑事裁判と杜撰な対応で事態を悪化させた警察当局に対する訴追の法廷とが平行して延々と描かれる。しかも、どちらも相当な分量である割には内容は予想通り。どう考えてもそれだけの上映時間を充てる必要のないパートだ。さらに、刑の執行までもが御丁寧に映し出される。それらの部分がストーリーラインとして何か重要なプロットであるかというと、実はまったくそうではない。ただ漫然と“それから、こうなりました”という顛末を滔々と述べているに過ぎない。ハッキリ言ってこんなのは映画のラストにテロップで流せば済むことではないのか。

 事件発生から事実の解明までを綴った前半部分はそれなりにまとまっていたが、後半になるとまるで腰砕けである。終盤近くには、映画自体がどうでも良くなってしまった。効果的な作劇にするためには、いくらでも方法があったはずだ。たとえば、見つかった“息子”の生い立ちと本当の息子が置かれた状況とを交互に描き、事件の深刻性を強調するという手もある。腐敗した警察とヒロインとの心理的対立に着目してギリギリのサスペンスを醸し出すというやり方だってあったはずだ。この映画は総花的でドラマツルギーの“重要ポイント”が絞られていない。これでは評価できない。

 しかし、どうして作者がこういう視線の定まらない路線を取ったのか、あることに思い当たれば全て辻褄が合う。それは、この映画が長老派教会のPRを想定しているのではないかということだ。早々にヒロインに対する支援を表明するのが長老派教会。彼らは理不尽にも精神病院に収監された主人公を救い出すのみならず、有能な弁護士を付けてくれる。そして何よりロス市警への追求の急先鋒であり、完全無欠の正義の味方ぶりを印象づける。この無駄に長い上映時間は彼らの活躍を逐一リポートするためではないかと、穿った見方もしたくなる。

 監督のクリント・イーストウッドが長老派教会の支持者だという話は聞かないが、彼は長老派の信者が多いというスコティッシュ系だというし、あながち無関係とは言えないような気がする。なお、この映画は実話に基づいているものの、劇中に出てくる長老派教会のギュスターヴ・ブリーグレヴ牧師がこの事件にかかわったという記録はないという。

 主演のアンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、濃いメイクも相まって存在感よりも痛々しさの方が先に出てくる。正直、別の女優を起用した方が良かったと思う。牧師役のジョン・マルコヴィッチにしても、いつもの面白味はない。彩度を落としたストイックな映像と当時の雰囲気を良く出している舞台セットはなかなかのものだが、それだけでは作品自体を持ち上げるには不足だ。個人的には、評価できない映画に終わってしまった。
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「静かな生活」

2009-03-02 05:49:06 | 映画の感想(さ行)
 95年作品。大江健三郎の同名小説の映画化で、両親の渡航中に起こる障害者の兄と妹の穏やかならぬ日常を描いたドラマ。伊丹十三の監督作は出来不出来が激しいけど、これはダメな部類の映画だ。だいたい障害者のイーヨーを演じる渡部篤郎がいけない。健常者が障害者のマネをしてフザけてるだけとしか思えない。観客および障害者をナメてるのかな?

 大江健三郎の原作は読んでないが、「静かな生活」というタイトルから、多分知的障害者の長男を抱えつつもフツーの家庭と同じあるいはそれ以上の温かい愛情に溢れた家族の風景を淡々と描く、文字どおり“静かな”作品ではないかと思うし(違ってたらゴメン)、映画化もそれに添ったものだと予想していた。

 しかし、伊丹十三に“静かな”映画が撮れるわけがない。渡部某のトホホな演技に代表されるように、俳優の顔を大げさにとらえるクサい演出と、説明過多のセリフが渦を巻き、伊丹流のハッタリ芝居が淡々となるはずの作劇をことごとくぶち壊していく。それでもマーちゃん役の佐伯日菜子の健気さとシッカリとしたカメラワーク(鮮やかな色づかいはけっこう見せる)が何とかドラマの低俗化を食い止めていたように思う。少なくとも前半までは。

 後半、水泳コーチの新井君(今井雅之)が登場するあたりで完全に映画が終わってしまった。いかにも伊丹監督が好きそうな、下半身ネタのオンパレード。新井君の過去のスキャンダルにまつわる覗き見趣味の展開やら、下品な中年女が出てきたり、劇中劇のほとんどアダルトビデオと変わらない描写とか(それも小難しいナレーション付きで)、極めつけは新井君がマーちゃんに襲いかかるシーン。作者の下心がてんこ盛りで、こういうのは他の映画でやってほしい。

 両親が海外に出かけて留守で、兄弟たちだけの生活の中で起こった事件を描いているが、こんな下世話な出来事は(大げさなようでいて)何ら彼らに影響を与えない。せいぜい“世間は怖いよ”ぐらいの図式的な教訓だ。もっと何気ない事件の方がうまく描けばインパクト強かったのでは・・・・と言っても無駄な気もするが(^_^;)。

 大江と姻戚関係にあった伊丹とはいえ、こうもピントの外れた映画をよく撮ったものだ(撮って恥じないのも伊丹らしいけど)。当時は注目されていた大江光の音楽だが、少なくともここでは大したものとは思えない。
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「少年メリケンサック」

2009-03-01 06:51:13 | 映画の感想(さ行)

 結果として“宮崎あおいは可愛い!”という以外は見所はない(爆)。まあ、本作の低調ぶりは鑑賞する前から分かっていたことだ。何せ宮藤官九郎という作家は、面白そうなキャラクターを作ることは得意だが、肝心のドラマのストーリーラインの形成とかプロットに筋道を付けるとか、そういう脚本家に必要であるはずのことは全く出来ないのである(今回は監督も担当しているので尚更だ)。

 本作も同様で、昔は美系だったが今は単なるオッサンと化したパンクバンドが全国ツアーに繰り出して大騒動を巻き起こすという設定はコメディとして不自然さはないし、イイ年こいてパンクにのめり込むロートルどものキャラ造型も申し分ない。しかし、展開の粗雑さには呆れるばかりである。単純に“オヤジ連中の大爆走と、それに巻き込まれる世話役の若い女”という図式ならば、筋書きは一本道のはずである。つまりは“最初はサマにならないが、やがて熱意が認められてブレイクする”といった持って行き方だ。

 だが、この映画は何を考えたのかメンバーの兄弟の確執や、それにまつわる昔からのエピソードやら、レコード会社の社長のロックへの拘り具合とか、とある主要キャラクターの回想場面やら、余計なものを数多く詰め込んでしまっている。しかも、そのどれもが整理されて居らず行き当たりばったりに流れるだけ。だいたいこういうネタで上映時間が2時間を超えること自体、作劇の不手際でしかない。あと30分は削ってタイトに仕上げるべきだった。

 それから最も気になったのは、劇中でのライヴ場面の扱いだ。ただギャーギャー喚き立てるだけでまったく音楽の体をなしていない。確かにパンクは騒々しいが、英米の名の知れたパンクバンドの音楽性はかなり高かった。日本にもそれに追随した“似非パンク”が一時期はびこったのは想像に難くないとはいえ、こんなにヒドいのはあまりいなかったのではないか。これではロックではなくお笑い芸人のネタでしかない。

 そもそも“少年メリケンサック”のデビューが81年というのも納得できない。パンクは70年代末でピークを迎え、それ以降は大して見るべきものはない。80年代に入ってハードコアなパンクをやるなんて“証文の出し遅れ”だ。この映画の作者はロックに対するリスペクトをほとんど抱いていないのだろう。以前観た「デトロイト・ロック・シティ」もそうだったが、日本映画は音楽を扱うとまるでサマにならないことが多い。これは日本人は音楽が好きではないことが背景としてあると思われる。

 果敢にコメディエンヌに挑戦した宮崎はノリは良くてチャーミングだが、よく考えると別に彼女ではなくても上野樹里とか加藤ローサあたりでも十分やれた役柄だ。佐藤浩市や木村祐一、田口トモロヲ、勝地涼らもキャラは立っているが、彼らにとっては“軽く流した”という程度ではないだろうか。クドカン映画好き(および宮崎のファン)以外は観る必要はないシャシンである。
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