元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「星に願いを。」

2007-02-16 06:50:24 | 映画の感想(は行)
 2002年作品。何とも気合の入らないラヴ・ファンタジーだ。

 竹内結子扮する看護婦に好意を寄せていた主人公が不慮の事故で死んだ後に“何かの事情”で数日間だけ“別の人間”として生きることを許され、生前の想いを伝えるのどうのという話だが、まず“別の人間”になったはずの彼を生きていた頃と同じ俳優(吉沢悠)に演じさせること自体に大きな疑問符が付く。

 さらに彼が生前の住処に自由に出入りしたり、何の苦労もなく保険の外交員に成りすましたり、果てはヒロインの家庭の事情に勝手に首を突っ込んだりといった御都合主義のオンパレードには脱力だ。

 まあ、この展開を予定調和として観客に納得させる演出の力があればいいのだが、残念ながらそれもない。だいたい、映画の最初から二人の互いに対する気持ちは一目瞭然のように描いておきながら、それを一方が死んで一時的に蘇って何やかやと起きなければハッキリと認識できないというのは、あまりにも登場人物の造形に対する練り上げ方が足りないのではないか。物語自体がアタマ悪すぎるのだ。

 監督の冨樫森は「ごめん」や「非・バランス」とは違い、大人が相手では仕事勘が鈍るらしく、まるで生彩がない。出演者も全員凡演で特筆できるものなし。舞台となった函館の風景と、ハーモニカをフィーチャーした野澤孝智の音楽は良かったものの・・・・。
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「魂萌え!」

2007-02-15 06:45:49 | 映画の感想(た行)

 桐野夏生の同名小説を阪本順治監督が映画化(脚本も担当)。観る人が観ればすぐに分かると思うが、これは阪本が2000年に製作した「顔」の別ヴァージョンだ。

 あの映画の、藤山直美扮する主人公は、冴えない日常から逸脱することによって生きる喜びを見出してゆくが、本作のヒロイン(風吹ジュン)も、平凡な専業主婦からのドロップアウトにより初めて自分自身を見つめ直す。しかも「顔」では故人である妹の幻影が主人公に付きまとうように、この映画でも死んだ夫の生前の所業が大きくヒロインにのしかかる。

 ただし、ロードムービーの形を取ってフットワークの軽さを強調した「顔」に対し、「魂萌え!」は家庭が崩壊した後の顛末を地に足が付いたような濃密な展開で描く。それだけ本作の方が重量感があろう。

 何よりも感心したのが、作者が主人公の行動規範を“女なんだから、これでいいんじゃねえの?”といったフィーリングみたいなものに丸投げしていないことだ。男である監督にとって、本当のところ男では分からないはずの女の内面を、男なりに理詰めに追おうとしている。つまりは題材に対して謙虚なのだ。これは一般の観客にとってありがたい。一喜一憂するヒロインの心情が無理なく観ている側に伝わってくる。頭の中で考えただけの、奇をてらった女のフィーリングとやらに擦り寄って醜態を見せた「ストロベリー・ショートケイクス」なんぞとは天と地ほどの違いがある。

 キャスティングも絶妙で、主役の風吹を取り巻く女性陣がヘンな髪型で圧倒する三田佳子をはじめ、藤田弓子や由紀さおり、今陽子に常盤貴子、さらに加藤治子まで登場してアクの強さを見せつけるに及んでは、これはまるで怪獣映画である(爆)。対して田中哲司や林隆三、寺尾聰、豊川悦司といった面々が扮する男どもは、一見影が薄そうでその実しっかりズルさも併せ持つキャラクターばかりで、こちらも壮観だ。

 欺瞞に満ちた過去と決別して前を向いて歩くヒロインに心からのエールを送りたくなる、共感度抜群の快作だと思う。阪本監督も「亡国のイージス」や「KT」みたいな肩に力の入ったシャシンより、こういう系統の作品の方が性に合っていると思う。
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「あるいは裏切りという名の犬」

2007-02-13 06:41:16 | 映画の感想(あ行)

 (原題:36 QUAI DES ORFEVRES)パリのオルフェーブル河岸36番地にあるパリ警視庁に所属する2人の警視の確執を描くオリヴィエ・マルシャル監督作。

 確かに雰囲気は良いのである。往年の“フレンチノワール”を思わせる暗鬱でやるせない展開。重く沈んだ画面。眉間にシワの寄った登場人物たちが苦渋に満ちた心情を吐露しつつ、過剰なダンディズムにおぼれていく様子は、ハリウッド製の浮ついたお手軽活劇を見慣れた観客にとっては新鮮だろう。主役のダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューがまた“男汁100%”のビターな演技を披露して好調だ。

 しかし“人望に厚く正義感溢れる者VS権力に強い執着心を持つ者”といった謳い文句は、かなり怪しい。どう考えても、合理的に行動しているのはドパルデュー扮する“出世欲の強い方”である。多少は無茶なこともやって周囲の顰蹙を買うのだが、一筋縄ではいかないアチラの警察当局の中にあっては珍しくもないのかもしれない(爆)。結果良ければすべて良しだ。

 対してオートゥイユが演じる“人望に厚い熱血漢”は、すべての行動がこれ違法行為。冒頭の警察署の看板を引っぺがす蛮行に始まり、歓楽街で平気で銃をぶっ放し、ドパルデュー警視への対抗意識から情報屋を使ってのケチな小細工に没頭、果ては犯行現場を前にいけしゃあしゃあと犯人に肩入れする無軌道ぶり。

 もちろんこの無頼刑事をドラマの中心にしてはいけないという規則はないが、それならそうでピカレスク・ロマンとしての作者のスタンスが確固なものであるべきだ。これでは何やら“盗っ人猛々しい野郎”を何の問題意識も持たずに擁護しているようではないか。終盤の展開に至っては、何かの冗談ではないかと思うほどだ。

 女優陣もパッとせず、主役二人のそれぞれの妻を演じる女優はまったく魅力がない。さらに最後に登場するオートゥイユ刑事の娘の“成長した姿”なんて、いつからフランス映画界はルックスに甚だしい難点のある女優をスクリーンの前面に出すようになったのかと思い、かなりの不快感を覚えた(笑)。
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「若草物語」

2007-02-12 07:44:17 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Little Women)94年作品。イザ・メイ・オルコットの有名な原作の4度目の映画化で、監督は「わが青春の輝き」(78年)「燃えつきるまで」(82年)などの女流ジリアン・アームストロング。南北戦争時代のマサチューセッツ州。父親を戦地に送り出した女だけの家庭の十数年間を描く。

 気丈な母(スーザン・サランドン)をはじめ四姉妹のキャラクターはキッチリと描き分けられていて、正確な時代考証と大道具・小道具にも細心の注意が払われ、ジェフリー・シンプソンのカメラが捉える重厚で落ち着いた映像とトーマス・ニューマンの音楽が見事なマッチング。主要スタッフがすべて女性であるせいなのか、きめ細かく肌触りのいい作劇が何より印象的な映画だ。

 当然、古典の映画化には不可欠の“現代的なニュアンス”も忘れてはおらず、ここでのヒロインたちは、自分の主張をハッキリ持つ自発的なキャラクターの面を強調されている。自分の趣味を彼氏に軽く見られた次女(ウィノナ・ライダー)が決然と別れる場面や、“金持ちとしか結婚しない”という四女(サマンサ・マチス)のセリフなどはその典型。反面男性陣が頼りなく見えるのも仕方ないかもしれない。

 しかし、確かに良心作だけど観終わって何となく印象が薄いように感じる。それは作品の評価と相反するかもしれないが、ウェルメイドに過ぎることが原因だと思う。今回の映画化は見事に予想通りのクォリティだが、古典をあえて映画にするからには少々の新しいニュアンスを取り入れるだけでは、方法論的に面白くないのではなかろうか。ここはやはり、身近で等身大のキャラクターを完全に無視して、大時代なロマンティシズムを前面に押し出して、めいっぱいハッタリかましてほしかった。

 私は確か子供の頃に原作を読んでいる。内容はほとんど忘れているが、次女がドイツ人教授のおっさんと仲良くなるあたりから面白くなくなったことを覚えている。映画でもやっぱりそうで、若いウィノナ・ライダーとショボくれたガブリエル・バーンとの対比はツラいものがあった(笑)。もっと大胆に脚色できなかったものか・・・・。

 演技面ではサランドンの存在感が光っていたが、当時は子役のキルスティン・ダンストが奇妙な味を出している。このころは、将来は味のあるバイプレーヤーに成長するのかと思ったのだが、今は・・・・(あえて語らず ^^;)。時の流れを感じる今日この頃である。
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「空の穴」

2007-02-11 07:03:32 | 映画の感想(さ行)

 本年度のアカデミー助演女優賞にノミネートされた菊地凛子が、前の芸名の菊池百合子で出演した2001年作品(詳細はこちら)で、監督は熊切和嘉。熊切監督のその時点での前作「鬼畜大宴会」は観ていなかったが、この映画に限っては登場人物の心理描写に卓越したものを感じ、なかなかの演出家だと見た。

 父親は嫌われ者、母親は家出し、だからといって自分から何かしようともせずにいつのまにか中年にさしかかった主人公は鬱屈した気持ちを抱えながら北海道の田舎町の食堂を切り盛りするしかない。そこにフラリと現れた都会育ちの若い女と少し仲良くなったことに有頂天になり、誠実なフリをして、はては安易に亭主風を吹かせてしまう「男の純情」が哀しい。

 でも、舞台挨拶で寺島進も言っていたが、男なら誰しもこういう「自分勝手な純情さ」を持っているわけで、このへんのどうしようもなさを巧みすくい上げた作劇は見事だと言える。物語は予想通りの結末になるが、少しばかりの希望を匂わせるラストは、実に後味が良い。寺島は好演。菊地百合子の存在感もこの頃から際立っていた。

 本作はアジアフォーカス福岡映画祭にて鑑賞したのだが、寺島進は白いスーツに黒いシャツ、そして白いネクタイ、もちろん髪はオールバックと“コイツはどこの組の者だ!”という出で立ちだったのには笑った。

 なお、ゲストで来ていた菊地嬢にサインを貰って握手した。舞台挨拶の時はそれほどでもなかったのだが、至近距離から見ると本当に可愛い。それと、握手しようとしてこちらが右手を出すと、あっちは両手でしっかり握り返してくれて、無邪気に喜んでしまった私であった(おやじモード ^^;)。
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最近購入したCD(その7)。

2007-02-10 06:58:19 | 音楽ネタ
 懲りずに最近購入したディスクを紹介します。まずは米西海岸出身のバンド「ゼブラヘッド」が2006年にリリースした「ブロードキャスト・トゥ・ザ・ワールド」。



 大傑作だった前作「MFZB」までのヴォーカル担当が脱退し、新メンバーを加えての心機一転作だが、やっぱり前のヴォーカリストの方が良い。何より高音の伸びが違ってた。確かに勢いで聴かせるのは本ディスクの方だが、微妙なニュアンスというか色気というか、そんな魅力は前回までに及ばない。とはいえ、通常のヴォーカルとラップが絶妙にクロスし、緩急自在の展開で迫るこのグループのセールスポイントは今回も健在で、買って損のないアルバムであることには間違いない。



 次は、人気絶頂のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンが大植英次指揮のスウェーデン放送交響楽団と組んだ、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調ほかを収めたディスク。これは正直言って期待はずれだった、もとよりこの曲はそれほど好きではないのだが(嫌いでもないけど ^^;)、前に持っていたCDに傷が付いてしまったので買い直す必要性が生じ、どうせならば新しい録音をと思ってこの新譜を購入したものだ。とにかく音が悪い。レベルとしては70年代の録音と同等だ。このCDでのハーンの独奏は精彩がなく、コクもキレも不足。加えて、オーケストラがどうしようもなく大味で、デリカシーのない音をガナリ立てるだけ。ただし、同ディスクに収録しているシュポアのヴァイオリン協奏曲第8番はけっこういい演奏であり、中古屋への売却処理は見合わせることにした(笑)。

 しかし、女流ヴァイオリニストって美人が多いんだねぇ。ハーンも女優並のルックスだし・・・・。ひょっとして容姿がイマイチの人は音大で振り分けられたりして・・・・(爆)。



 最後は、ヨーロピアン・ジャズ・トリオの初代ピアニスト、カレル・ボエリー率いるピアノトリオによる「ラスト・タンゴ・イン・パリ」。オリジナル曲中心の前作「ブルー・プレリュード」も素晴らしい出来だったが、カバー曲をメインとした当ディスクの方が広範囲にアピールできるだろう。

 繊細さと強靱さとを両立させたボエリーのピアノは魅力たっぷり。リズム・セクションもしっかりとサポートしている。アレンジも絶妙。同名映画のテーマでもあるタイトル曲など、オリジナルを超えるのではないかと思わせるほど美しい。アルビノーニのアダージョを元にした“アダージョ”というナンバーもじっくりと聴かせてくれる。さらに録音もハイレベルで、とろけるような響きをしっかり捉えている。まさに、曲良し、音良し、ジャケット良しの(^^;)、三拍子揃った特選盤だ。
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「幸福な食卓」

2007-02-09 06:46:56 | 映画の感想(か行)

 新人女優・北乃きいの爽やかな存在感が堪能できるホームドラマだ。昨今は“U-21”とかいって(笑)、現時点で21歳以下の女優にかなりの人材が揃っていることが何かと取り沙汰されているが、彼女も確実にその一翼を担うことになるだろう。

 とびきりの美少女ではないが、ソフトな中に芯の強さを感じさせる手堅い雰囲気と、役柄を自然体で取り込めるような演技のカンを持っている。どこかデビュー当時の富田靖子を思い出してしまった(笑)。本作の魅力の大半は、彼女と相手役の勝地涼(彼のキャラクターも最高)とのコンビネーションが生み出していると言っても良い。

 瀬尾まいこの同名小説の映画化で、父は突然“父さんを辞める”と言いだしフリーター生活に突入、兄は大学進学せずに将来モノになるのか分からない新規の農業に没頭、母はとうの昔に家を出ている。こんなバラバラな家庭を描いてまったく映画が暗くならないのは、作者の徹底した楽天性にある。バラバラな家族を何とか立て直さなければならないという“気負い”は脇に置いておき、家族なんだからバラバラになれるわけがないという、思いっきりポジティヴな視点が貫かれている。これを対象から付かず離れずの無理のない演出でユーモラスに盛り上げる小松隆志の腕は職人芸だ。

 ただし、脚本は持久力が足りない。中盤以降の暗転からヒロインがそれに折り合いを付けるまでのくだりが妙に駆け足なのである。さらに、石田ゆり子扮する母親のキャラクター設定が不明確で、思い余って職を投げ出す父親との作劇上の釣り合いが取れていない。クドクドと説明する必要はないが、真相を暗示するようなモチーフのひとつやふたつ挿入しても良かったと思う。

 山梨県でロケされているが、先に観た「酒井家のしあわせ」や「幸福(しあわせ)のスイッチ」と同じく、舞台を地方に設定することで生活感が強く印象づけられる結果になった。主要キャスト以外では兄の恋人に扮するさくらが面白い。蓮っ葉に見えながら実は純情というオイシイ役どころを勢いで演じきっている。ただのグラビア・アイドルではないんだね(笑)。
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「ミナ」

2007-02-08 06:01:39 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Mina Tannenbaum)93年作品。果たして、女性同士の真の友情というものは存在するか。1958年、パリの同じ病院で生まれたミナ(ロマーヌ・ボーランジェ)と、エテル(エルザ・ジルベルステイン)の二人は10歳の時からの友人同士。映画は91年までの二人の軌跡を追う。監督はこれがデビュー作の若手女流マルティーヌ・デュゴウソン。

 端的に言ってしまうと“女同士の友情なんてあるわけがない”というのが作者のスタンスだ。二人の出会いは、エテルがミナの描いたゲーンズボロの模写に感動したのがきっかけだ。ミナはそれから画家としての道を歩むが、エテルはジャーナリストを目指すもののなかなかチャンスがない。しかしあることをきっかけに後年二人の立場が逆転し始める。エテルは幼い頃から才能を持っているミナに羨望の目を向けつつ、いつかは彼女を踏み台にして自分も脚光を浴びたいと思っていたわけだ(事実そうなるのだが)。一方ミナは何をやらせてもトロいエテルの世話を焼きつつ、自分が上という優越感を感じることがたまらなく嬉しくてエテルと付き合っていたのだ。二人とも好きな男ができるが、二人とも相手の好きな男のことなんか聞きたくない。自分の好きな男のことだけを相手に聞いてほしい。エゴの発散が“女性同士の友情”だと言わんばかりだ。

 しかし、エゴが発散できる相手を“親友”と勘違いしたミナは、結局エテルがいなくては何もできなくなってしまう。他人の真意を見抜くことができない彼女は、次第に孤立していく。興味深いことに、ここで作者は“大人”として成長するエテルではなくミナの方に感情移入していくのだ。たぶん作者の精神的バックグラウンドと通じるものがあるからだろう。

 “そんなことを認めるなら死んだ方がマシだ”というカフカの言葉をラストに引用している通り、純粋で妥協を許さないミナを孤高の芸術家か何かと捉えていて、周りの者を俗物扱い。あんた達と私は違う。ブタになって生きるより死ぬ方を選ぶ。確かにこの監督、ユニークな演出が光っている。主演二人が仲良く会話していると、それぞれの分身がスッと身体を抜け出し、つかみ合いのケンカを始めたり、10歳と30歳のミナが同一画面に登場したり、インテリアの色や配置をコマ撮りして月日の流れを表現したり。でも時としてその手法が一人よがりになってドラマが停滞する場合も少なくない。“わかる人だけわかればいい”という姿勢は、映画の中のミナそのものだ。

 でも青くさい新人監督がやってもサマにならないのである。 作者の気負いが表に出すぎるこの映画、では観る価値ないか、というと実は全然違うのだ。それは主演のロマーヌ・ボーランジェだ。依怙地になって孤独地獄に落ち込んでいくヒロインは、彼女自身の生き方の当然の帰着であり、共感できない人物像なのは頭ではわかっている。でも、ボーランジェのひたむきな表情、世の中の悲しみを一人で背負っているような眼差しに、観客すべてがグッときてしまう。自分の信じていたものに次々と裏切られるその切なさが、ヒロインを通じてこちらの心にビンビン伝わってくる。まったく本作でのボーランジェは素晴らしい(共演のジルベルスタインとは格が違う)。

 それにしても、主人公二人の家庭がユダヤ系という設定は興味深い。必要以上に強調される家庭での“民族教育”を目の当たりにしては、ミナやエテルならずとも反発したくもなるだろう。そういえばスピルバーグもこういう家庭で育ったとか・・・・。
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「ユメ十夜」

2007-02-07 06:40:10 | 映画の感想(や行)

 豪華スタッフ・キャストを揃えての10本のオムニバス。最近原作を読み返したが、やっぱり夏目漱石作品の映画化は難しいということを実感した。

 真正面から正攻法でぶつかっていったのは実相寺昭雄による「第一夜」ぐらい。市川崑による「第二夜」はサイレントにすることにより、巧妙に夏目作品との“格闘”を避けているように思えた(そこが老獪さなのであるが ^^;)。「第七夜」を天野喜孝と河原真明によるアニメーションにしたところはナイス・アイデアだ。

 しかし、あとの作品はどうも作者の気負いが空回りしているように見える。いつもはオリジナル脚本で勝負する西川美和の「第九夜」にいたっては、題材そのものが足かせになっているようで居心地が悪いことこの上もない。もっともホラー色が強い「第三夜」はこの分野が得意であるはずの清水崇が担当していながら、まったく盛り上がらないのには困った。山下敦弘の「第八夜」は、いったい何をやりたかったのかさっぱり分からない(もちろん、原作とも懸け離れている)。

 で、空回りした挙げ句に“脱輪”して開き直ったのが松尾スズキによる「第六夜」。運慶が仁王像を彫り出すという、含蓄に富んだ原作を、見事なおちゃらけにしてしまった。踊る運慶と、見物人の2ちゃねらー(爆)。意味のない英語字幕とヤケクソとしか思えないオチは、さすが「恋の門」でハチャメチャを極めた感のある松尾監督だ。

 全体的に要領を得ない出来とはいえ、こういう企画は悪くはない。少なくとも「Jam Films」シリーズみたいな漫然としたオムニバスよりは、コンセプトがしっかりしている分、楽しめる。欲を言えば、もっと早い時期に製作してもらいたかった。実相寺と市川に加え、今村昌平や石井輝男、黒木和雄に深作欣二といった巨匠達が健在な時に、こういう企画を担当させたら、どんなにか面白かっただろう。
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「エデンより彼方に」

2007-02-06 06:43:19 | 映画の感想(あ行)
[概要](原題:Far From Heaven)。2002年作品。50年代のコネティカット州ハートフォードを舞台に、夫に裏切られた白人女性と誠実な黒人男性との心の交流を描くトッド・ヘインズ監督作品。当時のアメリカ映画の意匠を再現している点も話題である。

[感想]「ベルベット・ゴールドマイン」を観ても明白なように、トッド・ヘインズ監督はゲイである。だからここで彼が一番描きたかったのは、ジュリアン・ムーア扮するブルジョア婦人とデニス・ヘイスバート扮するインテリ黒人との“人種差別ネタを織り込んだメロドラマ”なんかではない。デニス・クエイド演じる夫が同性愛をカミングアウトし、妻を捨てて新しい「恋人」と新生活に踏み出すプロセスの方である。

 ただし、彼はここであえて自らの嗜好を抑制し、ホモセクシュアルを50年代風恋愛劇の再現といったユニークな試みの“巧妙な隠し味”として機能させようとしている。その意図はいいとして、問題は本筋となるべき白人女性と黒人男性との話がさっぱり面白くないことだ。

 人種を越えた色恋沙汰が絶対的なタブーであった時代に、この二人はわざと自分たちが窮地に追い込まれていく行動ばかり取っている。これでは説得力ゼロだ。メインのストーリーが穴だらけでは、同性愛ネタも取って付けたように成らざるを得ない。結果として釈然としない出来になってしまった。

 まあ、それでもこの映画の“外観”はめっぽう美しい。エルマー・バーンスタインの古き良き時代を思わせる旋律とエドワード・ラックマンのカメラによる流麗な映像。そしてサンディ・パウエルが担当した衣装デザインの素晴らしさといったら・・・・。贅沢な“美術品”としてなら、大いに観る価値はある映画だ。
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