(原題:大紅燈篭高高掛)91年作品。第44回ヴェネツィア国際映画祭で銀にて銀賞を獲得。中国の新進作家・蘇童による中編小説「妻妾成群」の映画化で、時代は1920年代、大地主の第四夫人として嫁ぐことになったヒロイン・頌蓮が、主人の絶大な権力と女たちの愛憎に翻弄される姿を描く。監督は張藝謀、エグゼクティヴ・プロデューサーが候孝賢(ホウ・シャオシエン、と読む)という豪華スタッフである。
「紅いコーリャン」(87年)と「菊豆」(90年)で中国の苦難の近代史を描写したかに見えた張監督は、この作品ではそういう歴史的・社会的側面にはっきりと背を向けている。
確かにここには大地主の結婚相手を人間扱いしない非近代性や、牛馬のごとくこき使われる使用人たちの苦労も描かれる。社会派と言われる映画作家にとって格好の素材が提示されてはいるのだが、作者の意図は別のところにある。外界とは隔離された女主人公の自閉的な内宇宙へとひたすらのめり込むのだ。
ヒッチコックの「裏窓」を思い起こすように、この映画では冒頭の部分を除いて、カメラは迷宮のような地主の屋敷、特に妻たちの部屋が並ぶ中庭を出ることはない。そしてその夜の相手に選ばれた女の足の裏を打つ木槌の音だけが広い邸内に響き、高々と掲げられる大紅燈は登場人物たちの暗い欲望をあらわすかのように闇夜に輝く。
第二夫人と第三夫人との確執が物語の中心として描かれるが、ドラマティックな描写があるわけではない。すべての出来事が暗喩を中心としたシンボリックな映像の動きとしてとらえられる。“密室の官能性”とでも言おうか、これもまた映画的興奮のひとつには違いない。観る者を引き込んで離さない。
そして映像の素晴らしさは特筆ものである。大きな提燈の赤が無彩色や寒色をベースにしたバックの中からふっと浮かび上がる美しさを何と表現したらいいのだろう。張監督の色彩感覚は世界屈指である。舞台的構図のような画面レイアウトに人物を配置させたバランス感覚の見事さ、静かな様式美を基調にしているから、終盤の雪の中の惨劇の衝撃がリアルに伝わってくる。
張監督と三たびコンビを組む主演のコン・リーは相変わらずの好演。時折流れる民族音楽も効果的だ。しかし、公開当時は「紅いコーリャン」のダイナミズムを愛していた私としては、この隔絶された息苦しさは少し納得できない部分がある。
重要な人物であるはずの地主は最後まで一度も顔をハッキリと見せないが、これはどういう意味だろう。ひょっとしたら張監督にとって、この自閉的空間から外界に打って出るべき対象がこの地主の顔に投影されているのではないだろうか。