元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「全身小説家」

2007-11-28 06:32:40 | 映画の感想(さ行)

 94年作品。「地の群れ」「明日」などで知られる作家・井上光晴の晩年の姿を追うドキュメンタリー映画で、監督は傑作「ゆきゆきて、神軍」(87年)などの原一男。

 で、観た印象だが、期待は半分満たされ、半分は裏切られた、というのが正直なところだ。期待通りだったのは、何といっても観ていて実に面白い点である。別にこれは題材にふさわしく“学術的に面白い”のでも“教養を深める意味で面白い”のでもない。純粋に娯楽映画として面白おかしく観ていられるのだ。

 オープニングはなんと井上光晴が女装してのストリップ! あっけにとられているうちに、映画は彼の友人や弟子たちのインタビューを通じて、井上の人物像を明らかにしようとする。ここでわかってくるのが彼は相当なプレイボーイだったということ。彼が設立した小説指導の場“文学伝習所”に集う女性たちを中心にインタビューは進むが、彼女たちはそろって井上の男性的魅力を誉めたたえる。全員いいトシで旦那も子供もいるだろうに、全員目を潤ませてノロケまくるのだ。中には井上よりはるか年上のおばあさんもいるが、彼女でさえ“私のチャームポイントの耳の形の美しさを井上さんは認めてくれた”と感激して語る(隣に座っている旦那のリアクションが爆笑もの)。“伝習所”とは名ばかりで、実は井上のファンクラブであったことがわかる。

 さらに映画は、井上の小説家としての言動のウサン臭さにも鋭く迫る。何と、彼の経歴、人間関係、生活信条etc.作品の中や公式の場での発言はほとんどがウソっぱちであることがわかってくる。少年時代、霊感商法でひと儲けしたことや、朝鮮人の女の子との悲しい初恋、父親には放浪癖があって大陸で消息を断ったこと、若い頃は共産党の闘士だったことなど、そのすべてがウソ八百である(自伝に書いているにもかかわらずである)。そして彼の祖父の代より前の氏素性までもデッチ上げている。

 映画が進むにつれ、ウソとホントの場面展開が早くなり、井上の“悪党”ぶりを強調していくが、それがバレたからといって、小説家としての評価が変わるわけではない。むしろ、大ボラ吹きながら世の中を飄々と渡っていく井上の“痛快無責任男”としてのヒーロー像が娯楽映画の主人公と同じように画面を闊歩する、それが楽しいのだ。そして映画は彼の友人であり、たぶん彼以上の“ウソつき作家”であろう埴谷雄高や瀬戸内寂聴も登場させる。彼らの会話シーンはまさにキツネとタヌキの化かし合いで、映画的興趣ここに極まれりといったとこだ。

 さて、次に“期待を裏切られた部分”について書こう。井上は公開当時すでにガンでこの世を去っている。しかし、原一男が井上の取材を始めたころはまだガンにかかっておらず、撮影を続けているうちに主人公が勝手にガンに冒されて死んだということになる。もちろんそれは10年かけて小説家の“虚構と現実”をじっくり描こうとした原の予定表にはなかったことだ。いきおい、映画は別のアプローチを迫られることになった。過去の作品で難病患者やお産のシーンを容赦なく撮った原だから、ガンの描写にも手加減はしないだろう。ここでも肝臓摘出手術の場面をリアルに見せている。ところが、シビアーな病状の過程はそれ以上カメラでは追えなくなる。

 考えてみれば当然で、闘病中に執筆した作品にも自身の病状については少しも触れず、まっとうな(?)作家活動を続けていた井上が、カメラに自分が苦しむ姿を撮らせるはずがない。結果として、撮影は井上の体調のいい時に限られてくる。しかも、井上は決して自分から事を起こす人ではなかったのだ。“僕は(「ゆきゆきて、神軍」の)奥崎謙三じゃないよ”と井上が自ら語るように、単にカメラで追っても彼自身が特別なアクションを起こす可能性は薄い。

 さて、どうするか。原は思わぬ手段に訴えた。ドキュメンタリーとしては掟破りの、ドラマ製作にふみきったのである。井上の青春時代を描くその部分は、けっこう幻想的なシーンがあり、モノクロの映像、出演者の好演などもあって、それ自体の出来はかなりいい。でもそれがドキュメンタリー映画の中に挿入されることの是非は、意見が分かれるところであろう。私としては違和感を持った。

 もちろんこれは“虚構と現実”というテーマをドラマティックに演出するための方法だが、別の意味では状況が変わったことによる苦肉の策である。さらに言うと、過去の作品でそれ自体十分アクティヴな題材を追っていた原一男が、今回初めて“静的”な題材を扱おうとしたその“挑戦”が思わぬ形で打ち切られてしまった居心地の悪さが出ていると思う。

 それにしても、作家というのはどうしてこうも平然とウソ八百並べられるのであろう。考えてみると、我々も日々少なからずウソをまき散らしている(と思う)。バレるかバレないかは、そしてバレて困るか困らないかは、その人物の大きさにかかわってくる。ウソが自身のアイデンティティになる場合だってある。ウソで自分を追い込んで発奮する人間だっている。井上光晴はそういう人間だった。
コメント
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