生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

死生学について

2011年01月22日 06時25分18秒 | 武蔵野大学大学院
死生学とは何か?それを考える上で、いい質問がある。

単位認定レポートの出題なのだが・・・

「現代社会に生きる日本人が死生学を学ぶことの意義について論述するとともに、自分自身の死生観について自由に述べなさい」

「単位認定レポート」は、参考文献やテキストを忠実に紐解いていく「課題レポート」と違い、比較的自由度が高く、書きやすいレポートである。しかし、この出題に対して、どれだけの人がまともに答えられるだろう。

そもそも、死とは何か?

それについて、学んだことのある人はどれくらいいるのだろうか。デス・エデュケーションというか、死とはどういうものかと真剣に突き詰めて考えたことのある人はどれくらいいるのだろう。

「死」は簡単に見えて、実は非常に困難なことである。今、私のすぐそばに、まだ読んでいない「死ぬという大仕事(小学館)」があるが、そう、死とは大仕事なのである。自分自身にも大仕事だし、周囲にいる関係者にとっても大仕事である。大仕事という表現では誤解を招くかもしれないが、そう簡単なことではないのだ。

「あなたはガンで、余命3ヶ月です」といわれたとき、どうするだろうか。身の不幸をうらむだろうか。本当にうらんでいいのだろうか。それは、自分の命が永遠に・・・というか、当面死ぬわけがないと思い上がっているから、いきなり3ヶ月といわれるとパニックになってしまうだけのこと。

そもそも、今この瞬間、病気や地震で命を失うこともあるはずなのに、「自分は、まず死なない」と高をくくっている。だから、「生」に3ヶ月や半年といった「有効期限」をつけられると、それを理不尽だと思ってしまう。本当なら、産まれ落ちた瞬間から、長くても「100年程度」といった「有効期限」があるにもかかわらず、その長い時間に惑わされ、人間の命が有限であることを忘れてしまっている。

自分もいずれ死ぬ。愛する人もいずれ死ぬ。人と生まれた以上、いや、命を与えられたすべての者(物)が、必ず、その終わりを迎える。それは遅いか、早いかの問題である。

その心づもりをしているか、していないかで、死に対する考えが大きく変わっていく。すなわち、自分や愛する人の死を憎んで、その後の人生を無為にすごしていくか、死を受容して共存していくかである。死を憎んでしまった瞬間から、人として前向きな活動が困難となる。憎悪や執着心、悲嘆や後悔は前向きな行動からずれているためである。しかし、死生学を学び、死と言うものが何であるか、あるいは、死とどのように接していけばいいのかを事前に学んでいれば、ショックを緩和し、回復を円滑にすることができる。

私自身、43年間生きてきたが、1度も死を看取ったことがない。葬式で死者の顔を見たことも、身近にな親族の4回を含めて10回ほどしかない。医療技術の向上と社会が長寿化したことで「人の死」というものに、遭遇することが少なくなったのではないだろうか。あるいは、核家族化やプライバシーの保護が叫ばれる世の中となったため、肉親や地域における「死」というものについても、疎遠になってしまったのかもしれない。

だから、いきなり「死」というものが突きつけられると、パニックになってしまうのではないか。そして、死を受容できず、遺族の場合は悲嘆から回復することができないままとなってしまう。


そして、死生観であるが、「死」を畏怖し、忌み嫌う人もいるが、「死」は「生」の一環である。「生」の一番端っこに鎮座するものが「死」である。以前、写真で「多摩モノレールの終点」を撮ったのだが、モノレールの終点もモノレールの構成物であるのと同じ?なのである。終点が無ければモノレールは永遠に走り続けなければならない。人間も、終点と言う「死」がなければ、永遠に仕事をし続けることとなってしまうのかもしれない。

人生に終わりがあるから、人は頑張ることができると私は思っている。終わりが無ければ、「明日でいいや」と先送りして、きっと何も進まない。例えば、短期間に、自分の能力を超越するレポートを提出できたのも、「1月19日までに提出」と時限が決まっていたからである。「いつでもいいからレポート出してね!」って言われたなら、いつまで経ってもレポートは出せなかっただろう。

「人は死ぬのだから学習しても無意味じゃん」っていう人もいるが、死ぬからこそ学習すると考えることはできないだろうか。今、私が学習しているのも「より良い死」を迎えるための一環である。最初は、必要に駆られて学習を始め、死生学を学ぶまでは「漠然とした不安」に打ち勝つために学習を続けてきた。

しかし、死生学を学んでいくうちに、「漠然とした不安に打ち勝つ」とは「無為に朽ち果てていくことへのささやかな抵抗」であり、「将来への希望という種蒔き」なのかな~と思うようになった。

「いずれ死ぬのだから、何をしようと無意味」と考えることもできる。しかし「無限に低い確率をかいくぐって、自分という存在がこの世に生まれてきたことは奇跡としかいいようがない。だから、精一杯頑張ろう」という考え方も否定できないだろう。

不思議にも、我々の体には、先祖からの遺伝子が流れこんでいる。父と母が結婚したこと自体、偶然だろうし、さかのぼっていけば、地球が存在することの奇跡にまで行き着くであろう。地球がなければ、我々は存在していない。そして、地球上に生物が生まれなければ我々は存在しない。そして、DNAで繋がれている先祖との間において、1世代でも変われば、今の自分は生まれていない。

奇跡に奇跡を重ね、偶然に偶然が生まれた結果、すべての人々が「必然的」に存在する。そう、振り返れば奇跡的な偶然なのだが、今、我々がこの世にあるのは「必然」なのである。だから、自分で人生を強制終了させるような、勿体無くも、恐れ多いことをしてはならないし、精一杯、生かされた命を削っていかなければならないと考えている。

「生まれてしまったことへの責任」と言っていいのかもしれない。先の世代が命を削って伝えてくれた文化・文明を、後の世代に伝えていくのが我々の責務である。前にも言ったかもしれないが、我々の世代が「勉強や学習なんて無意味だ、人生は自分だけのものだ!」と考えて、誰一人、何もしなくなれば、数百年後には、文化・文明は伝承されず未開な社会へと逆戻りしてしまう。

先の世代の人々が、命を削って、新しい法則や科学を見つけ出してくれたからこそ、今の豊かな生活を送ることができるのだ。その先の世代の人々に感謝し、その思いを伝えるために、我々は、例えほとんどの学習が死とともに無価値になると分かっていても、そのうちの誰かが、後の世代に引き継いでくれることを信じて、学ぶ必要があるのだと、私は思っている。

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