特に通信教育というものは、独学であるがゆえ、自分ひとり、すなわち「孤独との戦い」に陥りやすい。
そんな中、8年前に産能大学を一緒に卒業したtoukokoさんから、これまた、一緒に放送大学大学院を修了しそうなコメントを頂戴した。本当にうれしい一報である。
孤独であるように見えて、実は、通信制の大学とか大学院、その他もろもろも教育機関における学びというのも、誰かと一緒に学んでいるものなのである。先輩がいて、同期がいて、後輩もいる。教えてくれたり、教材を作ってくれる先生もいれば、スタッフやサポート担当といった事務サイドの方々もいる。
何のことはない、自分が知らないだけ、あるいは知ろうとしないだけなのである。本当は、孤独ではない学びの場を、勝手に孤独なものと定義し、殊更に、仲間や周りの方々といった人的関係を断ち切ろうとしているだけなのである。
産能大学に入学した時は、可能な限りスクーリングといった「余計なエネルギー」を使わず、単位だけ揃えて卒業できればいいやと思っていた。そう、負担のかかる学習は「可能な限り回避すべき必要悪」と感じていたのである。
仕事は忙しい。時間もない。電車賃とか費用もかかる。発表面倒くさい。人間関係が重い。コミュニケーション苦手。細かいこと言う人嫌い。先生に当てられたら嫌。間違ったら恥ずかしい。発表緊張する。本当は遊びに行きたい。晴天の中教室に缶詰は辛い。グループ分けされても若い人との共通の話題がない・・・等々、本当、スクーリングって嫌で嫌で仕方がなかった。
でも何度かスクーリングに参加していくと、考え方も変わってきた。忙しいといっても、私よりもっと過酷で大変な人が、時間をやりくりしてスクーリングに参加している。あるいは、我流のプレゼンを褒めてくれたりする人もいてくれる。人見知りで最初は話すのが苦痛な私を気遣ってくれる人もいたり。
ゴールデンウィーク等の快晴の日々、行楽に出かけた時間は刹那に消えゆくが、スクーリングで培った友情は永遠に続くこともある。出来ればかかわりたくないと思った先生が、人生の恩師になったりすることもあるのである。
そもそも、「学習」というものに「独学」というものは存在するのか?悟りを啓くというのなら、独り瞑想に耽ることもあるだろう。あるいは、未知の分野を切り拓くというのなら、独自に研究することもあるかもしれない。しかし、初期の学習において、知識伝達型の学びであればあるほど、師というべき対象があり、その方からの伝播により知識の習得が行われるはずである。ましてや、教育機関で学ぶというのであれば、真の意味での独学はありえないはずである。
得てして、独りよがりに、独りで学ぼうとする人ほど、途中で学びが崩壊し、学びのステージから退場することとなる。なんせ、孤独の学習は自分だけが頼りである。その自分が多忙になって身動きが取れなくなる、あるいは、サボりたくなってしまうと、学びのスキームは、いとも簡単に途絶してしまうのである。
その点、私は幸運であった。先にも述べたように、無難にスクーリングデビューを果たすことができた。そして、少なからぬ友人もできた。ブログといった情報発信のやり方を教えてくれる人もいたし、それを支えてくれる仲間もできた。恩師にも恵まれた。いろんな面でのライバルもできたし、生涯競い合いたい「仮想敵国」ともいえる学びの巨匠にも複数出会えた。
本当に、ただの中年サラリーマン風情に過ぎないのに、その割には、一昔前のサラリーマンと比較すれば、それなりに、人生を楽しんでいるようにも思えてしまう。仕事と心中するわけでもない。週末は接待ゴルフをするわけでもない。定年退職したらすることがなくなるわけでもない。ここら辺が、古式ゆかしい社畜型サラリーマンとの違いであろうか?
なんだか、独学は孤独ではないの説明のつもりが、ワークライフバランス的な話になってきてしまった。大きくずれてしまったが、学びには必ず隣人ありなのである。その隣人を見つけることができれば、そして競い合うことができれば、同じ学習でも大きく違ったものになるはずなのである。
そんな中、8年前に産能大学を一緒に卒業したtoukokoさんから、これまた、一緒に放送大学大学院を修了しそうなコメントを頂戴した。本当にうれしい一報である。
孤独であるように見えて、実は、通信制の大学とか大学院、その他もろもろも教育機関における学びというのも、誰かと一緒に学んでいるものなのである。先輩がいて、同期がいて、後輩もいる。教えてくれたり、教材を作ってくれる先生もいれば、スタッフやサポート担当といった事務サイドの方々もいる。
何のことはない、自分が知らないだけ、あるいは知ろうとしないだけなのである。本当は、孤独ではない学びの場を、勝手に孤独なものと定義し、殊更に、仲間や周りの方々といった人的関係を断ち切ろうとしているだけなのである。
産能大学に入学した時は、可能な限りスクーリングといった「余計なエネルギー」を使わず、単位だけ揃えて卒業できればいいやと思っていた。そう、負担のかかる学習は「可能な限り回避すべき必要悪」と感じていたのである。
仕事は忙しい。時間もない。電車賃とか費用もかかる。発表面倒くさい。人間関係が重い。コミュニケーション苦手。細かいこと言う人嫌い。先生に当てられたら嫌。間違ったら恥ずかしい。発表緊張する。本当は遊びに行きたい。晴天の中教室に缶詰は辛い。グループ分けされても若い人との共通の話題がない・・・等々、本当、スクーリングって嫌で嫌で仕方がなかった。
でも何度かスクーリングに参加していくと、考え方も変わってきた。忙しいといっても、私よりもっと過酷で大変な人が、時間をやりくりしてスクーリングに参加している。あるいは、我流のプレゼンを褒めてくれたりする人もいてくれる。人見知りで最初は話すのが苦痛な私を気遣ってくれる人もいたり。
ゴールデンウィーク等の快晴の日々、行楽に出かけた時間は刹那に消えゆくが、スクーリングで培った友情は永遠に続くこともある。出来ればかかわりたくないと思った先生が、人生の恩師になったりすることもあるのである。
そもそも、「学習」というものに「独学」というものは存在するのか?悟りを啓くというのなら、独り瞑想に耽ることもあるだろう。あるいは、未知の分野を切り拓くというのなら、独自に研究することもあるかもしれない。しかし、初期の学習において、知識伝達型の学びであればあるほど、師というべき対象があり、その方からの伝播により知識の習得が行われるはずである。ましてや、教育機関で学ぶというのであれば、真の意味での独学はありえないはずである。
得てして、独りよがりに、独りで学ぼうとする人ほど、途中で学びが崩壊し、学びのステージから退場することとなる。なんせ、孤独の学習は自分だけが頼りである。その自分が多忙になって身動きが取れなくなる、あるいは、サボりたくなってしまうと、学びのスキームは、いとも簡単に途絶してしまうのである。
その点、私は幸運であった。先にも述べたように、無難にスクーリングデビューを果たすことができた。そして、少なからぬ友人もできた。ブログといった情報発信のやり方を教えてくれる人もいたし、それを支えてくれる仲間もできた。恩師にも恵まれた。いろんな面でのライバルもできたし、生涯競い合いたい「仮想敵国」ともいえる学びの巨匠にも複数出会えた。
本当に、ただの中年サラリーマン風情に過ぎないのに、その割には、一昔前のサラリーマンと比較すれば、それなりに、人生を楽しんでいるようにも思えてしまう。仕事と心中するわけでもない。週末は接待ゴルフをするわけでもない。定年退職したらすることがなくなるわけでもない。ここら辺が、古式ゆかしい社畜型サラリーマンとの違いであろうか?
なんだか、独学は孤独ではないの説明のつもりが、ワークライフバランス的な話になってきてしまった。大きくずれてしまったが、学びには必ず隣人ありなのである。その隣人を見つけることができれば、そして競い合うことができれば、同じ学習でも大きく違ったものになるはずなのである。