今が一番ゆるゆるとした時期である。
本当なら、もっと生産的なことに時間を使えばいいのだが、グーグー寝たり、テレビを見たりと、「あたら人生を、無駄に使っているな~」と思っている。とはいえ、すべて計画通りに、有意に時間を使うことができるなら、人生はすべて計画通りということとなり、自分が死ぬまでの道筋が、この瞬間にわかってしまうだろう。なんと、おぞましいことであろうか。
計画通りに行かないのが人生。ゆえにエキサイティングであり、ゆえに不安なものでもあるといえる。「邯鄲の夢」のごとく、未来がわかっているなら、人は生きていくエネルギーを生み出すことができないだろう。なんせ、人生は必ず「死」を以って終了するのだから。
とはいえ、遊んでばかりでもいけないのだが、何のために学ぶのかということに思い及んだので書いてみたい。
無論、学ぶ理由は「人間が人間として生きていくため定め」と思っているからである。このブログでもよく言うことなのだが、人間がすべて学ぶことを放棄すれば、100年経たないうちに、人間は他の動物と同じ、文明を持たない野獣になりさがってしまうであろう。我々人類は、先祖からの伝統・文化といった文明の英知を学習し、引き継ぐことで、この繁栄した社会を享受しているのである。
過去の方々が、己の人生をかけて発見・発明したものに頼って生きている。本当に貴重な科学的遺産等を使わせていただいているのである。だから、学ぶことは「人間が人間として生きていくための定め」といえ、学ばないにもかかわらず、人類の英知による福音を受け取るのは「フリーライダー」だという思想を、私は個人的に持っている。
されど、すべての人間は確実に死ぬ。そして、学んだことを極楽浄土に持っていくことはできないとすれば、別に、学ばなくてもいいのでは・・・とも考えることができる。そのとおりである。そういう考え方なら学ぶ必要はなにもない。考え方は人それぞれ。尊重すべきものである。
だが、死ぬからこそ、学ぶことができるとも考えることができるのだ。未来永劫の命があるなら、別に今日学ばなくてもよい。何千年、いや何万年後に学べばいいのだから、永遠に「学ぶこと」を先送りすることができるのだ。だから、きっと、誰も学ばない、ゆっくりとした時間が流れるだけなんだろう。
導入部分が相変わらず長いのだが・・・
私にとって、学ぶことは、かくも大切なことなのだが、別に、好きな科目だけ学ぶ「科目履修生」で十分なのでは・・・という考え方もあるだろう。正科生は「お金もたくさん必要」だし、「論文とかあって苦しい」し、「科目が多い分、時間的制約も厳しい」といったデメリット満載である。
しかし、正科生だと「学位」が授与される。これは、非常に意味のあることである。原始社会では、イニシエーション(通過儀礼)とういものがある。「子ども」から「大人」に変わる際の儀礼であり、卑近な例では「バンジージャンプ」がある。あるいは、猛獣と闘って仕留めるといったイニシエーションもあるかもしれない。
私の考えでは(いや、私以外にも同じ考えを持つ学者もいるのだが)、資格や学位の原型が、このイニシエーションにあると思っている。そう、一つの学びをクリアするためには、かなりの困難を乗り越える必要があるのだ。逆に、そのようなイニシエーションのない学びは、得てして、自分に甘いものになってしまう傾向にある。
目標として「学位」を設定する。それにより、学位授与の条件を満たすべく、自分の不得手な科目も履修しなければならないこととなる。また、猛獣と闘うがごとく、修士論文や学士論文と闘うこととなる。その「通過儀礼」を乗り越えることで、初めて、その分野で一人前としてみなされる。
そのようにして取得した「学位」だからこそ、履歴書にも書けるし、(海外では)それなりに評価もされる。
せっかく、大学や大学院といった高度教育専門機関で「学ぼう」と決意したのなら、できれば「学位」を目指してほしい。資格試験を目指すのなら、合格するまでがんばって欲しい。合格しなくても、学ぶだけで、それなりには有益なことなのだが、通過儀礼を乗り越えることで、一回り自分が成長することは、原始時代からの定説なのだから。
本当なら、もっと生産的なことに時間を使えばいいのだが、グーグー寝たり、テレビを見たりと、「あたら人生を、無駄に使っているな~」と思っている。とはいえ、すべて計画通りに、有意に時間を使うことができるなら、人生はすべて計画通りということとなり、自分が死ぬまでの道筋が、この瞬間にわかってしまうだろう。なんと、おぞましいことであろうか。
計画通りに行かないのが人生。ゆえにエキサイティングであり、ゆえに不安なものでもあるといえる。「邯鄲の夢」のごとく、未来がわかっているなら、人は生きていくエネルギーを生み出すことができないだろう。なんせ、人生は必ず「死」を以って終了するのだから。
とはいえ、遊んでばかりでもいけないのだが、何のために学ぶのかということに思い及んだので書いてみたい。
無論、学ぶ理由は「人間が人間として生きていくため定め」と思っているからである。このブログでもよく言うことなのだが、人間がすべて学ぶことを放棄すれば、100年経たないうちに、人間は他の動物と同じ、文明を持たない野獣になりさがってしまうであろう。我々人類は、先祖からの伝統・文化といった文明の英知を学習し、引き継ぐことで、この繁栄した社会を享受しているのである。
過去の方々が、己の人生をかけて発見・発明したものに頼って生きている。本当に貴重な科学的遺産等を使わせていただいているのである。だから、学ぶことは「人間が人間として生きていくための定め」といえ、学ばないにもかかわらず、人類の英知による福音を受け取るのは「フリーライダー」だという思想を、私は個人的に持っている。
されど、すべての人間は確実に死ぬ。そして、学んだことを極楽浄土に持っていくことはできないとすれば、別に、学ばなくてもいいのでは・・・とも考えることができる。そのとおりである。そういう考え方なら学ぶ必要はなにもない。考え方は人それぞれ。尊重すべきものである。
だが、死ぬからこそ、学ぶことができるとも考えることができるのだ。未来永劫の命があるなら、別に今日学ばなくてもよい。何千年、いや何万年後に学べばいいのだから、永遠に「学ぶこと」を先送りすることができるのだ。だから、きっと、誰も学ばない、ゆっくりとした時間が流れるだけなんだろう。
導入部分が相変わらず長いのだが・・・
私にとって、学ぶことは、かくも大切なことなのだが、別に、好きな科目だけ学ぶ「科目履修生」で十分なのでは・・・という考え方もあるだろう。正科生は「お金もたくさん必要」だし、「論文とかあって苦しい」し、「科目が多い分、時間的制約も厳しい」といったデメリット満載である。
しかし、正科生だと「学位」が授与される。これは、非常に意味のあることである。原始社会では、イニシエーション(通過儀礼)とういものがある。「子ども」から「大人」に変わる際の儀礼であり、卑近な例では「バンジージャンプ」がある。あるいは、猛獣と闘って仕留めるといったイニシエーションもあるかもしれない。
私の考えでは(いや、私以外にも同じ考えを持つ学者もいるのだが)、資格や学位の原型が、このイニシエーションにあると思っている。そう、一つの学びをクリアするためには、かなりの困難を乗り越える必要があるのだ。逆に、そのようなイニシエーションのない学びは、得てして、自分に甘いものになってしまう傾向にある。
目標として「学位」を設定する。それにより、学位授与の条件を満たすべく、自分の不得手な科目も履修しなければならないこととなる。また、猛獣と闘うがごとく、修士論文や学士論文と闘うこととなる。その「通過儀礼」を乗り越えることで、初めて、その分野で一人前としてみなされる。
そのようにして取得した「学位」だからこそ、履歴書にも書けるし、(海外では)それなりに評価もされる。
せっかく、大学や大学院といった高度教育専門機関で「学ぼう」と決意したのなら、できれば「学位」を目指してほしい。資格試験を目指すのなら、合格するまでがんばって欲しい。合格しなくても、学ぶだけで、それなりには有益なことなのだが、通過儀礼を乗り越えることで、一回り自分が成長することは、原始時代からの定説なのだから。