こぼれ話、と書いたらどういった意味なのかよく判らない。こぼれる、で、Windows7標準搭載の変換だと二つ出る。
まずは「毀れる」。毀誉褒貶の毀、である。壊すと同義である。
もう一つは「零れる」。水を零す、という風に使うほうである。溢すとも書く。
改めて我が家の字引を調べてみたら、零れ話、でいいようだ。
関連した話など、余話や余聞のことをいう。
いっそ「毀れ話」にしようか、という気はないが、昔と考え方が変わったというなら、去年の地震後からの自身の在り様を語る時点で、ある意味「毀れ話」でもある。
さて、零れ話の零れ話は措くとして、前回の話について軽く、足りなかった事を書いておこうかと思う。
ちょっと間が空いたので、次のラジオに入れてしまい、予告していなかった後編を出す、という形もあるかと思うが、書いておいてまた足りなかったらやるかもしれない。
アマノジャクなところがあるので、大体、いったことの反対をやることが多い。「いつものことだ」と鷹揚に構えておくのが大事である。なんのこっちゃ。
神経症というと、人口によく膾炙される「神経質」という言葉のように、何やらものの考え方が病的になるのかと、つい思いがちである。
実際にそういう側面もある。ラジオで語ったとおり、鬱屈したものの考え方を形成しもする。色々な症例があるが、その人の行動が余りにも病的な(嘘を嘘と本当に思わないなどもだろう)場合、重度の神経症、といえるだろう。
精神構造と呼べるようなものの変成もあれば、「見える」形で現れるものもある。ヒステリー、というのもそうだろう。
ヒステリーとは、古代ギリシャ辺りからも確認されていたものであるらしい。詳しくはうろ覚えで書いているので申し訳ないが、「子宮の病気」だといわれていた。女性特有と言われるくらいのものだったらしい。
さて、性的に開放的な社会では、子供に自慰が見られない、という話がある。自慰に向かう理由が社会の性的抑圧によるものであるからであり、一度抑圧が始れば自慰に向かうという。
そこで自慰まで抑制されればどうなるか。そうなると、現代人と変わらなくなる。
小さな子供に自慰の兆候が始るとする。それらを抑圧すると、子供らしさがどんどん失われていく。やがては醒めた子供になる。その様子は、ライヒ著の『性の革命』に載っていたと思う。
「醒めた子供」になるとはどういうことかと言うと、サディズム的傾向が強くなっていくのだという。
それが外へ向けば、権威的になり、感情が弱くなる。そして権威に服従しながら抵抗もするという、矛盾に満ちた状態になる。
そういう状態の人間の行動規範は、全て「外部」からの物に依存する。
「人間は自分の頭で考えて行動しているじゃないか」といわれるだろうが、その「頭」が「決まりごと」に沿っているか沿っていないかしか考えないというわけだ。それを「考えている」のだと我々はずっと信じていただけである。
それが内側に向けば、「自分はいらない存在なんだ」と思うような「コンプレックス」の塊になるといえよう。そして、それを払拭するかのような「善意」に満ちた言動をする。
「自分ひとりの命で世界が救われるなら」というような思考様式である。
どこまで行っても「外側」にしか基準がない。
では、オーガズムを得るに至り、神経症を克服していった人間はどうなるのか。
彼らの行動規範は「内部」に存する。縛るものがない、というと野獣のようになると想像されるだろうし、そういう風に教わってきている。
そういう風になると教わっているのは、上の「コンプレックス」がある状態だからである。サディズム全開というわけだ。
サディズム的傾向もなく、権威に諂う事もなく、また、神経症的に形成された性格(これも「コンプレックス」のことであろう)も弱まり、個性という感じのものがなくなったかのように見えてさえ来るそうだ。
そして、外部の規範、つまりは「決まりごと」やら道徳に従うこともなくなる。しかし、決して道徳がないわけではない。そして、個性も消えることはない。ただし、神経症的なもの、言い換えれば今まで当たり前だったものが消える。
行動規範が内部に存する。外部からのものは必要がなくなる。それは、自分がやりたいようにしかやらないということである。ちょっと違う気もするが「心の欲するところに従いて矩を踰えず」である。
そもそも人間は、徒に他人や自身を傷つける性質はなかったのである。そうではない現代は、トニー・ライトの言を借りれば皆「分裂症」であり、ライヒ流にいえば皆「神経症」である。
風邪を引いた時の咳は風邪の過程であり結果でもある。原因ではない。その咳を止めたら今度は肺炎になる、ということがある。何になるかはマチマチだが。
オーガズムを忘れたから、人はバカに、賢いつもりのバカ(神経症的社会と個人)になったのである。いい加減、対症療法はやめざるを得ないだろう。しかし、「賢い」方々にはそれが判らないので、お薬を飲んだり、大量の飯のようなものをせっせと食ったり、ゲームやパチンコやその他遊興に現を抜かすのである。まあ、酒をちと飲みすぎるのもその仲間には違いないが、こちらは「矩を踰えず」である、と自己弁護しておく。ゲェムもやってたりするが、これは弁護の余地はない。
と、長々と書いたが、結局「オーガズム」それ自体はよくわからんのである。ただ、色で表されているそうだ。一般に赤だと思われているが、本来の色は青だという。これだけじゃワカランかもしれないが、まずは前提にある思い込みを捨てるところから。
一種の瞑想状態でも有り得るし、それを引き出す瞑想方法もあるという。その辺りはBeyond 5 Sensesに譲るとして、こちらは仙人流で締めようと考える。
では、また。
まずは「毀れる」。毀誉褒貶の毀、である。壊すと同義である。
もう一つは「零れる」。水を零す、という風に使うほうである。溢すとも書く。
改めて我が家の字引を調べてみたら、零れ話、でいいようだ。
関連した話など、余話や余聞のことをいう。
いっそ「毀れ話」にしようか、という気はないが、昔と考え方が変わったというなら、去年の地震後からの自身の在り様を語る時点で、ある意味「毀れ話」でもある。
さて、零れ話の零れ話は措くとして、前回の話について軽く、足りなかった事を書いておこうかと思う。
ちょっと間が空いたので、次のラジオに入れてしまい、予告していなかった後編を出す、という形もあるかと思うが、書いておいてまた足りなかったらやるかもしれない。
アマノジャクなところがあるので、大体、いったことの反対をやることが多い。「いつものことだ」と鷹揚に構えておくのが大事である。なんのこっちゃ。
神経症というと、人口によく膾炙される「神経質」という言葉のように、何やらものの考え方が病的になるのかと、つい思いがちである。
実際にそういう側面もある。ラジオで語ったとおり、鬱屈したものの考え方を形成しもする。色々な症例があるが、その人の行動が余りにも病的な(嘘を嘘と本当に思わないなどもだろう)場合、重度の神経症、といえるだろう。
精神構造と呼べるようなものの変成もあれば、「見える」形で現れるものもある。ヒステリー、というのもそうだろう。
ヒステリーとは、古代ギリシャ辺りからも確認されていたものであるらしい。詳しくはうろ覚えで書いているので申し訳ないが、「子宮の病気」だといわれていた。女性特有と言われるくらいのものだったらしい。
さて、性的に開放的な社会では、子供に自慰が見られない、という話がある。自慰に向かう理由が社会の性的抑圧によるものであるからであり、一度抑圧が始れば自慰に向かうという。
そこで自慰まで抑制されればどうなるか。そうなると、現代人と変わらなくなる。
小さな子供に自慰の兆候が始るとする。それらを抑圧すると、子供らしさがどんどん失われていく。やがては醒めた子供になる。その様子は、ライヒ著の『性の革命』に載っていたと思う。
「醒めた子供」になるとはどういうことかと言うと、サディズム的傾向が強くなっていくのだという。
それが外へ向けば、権威的になり、感情が弱くなる。そして権威に服従しながら抵抗もするという、矛盾に満ちた状態になる。
そういう状態の人間の行動規範は、全て「外部」からの物に依存する。
「人間は自分の頭で考えて行動しているじゃないか」といわれるだろうが、その「頭」が「決まりごと」に沿っているか沿っていないかしか考えないというわけだ。それを「考えている」のだと我々はずっと信じていただけである。
それが内側に向けば、「自分はいらない存在なんだ」と思うような「コンプレックス」の塊になるといえよう。そして、それを払拭するかのような「善意」に満ちた言動をする。
「自分ひとりの命で世界が救われるなら」というような思考様式である。
どこまで行っても「外側」にしか基準がない。
では、オーガズムを得るに至り、神経症を克服していった人間はどうなるのか。
彼らの行動規範は「内部」に存する。縛るものがない、というと野獣のようになると想像されるだろうし、そういう風に教わってきている。
そういう風になると教わっているのは、上の「コンプレックス」がある状態だからである。サディズム全開というわけだ。
サディズム的傾向もなく、権威に諂う事もなく、また、神経症的に形成された性格(これも「コンプレックス」のことであろう)も弱まり、個性という感じのものがなくなったかのように見えてさえ来るそうだ。
そして、外部の規範、つまりは「決まりごと」やら道徳に従うこともなくなる。しかし、決して道徳がないわけではない。そして、個性も消えることはない。ただし、神経症的なもの、言い換えれば今まで当たり前だったものが消える。
行動規範が内部に存する。外部からのものは必要がなくなる。それは、自分がやりたいようにしかやらないということである。ちょっと違う気もするが「心の欲するところに従いて矩を踰えず」である。
そもそも人間は、徒に他人や自身を傷つける性質はなかったのである。そうではない現代は、トニー・ライトの言を借りれば皆「分裂症」であり、ライヒ流にいえば皆「神経症」である。
風邪を引いた時の咳は風邪の過程であり結果でもある。原因ではない。その咳を止めたら今度は肺炎になる、ということがある。何になるかはマチマチだが。
オーガズムを忘れたから、人はバカに、賢いつもりのバカ(神経症的社会と個人)になったのである。いい加減、対症療法はやめざるを得ないだろう。しかし、「賢い」方々にはそれが判らないので、お薬を飲んだり、大量の飯のようなものをせっせと食ったり、ゲームやパチンコやその他遊興に現を抜かすのである。まあ、酒をちと飲みすぎるのもその仲間には違いないが、こちらは「矩を踰えず」である、と自己弁護しておく。ゲェムもやってたりするが、これは弁護の余地はない。
と、長々と書いたが、結局「オーガズム」それ自体はよくわからんのである。ただ、色で表されているそうだ。一般に赤だと思われているが、本来の色は青だという。これだけじゃワカランかもしれないが、まずは前提にある思い込みを捨てるところから。
一種の瞑想状態でも有り得るし、それを引き出す瞑想方法もあるという。その辺りはBeyond 5 Sensesに譲るとして、こちらは仙人流で締めようと考える。
「オーガズムの一端を感じたくば正坐せよ」
では、また。
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