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犬と毒薬

2012-07-19 | 雑記
これを書いている時間からしたら先日になる。

仕事の帰りはいつも一駅歩いて帰る。夜勤明けである。何せ、一晩蛍光灯やらエアコンが効いた環境で、特段複雑ではないとはいえあまり気の進まない接客業をやる。


そうなると、外で日が浴びたくなるのである。雨でもおかまいなしである。


だがしかし、酒飲んだり「普通の」食事をして帰るのはいかがなものか、とは思っているが、とりあえずその話は措く。



フルータリアンになろう、と硬く決心したわけではないが、試しに果物ばかり食べてみるのをやり始めてしばらく経つ。


夜食に変なものを食べたりするのだが、それから基本的に昼まで食事らしい食事はしないのが普段である。しかし、少々腹が減った。


その昨日の晩、仕事場すぐ近くの果物屋でペリカンマンゴーなんて見つけたので、自分が食べるついでに日勤の人におすそ分けしようと考えた。

すぐさま買いに行ったが、ペリカンマンゴーでは小さいから、大きい赤いマンゴーにした。


昨日の今日で、(昨日はペリカンマンゴーを切ったわけだ)簡単に切り方を調べてやってみたら、意外と簡単に出来る。プロほど上手くはないが、こんな感じかなぁと思ったら、ひどく喜ばれた。メンバーは男性一人と女性二人。




糖尿病の人は果物がよくない、という話が出たりしたが「それは飽くまで「普通の」、さらに西洋的な食生活をしてきた人にとっては問題になりうる」と説明したりした。

細かい話はうろ覚えだったので(上の話は多分違う)、毎度の如く、きみしぐれさんのブログを少々見せながら読みながら話をしていた。ちなみに、糖尿病云々の話をした人には以前、グラハム博士のすさまじい身体能力の動画は見せた。
見せてたら「そういえば前にこれ見せてもらったね」と言われて思い出したので、こちらの脳みそはちょっとサボっていたようである。


まだ昼前だったので、「普通の食事をするなら、摂る前に果物を食べておいたほうがマシである」ということも説明したりと、なんだか妙な意図を持って食べさせたような気がしないでもないが、単純に美味かったからおすそ分けしたくなってやったら、いつの間にかそんな話になっただけである。少なくともドライマンゴー食べているよりはいいだろう。女性メンバーのうち片方がよく食べていると、マンゴー食べてみるかと訪ねた時に答えていた。


例のマンゴーはまだもう少し熟したほうがよかったのかもしれないが、なんとなく選んだものでも大きく外れた感じはなかったようである。まあ、大きな問題だが、輸入品なのはご愛嬌ということに・・・しないほうがいいか。


しかし、写真では二切れ写っているのだが、手前のが厚めに切れたので半分にしたところ、上のような形にならなかった。で、その真っ二つのうち片方は一人が食べた。


残りの二つはさらに他の二人が食べたのである。


はて、わしの分はどこだ?と、切ってから思ったが遅かった。仕方が無いので種の周りを抉って食べていた。



かなりゆっくりしてから仕事場を出、いつも帰りに降りる駅から歩いて数分のところに、タバコ屋がある。


いつも吸う、マニトウのオーガニックと、これは気が向いたときに買っていたチェ・シャグが何故か置いてある。


まだ他の煙草はあるのだが、ストックとして買っておこうと、店を覗いてみたら、犬がいる。

黒に顎から腹の方が白くなっている柴犬である。近づいても吼えなかったが、手を近づけたら顔はそむけた。


犬を構いたかったのが目的ではないので、例のタバコを注文したら、アメリカンスピリットの試供品をもらえた。犬をちょっと撫でてから、一服することにしたら、子連れが来て、恐る恐る犬を触っている。


その犬は何故か、最初は店主側に近く寝そべっていたのに、こちらが坐っている方に近づく形で腹ばいになった。なにやら気になるのか、撫でられながら時折こちらを見上げる。

犬は人間の言葉は話さないので、代わりに店のおばさんが「普段それで吸うの?」と、キセルに突っ込んできた。まさかキセルが気になったとは思わないが。



さてさて、タバコの話をしたついでに、いつぞやのラヂヲこぼれ話として、少々期するところを話しようかと思う。


昔書いた所でもあるが、ラヂヲでは話していなかったし、その時のこぼれ話としても出していなかったはず。


さて、タバコの害として考えられている成分が、大まかに二つ。

まずはニコチン。中毒性のある神経性毒というわけだが、中毒性以外は神経の働きを整えるところが大きいと言う話が医療業界では常識になっていると言われている。
嫌煙派の医者ですら、ニコチンの有用性については太鼓判を押すほどである。

これはした話なので、確認程度である。そもそも、神経の働きがまともなら無くてもいいわけで、集中したいだとか、すっきりしたいという時にはあるといいね、と言える。


もう一つがタール。これはまったなしで悪い、と言われている。タールの摂取は血液中に白血球の増加をもたらすそうだが、その増えるタイプが顆粒球だとか菌だとか忘れたが、かえって免疫を落とす可能性があるものだという。

しかし、人間の体はホメオスタシスというのがある。ちょっと怪我して血が流れても、体の中で作り出して元に戻るわけで、サボった体を適度に働かすところになろうと考えている。まあ、そこは想像だが、免疫が落ちるなら吸っている人は皆、何がしかの感染症にかかるはずだが?と問わなければならないのである。そこは意地悪で言ったようなものなので、聞き流してもらうことにする。


タールというのは、古来より、人間が火を使うようになってから常に身近に存在するものだった。

合掌造りなんかの日本家屋は、中で火を焚くことにより、火による乾燥とタールによる燻蒸、そして、タール自体が木材に染込むことにより、強度を保っていたという。

中で火を焚かなくなれば、そういった日本家屋はすぐ腐っていくそうだ。


ここは別に人体そのものとは関係がない。またもや確認程度である。



また話が変わるようで申し訳ないが、少々関わりがある。自分が煙草を吸うようになる際のヒントでもあった。

この話は書いた覚えはあるが、恐らくラヂヲでは言わなかった気がする。


アグニ・ホートラという、三角形の金属製の器に可燃物を放り込んで焼く儀式のようなものが、古代インドより現在まで伝わっている。

色々と学者が調べたりして、実際に様々な効果を見出したりしているという。

自然の物を燃やす、ということには、ノーベル賞にもなった研究でC60フラーレン分子というものが発生し、これが人体に好影響を与えているのではないか、と言われている。ノーベル賞の研究としては、フラーレン分子の発見までだったと記憶している。


密教や山伏の人が護摩を焚いて経を上げ続けるのだが、それで健康を害している人はいない。タールや煤で鼻の中は真っ黒である。

炭焼き小屋の人も年中火の傍らを離れずに過ごすが、精神性の高い人をよく見受けられるという。アグニ・ホートラ云々のここまでの話はここの受け売りである。


さて、タールは人を殺すのか?恐らく、タールのカクテルでも飲んだら死ぬだろう。タバコ(シガレットだけの話かしらんが)を水につけて出てきた成分を飲んだら死ぬ可能性があるようだ。

嘘か真か(マンガにあった話なので)シガレット一本丸呑みしたら死ぬという。


タールの元となった物質やその発生過程によって違いが出ている可能性もある。

大麻もタバコと同じように火をつけて吸うのだが、海外の研究では、大麻を長期的に吸い続けても肺に悪影響はない、との結果が出ていると言う。

大麻のタールはタバコの四倍ともいう。


その記事の結びにはこうある。

煙にしても蒸気にしても熱い状態で大きく深く吸い込めば、その結果として慢性気管支炎になりやすい。だが、グラビティ・ボング や ボルケーノ・バポライザー などで燃焼・気化と吸引の過程を明確に分離して、十分に温度を下げてから何度にも分けてゆっくり浅く吸うようにすれば、慢性気管支炎のリスクを軽減することができる。


大麻の話ではあるが、これはタバコでも同じことがいえよう。



さて、タバコの場合はあまり肺に入れないようにして吸うべし、といえるとしても、まあ少々入り込んでもくる。


じゃあ、やっぱり悪いんじゃないかと。しかし、悪いと言われているから、どのような状態でも悪いのだろうか。



最近の研究では、物を燃やすと発生するダイオキシンは、恐ろしく大量では害毒になるのは有名だが、微量ないとダメかもしれない、という報告がなされているそうだ。


毒として入っていて働いているのか、それとも微量では毒としてではなく必要なものとして働くのか、そこは定かではないが。



また、こんな話がある。


「一般的」には酢は体に良いものである、と言われている。

しかし、こういう説があるそうだ。

実際には酢は体に毒であり、摂取した場合それを追い出そうと体が働き、それを排出する作用を高めているが故に健康になっていると。


以前から、タバコを吸っているとよく痰が出てくる。そんな激しく出てくるわけではないが、吸ってないころよりは出てくるのである。

少々多めに肺に入った覚えがその時はある。野口整体の言葉で例えるならこれもまた「活元運動」である。出そうと意識して出てくるのではないのだから。



少しのタールというのは、酢と同じようなものなのかもしれない。

実際には毒だが、結果としたら薬に見えるものなのだと。


世の中、「薬」と喧伝され流布されているものが猛毒でしかなかった。

そんな人たちが「毒」だといって来るのである。

妙な意図のあるなしに限らず、そんな彼らの「毒」認定というのは所詮、生きたものを相手にはしていない。

いわば死んだ毒である。そして、彼らは死んだ薬を妙薬だといって飲ませ、生ける死人を量産している。


ならば、生きている人間が生きている毒を食らうことになんの支障があろうか。


生きている毒は「死人の目」しか持たぬ者どもの想像をいつも軽く飛び越える。


我々は生きているが、「死人の目」にいつも苛まれている。

「死人の目」には毒が薬に変わることや、その逆を見ることはない。

死者は甦らない。少なくとも、そう思って物事を見ているが故の「死人の目」である。


人は生きている。肉体が滅びようが「生きて」いる。


生きている毒で「死人の目」を欺いてやろうではないか。では、また。