昨晩は大きなスイカを一晩かけて食らう、ということをやっていた。仕事中に。
仕事場の近くの果物屋に私服で入ったら、先日は仕事着でも会ったお姉さんがいる。
「帽子かっこいいですね」と言われた。つい「普段はこんな帽子で着物なんですよ」と言おうかと思ったが、踏みとどまった。
初めて入った日にもいたおじいさんは「スイカ甘くておいしいよー」と、いつもの調子であった。
スイカは晩飯やら間食やら夜食になったわけである。ついつい勢い余って買ったパッションフルーツも食べた。美味いのだが、ちと高い。
まだ仙人になれそうにないようで、仕方がないから妖怪にクラスチェンジしようかと考える。
暑いし、最近川原をブラブラしているから、よし、河童になろう。
河童の好物は・・・尻子玉!いや、それはまずい。尻子玉を抜かれた人間は腑抜けになってしまう。
というわけで、キュウリを買って来てはボリボリ食べていた。仕事場の人に「マヨネーズもつけないのか」と言われたが、お構い無しにボリボリ。スイカの前の話である。
昨日も仕事に行く前にキュウリをボリボリ。トマトと一緒に食べていた。なにを思ったのか三つ葉まで買ってきていたので、上からトッピングした。
はて、この組み合わせ大丈夫なんだろうか?三つ葉は論外のような。うんまあ、美味かったからよしとする。
そんなことをしておきながら、昼ごろ、去年一度だけ入ったお店にいった。
さて、そろそろ帰ろうかと身支度を始めると、席に案内してくれた女性スタッフの方が一言。
「もしかして、以前も来られましたか?」と。
「ええ、一度だけ。その時もこのカウンター席でランチでしたよ」
「ああ、やっぱり」という。
ディナーのほうが色々選べますから、よろしかったらと。
そうですねその時は着物で来ますね、とは言わずに「いつ来るか判らないとか言いつつ、二、三日したら来るかもしれませんよ」などと笑いながら店を後にした。
着物でもないのに覚えられていたとは。ちなみに、男性スタッフの一人が、こちらが吸っていた「MANITOU」の香りがいいと感想を述べていた。
しかし、キセルには突っ込みはなかった。意外と市内では普通なのかもしれないが、他にキセルで吸っている人を聞いたことはあるが見たことはない。
少々買い物しつつ(いい加減ユ○クロのシャツは脱ぎ捨てようと)、川原に向かった。今日は子連れが川原でバーベキューしていたり、水遊びをしている。
バーベキューやっているのは別に構わない。こちらが食べるわけでもない。
そんなことよりうんざりしたのが、向こう岸の広場で盆踊りだかなんだかをやっている。
いる間これかと、げんなりしたが、しばらくしたら止んだ。そもそも三時過ぎである。お開きかと思ったら、しばらくすると今度は神輿を担いで川に突入してくる。
はーもう。好きにしてくれ、と、川の流れを眺めていた。
そのうち、見えないほうでドンチャン鳴り始めた。見えないならマシかと、川原を歩くことにした。
セメントの塊を規則正しく並べて流れを弱めているのか、ここを飛べとばかりに並んでいる。石を拾っては(今日は拾うまいと思ったが、気がつけば拾っていた)ぴょんぴょん飛んで、向こう岸近くまで渡る。
こんな感じになっている。
見えづらいが、奥の方は水量も多く、流れが強い。
この写真の向きから左に進むと、座り込んでいる橋がある。
滑るかと思ったが、なるべく乾いた所を目掛けてジグザグに飛んだためか、落っこちることは無かった。
わしは河童になる!とか言ってて川に落っこちて流されたら河童の川流れになるな、などと思ったが、そんなネタは体現することがなかった。残念至極である。いや、落ちたら落ちたで困る。
そもそも、流されるような深さではない。が、膝くらいの深さがあれば人間は溺れる。カッパはカッパでもエロガッパだったら確実に川流れであろう。
さて、この川原。橋の下で座り込んでいることが多いのだが、今日はさらに真ん中の方の橋脚に腰を落ち着けた。あまり落ち着けてはいなかったのだが、その近くで長方形の板を見つけたので、簡単な長椅子を拵えた。これからはそこで腰を落ち着けていることだろう。
この辺りは鳩やら烏がやってくる。今日も腰を下ろしたと思ったら、近くに烏が舞い降りてきた。近いといっても十メートル以上は離れているが、前にも同じ辺りに飛んで来た。同じ奴かと思ったが、イマイチ判らない。
鳩に至っては飛び回っている。祭囃子が煩いからであろう。
しかし、先日は結構近くまで歩いて寄って来た。鳥のくせに歩くとは。
一羽だけ、石の上でじっと立っていたので、その写真を撮ろうとしたのだが、少し暗い上に遠くて映らなかった。というわけで、近くて明るい上に二羽いる状態を映すことにしたのだが、二羽ともそっぽを向いている。
「はい、チーズ」で首だけ向けられても不気味なことこの上ないので、これでよい。
と、ここまで書いて忘れていた。普段ならこぼれ話をやるはずであった。
えー、特に内容についてはありません。以上!いやいやいや。
ご紹介されたらこう書かれている。「豆大福つき」
どうもCMに力が入りすぎたようである。
冗談はさておき、収録が終わるとやはり何か話が抜けている。
ちゃんと正坐をすると、太股と尻に力が入る。勿論、下っ腹にも。
これがあるので、正坐をしてきた日本人というのは、歩くために歩く、散歩をする必要がないのである、というのが野口晴哉の言。である。
じゃあ、まったく歩く必要がないのか?というとそうではなく、野口師曰く「文明生活を見直そう」である。
ちょっとやそっとで車やら自転車を使うのが現代人である。必要だから歩いている分が丁度よかったのであるが、それを無しにして今に至り、妙なエクササイズやら「健康食品」やらで釣り合いを取ろうと無駄な努力をするわけである。歩くだけの問題ではなく、日常全ての行動について言えることでもあるが。
ラヂヲでも少々言ったと思うが、平坦な道を歩くのはあまり意味がない。それは機械的に鍛え上げた、ただ筋力があるだけの硬い身体を作り上げる。走ってもそれは同じであるし、そもそも走るのはお勧めしない。それこそ「無駄な努力」である。
野口整体が目指すところは、そういう機械的な筋肉、随意筋ではなく、不随意筋を鍛えることが重要であるとのことだ。現実的には困難だが、全ての不随意筋を動かすことも理論上可能ではあるという。
マイク・アダムズも言っているが、歩くなら自然の道を歩くべし、と。前に紹介したWade Lightheartも、どこか岩場の所の砂利道をランニングし、ストレッチをしてそして瞑想をしていた。
こういうことが、不随意筋を鍛えることに繋がっているのだと思われる。ただただノルマを達成するだけのような運動を「無駄な努力」と言っても差し支えないのである。
少々逆説的になるが、ここのところ川原の石ころと友達になっていたら(あちらがどう思っているかは判らないが)、ちと違いが出てきた。正坐した時、少々脚に力が入る状態を意識するのだが、途端にやり易くなっている。
以前は「力をいれねば」という感じだったのだが、特に強く思わなくても「こんな感じ」で出来上がっている。
どうもアスファルトの道を歩くこと自体(走るのも恐らく)、「文明生活」そのものなのだろうと、強く感じるのである。
車が走る以上は舗装道路はないと困るが、元々がおかしいのだから「無駄な努力」に終始せざるを得ない。
というわけで、何時間歩くだとか、何キロ歩いただとか(走るにしても)に意味はないといえる。どういうところをどのように歩いたか、であろう。
夜勤明けで約一時間歩いて帰るわしが、川原を歩いたら少々足に響いた。ちなみに、普通の道でも下駄を履いて歩くと、結構脚に来る。最近はあまりこないが、三十分しっかり歩けば、部屋の床がしばらくの間、絨毯の様になる。
だが、下駄を履いて歩く以上であった。えー、まずは下駄を履いて歩くところから?まあ、それもよし。
獣道みたいな山道を歩くとか、石ころだらけの川原を歩くだとか。まあ、気が向いたらお試し頂きたい。ただし、いきなりやってこけても責任は取れない。
そしてついでに、橋の下で居眠りしている仙人もどきがいたら、キュウリでもお供えしてみるといいかもしれない。
ついつい勢い余ってエロガッパになるかもしれないが、尻子玉の抜き方は判っていないので、軽くあしらえば大丈夫である。
天気がいい日は川原を歩く。特に今は夏である。打って付けであろう。
川の水が汚くないのなら、スイカでも冷やしておけばバッチリである。では、また。
仕事場の近くの果物屋に私服で入ったら、先日は仕事着でも会ったお姉さんがいる。
「帽子かっこいいですね」と言われた。つい「普段はこんな帽子で着物なんですよ」と言おうかと思ったが、踏みとどまった。
初めて入った日にもいたおじいさんは「スイカ甘くておいしいよー」と、いつもの調子であった。
スイカは晩飯やら間食やら夜食になったわけである。ついつい勢い余って買ったパッションフルーツも食べた。美味いのだが、ちと高い。
まだ仙人になれそうにないようで、仕方がないから妖怪にクラスチェンジしようかと考える。
暑いし、最近川原をブラブラしているから、よし、河童になろう。
河童の好物は・・・尻子玉!いや、それはまずい。尻子玉を抜かれた人間は腑抜けになってしまう。
というわけで、キュウリを買って来てはボリボリ食べていた。仕事場の人に「マヨネーズもつけないのか」と言われたが、お構い無しにボリボリ。スイカの前の話である。
昨日も仕事に行く前にキュウリをボリボリ。トマトと一緒に食べていた。なにを思ったのか三つ葉まで買ってきていたので、上からトッピングした。
はて、この組み合わせ大丈夫なんだろうか?三つ葉は論外のような。うんまあ、美味かったからよしとする。
そんなことをしておきながら、昼ごろ、去年一度だけ入ったお店にいった。
さて、そろそろ帰ろうかと身支度を始めると、席に案内してくれた女性スタッフの方が一言。
「もしかして、以前も来られましたか?」と。
「ええ、一度だけ。その時もこのカウンター席でランチでしたよ」
「ああ、やっぱり」という。
ディナーのほうが色々選べますから、よろしかったらと。
そうですねその時は着物で来ますね、とは言わずに「いつ来るか判らないとか言いつつ、二、三日したら来るかもしれませんよ」などと笑いながら店を後にした。
着物でもないのに覚えられていたとは。ちなみに、男性スタッフの一人が、こちらが吸っていた「MANITOU」の香りがいいと感想を述べていた。
しかし、キセルには突っ込みはなかった。意外と市内では普通なのかもしれないが、他にキセルで吸っている人を聞いたことはあるが見たことはない。
少々買い物しつつ(いい加減ユ○クロのシャツは脱ぎ捨てようと)、川原に向かった。今日は子連れが川原でバーベキューしていたり、水遊びをしている。
バーベキューやっているのは別に構わない。こちらが食べるわけでもない。
そんなことよりうんざりしたのが、向こう岸の広場で盆踊りだかなんだかをやっている。
いる間これかと、げんなりしたが、しばらくしたら止んだ。そもそも三時過ぎである。お開きかと思ったら、しばらくすると今度は神輿を担いで川に突入してくる。
はーもう。好きにしてくれ、と、川の流れを眺めていた。
そのうち、見えないほうでドンチャン鳴り始めた。見えないならマシかと、川原を歩くことにした。
セメントの塊を規則正しく並べて流れを弱めているのか、ここを飛べとばかりに並んでいる。石を拾っては(今日は拾うまいと思ったが、気がつけば拾っていた)ぴょんぴょん飛んで、向こう岸近くまで渡る。
こんな感じになっている。
見えづらいが、奥の方は水量も多く、流れが強い。
この写真の向きから左に進むと、座り込んでいる橋がある。
滑るかと思ったが、なるべく乾いた所を目掛けてジグザグに飛んだためか、落っこちることは無かった。
わしは河童になる!とか言ってて川に落っこちて流されたら河童の川流れになるな、などと思ったが、そんなネタは体現することがなかった。残念至極である。いや、落ちたら落ちたで困る。
そもそも、流されるような深さではない。が、膝くらいの深さがあれば人間は溺れる。カッパはカッパでもエロガッパだったら確実に川流れであろう。
さて、この川原。橋の下で座り込んでいることが多いのだが、今日はさらに真ん中の方の橋脚に腰を落ち着けた。あまり落ち着けてはいなかったのだが、その近くで長方形の板を見つけたので、簡単な長椅子を拵えた。これからはそこで腰を落ち着けていることだろう。
この辺りは鳩やら烏がやってくる。今日も腰を下ろしたと思ったら、近くに烏が舞い降りてきた。近いといっても十メートル以上は離れているが、前にも同じ辺りに飛んで来た。同じ奴かと思ったが、イマイチ判らない。
鳩に至っては飛び回っている。祭囃子が煩いからであろう。
しかし、先日は結構近くまで歩いて寄って来た。鳥のくせに歩くとは。
一羽だけ、石の上でじっと立っていたので、その写真を撮ろうとしたのだが、少し暗い上に遠くて映らなかった。というわけで、近くて明るい上に二羽いる状態を映すことにしたのだが、二羽ともそっぽを向いている。
「はい、チーズ」で首だけ向けられても不気味なことこの上ないので、これでよい。
と、ここまで書いて忘れていた。普段ならこぼれ話をやるはずであった。
えー、特に内容についてはありません。以上!いやいやいや。
ご紹介されたらこう書かれている。「豆大福つき」
どうもCMに力が入りすぎたようである。
冗談はさておき、収録が終わるとやはり何か話が抜けている。
ちゃんと正坐をすると、太股と尻に力が入る。勿論、下っ腹にも。
これがあるので、正坐をしてきた日本人というのは、歩くために歩く、散歩をする必要がないのである、というのが野口晴哉の言。である。
じゃあ、まったく歩く必要がないのか?というとそうではなく、野口師曰く「文明生活を見直そう」である。
ちょっとやそっとで車やら自転車を使うのが現代人である。必要だから歩いている分が丁度よかったのであるが、それを無しにして今に至り、妙なエクササイズやら「健康食品」やらで釣り合いを取ろうと無駄な努力をするわけである。歩くだけの問題ではなく、日常全ての行動について言えることでもあるが。
ラヂヲでも少々言ったと思うが、平坦な道を歩くのはあまり意味がない。それは機械的に鍛え上げた、ただ筋力があるだけの硬い身体を作り上げる。走ってもそれは同じであるし、そもそも走るのはお勧めしない。それこそ「無駄な努力」である。
野口整体が目指すところは、そういう機械的な筋肉、随意筋ではなく、不随意筋を鍛えることが重要であるとのことだ。現実的には困難だが、全ての不随意筋を動かすことも理論上可能ではあるという。
マイク・アダムズも言っているが、歩くなら自然の道を歩くべし、と。前に紹介したWade Lightheartも、どこか岩場の所の砂利道をランニングし、ストレッチをしてそして瞑想をしていた。
こういうことが、不随意筋を鍛えることに繋がっているのだと思われる。ただただノルマを達成するだけのような運動を「無駄な努力」と言っても差し支えないのである。
少々逆説的になるが、ここのところ川原の石ころと友達になっていたら(あちらがどう思っているかは判らないが)、ちと違いが出てきた。正坐した時、少々脚に力が入る状態を意識するのだが、途端にやり易くなっている。
以前は「力をいれねば」という感じだったのだが、特に強く思わなくても「こんな感じ」で出来上がっている。
どうもアスファルトの道を歩くこと自体(走るのも恐らく)、「文明生活」そのものなのだろうと、強く感じるのである。
車が走る以上は舗装道路はないと困るが、元々がおかしいのだから「無駄な努力」に終始せざるを得ない。
というわけで、何時間歩くだとか、何キロ歩いただとか(走るにしても)に意味はないといえる。どういうところをどのように歩いたか、であろう。
夜勤明けで約一時間歩いて帰るわしが、川原を歩いたら少々足に響いた。ちなみに、普通の道でも下駄を履いて歩くと、結構脚に来る。最近はあまりこないが、三十分しっかり歩けば、部屋の床がしばらくの間、絨毯の様になる。
だが、下駄を履いて歩く以上であった。えー、まずは下駄を履いて歩くところから?まあ、それもよし。
獣道みたいな山道を歩くとか、石ころだらけの川原を歩くだとか。まあ、気が向いたらお試し頂きたい。ただし、いきなりやってこけても責任は取れない。
そしてついでに、橋の下で居眠りしている仙人もどきがいたら、キュウリでもお供えしてみるといいかもしれない。
ついつい勢い余ってエロガッパになるかもしれないが、尻子玉の抜き方は判っていないので、軽くあしらえば大丈夫である。
天気がいい日は川原を歩く。特に今は夏である。打って付けであろう。
川の水が汚くないのなら、スイカでも冷やしておけばバッチリである。では、また。