ウヰスキーのある風景

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うつわ

2012-07-30 | 雑記
人間の食べものは果物であった。ということを理解したので、基本的に果物を食べる生活を、きっちりとはまだいえないが、始めている。


肉や乳製品は、如何に変なもの(妙な飼料で育てられているだとか、加熱殺菌などの不自然なもの)が入ってなかろうと、実際は受け付けられるものではないということである。
ただ、情けないことに、昔の習慣は一朝一夕で消えなかったりする。しかし、時折試して(試している場合か!)みると判るのだが、その後の経過に大きな違いを感じている。

要するに、果物は美味い、ということである。味もあるが、身体が困っていないというわけだ。

最近はマンゴーが美味いなと思ったり、フルッタフルッタの冷凍ピューレは絶品だなと、仕事場の冷凍庫に入っている謎の袋(持ち帰り用にアルミみたいな袋を持たされる。それをそのまま入れてある)を不審に思われながら過ごしている。大麻だ脱法ドラッグだなどと勝手放題にいわれながら。


ところで、その情けないといえば情けないところではあるのかもしれないが、たまに刺身で一杯やっていたりする。


刺身には日本人の感性で彩られた皿がふさわしい。これも「昔の習慣」といえばそうかもしれないが。



刺身を盛るのに最もふさわしいと絶賛されている皿があるとしよう。


それに旬の刺身が乗っている。「昔の習慣」とはいえ、やはり非の打ち所がない。



仮に乗っかっている刺身が痛んでいて食べられなかったとしても、やはり器との一体感が文化というものを感じさせるであろう。もっと正確に言えば、皿に文化が現れている。



しかし、ある日、刺身でないものが盛られている。レアステーキだったり、牛のたたきだったりする。刺身を「生で捌いた食べ物」であるとするなら、まだたたきなら刺身といっていえないこともないが、やはり似合わない。



その上、出してきた奴は「刺身を盛る皿に盛ったから刺身なんだ」と、奇妙なことを言い張る。問うてもいないのに。



そんな訳の判らない口上を受けて口にする「刺身」は、きっと訳の判らないものになっているに違いない。



さて、また刺身を盛ったその皿を見れば、「日本文化としての刺身」が体感できるであろう。皿を食っているのか魚を食っているのか混乱するところではある。



ちょっと訳の判らない話をしたが、こういう話に繋げたかったわけだ。


またBeyond 5 Sensesから、最近、こういう記事が掲載された。うちのラヂヲではないのでご安心?を。




なんで皿か?というと、楯の会のクーデター前に三島由紀夫は一般には理解しがたいことを述べていたそうである。

天皇がクーデターを許容しないのなら天皇を殺す、という風に。


上からの話で無理矢理持っていこうとしたら、つまり、こういうわけだ。


天皇という皿に、天皇陛下という日本産の魚の刺身が乗っかっているのだと思っていたら、実際はビフテキが乗っかっていたのだ、と。



刺身を頼んだはずなのに、ビフテキが出てきたらおかしな話である。皿を壊す必要はないので、刺身を盛り直してもらいたいところである。


もしかしたら、そのうち「うつわ」すらいらなくなるのかもしれないが、その「うつわ」がビフテキの脂や熱で変質しないうちになんとかしたほうがいいだろう。では、また。