ウヰスキーのある風景

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LIE

2012-07-27 | 雑記
先日のことである。


母親からメールが来た。そこにはこうあった。


「末の弟が結婚することになったよ」と。


あまり気が進まない兄弟(特に兄)と家族の会話で、時折こんな話があったように覚えている。


「一番先に結婚するのは一番下の弟じゃないか」などと。



今回、それが実現したわけである。



その辺りはなんとも思わない。寧ろ喜ばしいので、勝手にやってくれ、と投げ遣りにお祝いの言葉を投げつけたくなる。いや、弟については家族では一番嫌悪がないのでそこは冗談である。


ちなみに、メールで嫁さんと一緒に写っている写真を送ってきたのだが・・・。

やはり我が弟である。こんな皮肉めいた嫁さん(予定)との記念撮影があるだろうか。

金色夜叉』をご存知だろうか。リンク先はグーグルの画像検索なので、名前は知らなくてもすぐ思い当たるだろう。

熱海のその銅像の前で記念撮影している写真を送ってきたのである。


「なんつうところで写真撮ってるんだ」と問えば、判っているのでこう来た。

「いかしたバックやろ?」と。


その前後のやり取りで、いらない気の遣いでしかないのだが、後味のよくないやり取り(一般的にいえばであり、わしとしては満足である)があった故、大笑いしてしまったものである。


さて、何があったか。何を感じたか。ラヂヲで語ろうかとも思ったが、少し寝かせてこなすついでに書き綴るのもよかろうと考え、少々記そうと思う。



弟からの一足遅い結婚報告のメールが先日届いた。


そこは別に問題ない。数年前の何とかライダーの黒幕っぽいけど黒幕でないおっさんのセリフを借りれば「ハッピーバーズデイ!」と叫ぶところである。(そんなネタはよしたまえ!)


そう。それだけなら「先に聞いてしまったけどおめでとう」で済んだのである。


続けてこうあった。


「兄貴の新居に嫁と一緒に遊びに行かないか」と。


それを読んだのは仕事の合間だったと思う。夜勤の間中悩んだ、といったら大げさだが、どう答えたものかと逡巡したのである。


理由は、上の一言に引っかかるというので判るかと思うし、最近ではないが、散々書き綴ってきたことでもある。


兄が嫌いである、ということだ。


話が前後するが、これを書いている先日、兄貴からメールが来た。

一晩悩んで(仮、)弟に「今でも多分兄貴と会ったら気分が悪くなるから行きたくない」と送ったのだが、向こうで内容を伝えたようである。
その前にあった弟からの返信も、「長兄がヤスオとどう接したらいいかわからないみたいだ」という事を書いてあった。ちなみに、一分違いで届いた。狙いすぎじゃないかね。

内容は、「お前に子供のころから偉そうにしてごめん」という風な内容であった。


判ればよろしい、というのはよくあるところ。だが、あちらは判っていない。


仮に兄貴がそういう馬鹿げた厳しさを持たずにこちらと接していたならばこちらはそこまで身構えなかったのかというと、やはり違う。


あまりおおっぴらに書きたくないので伏せて書くが、かつてのわしもそうだし、現今はわし以外の家族が根本的に囚われている精神構造が問題なのである。

胸倉つかまれた、は以前ここで書いた覚えがある。こちらがその精神構造を乗り越えるような発言をしたが故に、暴力的な示威行動の憂き目にあったわけである。




もう少し一般的に(ある意味、実家が囚われている精神構造も一般的ではあるが)記そう。


「家族」 これである。


どのような家庭でも、何がしか問題はあろう。大なり小なり、いざこざが起こり得るであろう。それでもちょっとした相違なら自然と解消し得るともいえる。

しかし、どれほど重大な相違があっても、それを塗り潰し、一まとめにしてしまおうとする勢力がある。

それが「家族」という道徳である。


我が兄を血の繋がりや道徳を無視した(まずはそこを理解できればの話だが)上で、分かり合える個人であるかと問われれば、こちらの答えは「否」である。



さて、その兄が反省する「お前に偉そうにしてきた」という話。


これも大きなところである。


というのも、以前書いた、メガネ豚のおっさんの話


兄という生き物は、まんまこの豚のおっさんなのである。腹の出っ張り具合までも。道徳的な、余りにも道徳的な、というわけである。今回の内容に沿ったところなので、十二分に理解なさりたい方はお読み戴きたい。再確認のようでもあるが。


実家の「精神構造」を担っている存在がこういうことを曰まう。

「嘘をつけば、その嘘を糊塗するためにずっと嘘をつかなければならない」と。これは、敵対している存在に対して言っている言葉なのだが、どうみてもブーメランである。


わしは家族だとか肉親というものは「嘘」でしかないと感じている。

その上で、我が兄とは分かり合えるものではないといっている。表面上のお付き合いならやってやれないこともないが、多くて年に一回くらいで結構。


お互いの精神衛生上のためにも、まずは「なんでも言い合える仲」という空想を醸成している「嘘」を投げ捨てるべきである。
そうすれば、そういった「仲」を維持しなければならない、という固定観念も消え去るであろう。

こちらは控え目に見て半歩ほど脱したとはいえ、彼らはその「嘘」の中でのた打ち回っている。


できればこのまま、「あいつは仙人になったからこの世のものではないのだ」と、寝かせておいてくれれば実にありがたい。「嘘」が全てであると思っているのだから、こちらが真実を示しても彼らの答えは「胸倉をつかみにかかる」になるのである。

こういうわけである。

「ゴヒャクニンはどこだ」と最近はしつこく曰まうわしだが、まだ見ぬ「ゴヒャクニン」の方は、示したことが骨身に染みて理解できない限りは、仮に我が「ゴヒャクニン」となった場合、無用の苦しみを増やすだけである。苦しんで理解できればそれでよいが。(ゴヒャクニンってなんだ?という人はBeyond 5 Sensesのこの記事を読むべし。しかし、「ゴヒャクニン」の説明にはなってないな)


まだまだ一人ぼっちの「ゴヒャクニン」は脱却できそうにないのかな、などと思うのである。こう書くと、こりゃ露骨だなぁと。まあ、一度、あなたの家族とあなた自身のあり方を振り返ってみると、不自由さが理解出来るかと思われる。
ここで示した内容はまだまだ粗雑に過ぎるので、その先はあなたが如何に理解を深めるか、である。馬鹿げた世の中の「嘘」を一つ突き崩せば、もっと大きな「嘘」に気付けるであろう。では、また。