環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

「経済」 「社会」(福祉) 「環境」、不安の根っこは同じだ!

「将来不安」の解消こそ、政治の最大のターゲットだ

2007年1月のブログ掲載記事

2007-03-20 18:09:13 | 月別記事一覧
日本で唯一の肩書き?(1/1)

今日の製品は明日の廃棄物(1/2)

戦後62年 立ち止まって考えてみよう(1/3)

人類史上初めて直面する2つの大問題(1/3)

「明日の方向」を決めるのは私たちだけだ(1/4)

環境危機の現状をよく知る(1/5)

政治が決める「これからの50年」(1/5)   

「予防志向の国」(政策の国)と「治療志向」(対策の国)(1/5)

初めてのトラックバック-その1:スウェーデンのEU加盟(1/6)

初めてのトラックバック-その2:家畜の飼養(1/6)

環境対策:過去、現在、そして未来(1/7)

所信表明演説が示す安倍首相の「環境認識」(1/7)

「環境省」から「持続可能な開発省」へ、そして2年後、再び「環境省」へ(1/8)

スウェーデンの国会議員の投票率の推移(1/9)

ブログ開設10日目(1/10)

市民連続講座:私の環境論1 ガイダンス(1/11)   

市民連続講座:緑の福祉国家1 ガイダンス(1/11)

緑の福祉国家2  なぜスウェーデンに注目するのか: 国家の持続可能性ランキング1位はスウェーデン(1/12 )

私の環境論 2  「環境問題」という言葉を聞いたら・・・(1/12)

私の環境論 3 矮小化された「日本の環境問題」(1/13)

緑の福祉国家3  スウェーデンが考える「持続可能な社会」(1/13)

緑の福祉国家4  21世紀へ移る準備をした「90年代」①(1/14)

私の環境論 4  21世紀も「人間は動物である」(1/14)

緑の福祉国家5  21世紀へ移る準備をした「90年代」②(1/15) 

私の環境論 5  動物的な次元から逃れられない人間 

緑の福祉国家6  21世紀へ移る準備をした「90年代」③(1/16) 

私の環境論 6  「人間第一主義」はいけないのだろうか(1/16) 

緑の福祉国家7  21世紀へ移る準備をした「90年代」④(1/17) 

私の環境論 7  「環境問題」は「公害問題」ではない(1/17) 

緑の福祉国家8  「持続可能な開発省」の誕生、「環境省」の廃止(1/18) 
私の環境論 8  環境問題とは何か(1/18) 
緑の福祉国家9  21世紀へ移る準備をした「90年代」⑤ 研究報告「2021年のスウェーデン」(1/19) 
私の環境論 9  環境への人為的負荷(1/19)      
汚職防止研究所(1/20)      
政治家の不祥事(1/20)緑の福祉国家10 「新しいビジョン」を実行する行動計画(1/20) 
私の環境論 10 生態系の劣化(1/20)  
緑の福祉国家11 「緑の福祉国家」を実現するための主な転換政策(1/21)
私の環境論 11 人間の生存条件の劣化(1/21) 
私の環境論 12 企業の生産条件の劣化(1/22) 
私の環境論 13 「環境」と「経済」は切り離せない(1/23) 
緑の福祉国家12 「気候変動」への対応 ①(1/23) 
緑の福祉国家13 「気候変動」への対応 ②(1/23) 
緑の福祉国家14 「気候変動」への対応 ③(1/24) 
私の環境論 14 環境問題は経済の「目的外の結果の蓄積」(1/24)
「IPCC第4次報告案」の概要(1/24)
私の環境論 15 「日本の環境問題」を考えるときの基本条件(1/25)
私の環境論 16 「環境問題」への対応、輸入概念でよいのか!(1/26)
緑の福祉国家15 「気候変動」への対応 ④(1/26)

スウェーデン企業の環境意識 ボルボ(1/26)

2007年1月26日の安倍首相の施政方針演説(1/27)
94年の朝まで生テレビ:評論家 田原総一朗の「環境認識」(1/28) 
「個人」と「組織」のずれ(1/29)
安倍首相の「イノベーション」(1/30)


「経済成長」は最も重要な目標か

2007-03-19 16:39:10 | 経済


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3月17日のブログ「日本はほんとうに省エネ国家なのか」 で掲げた図の中川秀直・自民党幹事長の著書「上げ潮の時代」をとくとご覧下さい。GDP1000兆円計画と書いてあります。そして、この本の「はじめに-GDPが2倍になる必然」で、中川さんはつぎのように述べています。

名目4%成長で成長していけば、18年でGDPはいまの500兆円から1000兆円に倍増する。生まれたばかりの赤ちゃんが大学に入るころ、あるいは、いま20歳の青年が38歳の社会の中堅層になったころ、そして、50歳の壮年は68歳で、まだ働き続けるか年金で悠々自適の暮らしを選ぶかを考えているころ、日本の生活水準は2倍になっている。そして、経済成長は、格差是正の良薬でもあるのだ。

「GDPが今の2倍になれば、日本の生活水準は2倍になる」、「経済成長は格差是正の良薬でもあるのだ」という中川さんや政府の政策担当者、それにTVやマスメディアでGDPの成長を主張し続けるエコノミストは、今日のブログのテーマにあげた「経済成長は最も重要な目標か」とおっしゃる橘木俊詔・京都大学大学院経済学研究科教授の主張にどう反論するのでしょうか。

橘木さんは「日本の経済格差」(1998b 岩波新書)の著作があり、最近の社会問題になっている「格差社会」でしばしばマスメディアに登場するこの分野の論客です。私はこの橘木さんの「経済成長は最も重要な目標か」という主張に注目しました。

橘木さんは「家計からみる日本経済」(岩波新書 2004年1月)の「第1章 行き先を見失った日本経済」の「1 経済成長至上主義の限界」でつぎのように述べています。

超低成長経済、もしくはゼロ(あるいはマイナス)成長率の経済から、正の経済成長率への転換を目指して、今日、日本ではエコノミストをはじめ政策担当者、政治家を中心にして、何とか日本経済を大不況から脱却させるための政策論議が盛んである。

確かに正の経済成長率は社会・経済の多くの諸問題(例えば、失業、財政赤字、社会保障財源など)を解決してくれる可能性が大である。しかし、発想を転換して、経済成長を求めることが人間の幸福にとって本当に重要なのか、経済成長を求めなくても多くの諸問題を解決してくれる方策はあるのではないか、といったことを考えてみることも価値がある。


第1に日本の1人あたりのGDP(国内総生産) や国民所得は今や世界最高水準になっており、所得水準が高くなったので、これ以上の生活水準を求めなくてよいのではないか。もとより、後に述べるように、物価水準の高さや住宅の質が依然として良好でないことから、日本人はまだ豊かではない、という説に説得力はある。

したがって、これらの課題に取り組むために、私自身もゼロ成長ではなく、0.5%から1%の成長率が理想とする意見に反対はしないし、むしろ賛成する。

第2に高い経済成長率、例えば、3~4%の成長率を達成するには、労働時間を今まで以上に長くする必要がある。 やっと欧米並みの労働時間に近づいた現在、さらにわが国の悪しき伝統である「サービス残業」を考慮すれば、これ以上の労働時間の長さを求めるのではなく、人生を楽しみ、ゆとりある生活を送ることの価値に、日本人も目覚めてもよいのではないか。

ひたすらに働いて高い経済成長を求めるのは、いわば先進国に追いつくために発展途上国に課せられた「必要性」でもある。戦後の長い期間にわたった日本人の長時間労働は、まさにこれに該当していた。もうそう言う時代ではない。

第3日本を含めた先進国が高い経済成長を求めると、南北間経済格差(すなわち先進国と途上国の間の経済格差)はますます拡大するおそれがある。

貧困に悩んでいる発展途上国に、経済成長の可能性を追求する余地を与えるためにも、先進国は一歩後退するか、足踏みをしてもよいのではないか。

当然のことながら、発展途上国が経済成長促進を図るのは理にかなっており、もしパイが一定である世界経済であれば、先進国の政庁政策は途上国のそれを阻害する懸念がある。

第4に先進国の経済成長は限度のある世界の天然資源(例えば石油、鉱物、森林、水産)の枯渇に拍車をかける。

これは世界の資源のパイが一定であるから、さけられない。次世代の人たちの生活を脅かさないためにも、節度のある天然資源の利用に励むことは大切なことである。

第5に高い経済成長は世界の環境破壊にも悪影響がある。 高い成長を目指す経済活動は、CO2をはじめ様々な環境汚染や地球温暖化の原因になるので、快適な人間生活を送れるようにするには、ほどほどの経済活動に抑制することも時代の要請である。

ここに述べられている経済学者・橘木さんの5つの主張は、私がこれまで主張してきた「環境問題と経済のかかわり」とみごとに一致します。私は橘木さんの著書と出会って大変勇気づけられたのですが、日本の政治のリーダーや多くの経済学者やエコノミストはなぜこのような「基本的な認識」に乏しいのでしょうか。



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対照的な日本とスウェーデンの「債務残高」、今後はどうなる?

2007-03-19 08:24:58 | 政治/行政/地方分権


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昨日のブログで、日本とスウェーデンの「2007年の債務残高」が極めて対照的だというデータを示しました。現職の尾身幸次財務大臣が「平成19年度予算」との関連で、データを示し、コメントしているのですから、このデータは議論をするときのデータとして信頼できるものでしょう。

それでは、このような日本の厳しい財政状況がこのまま推移していくと将来どのような状況になるのでしょうか。私はこの分野のまったくの素人ですので、この分野で社会的にも、そして、専門的にも信頼できそうな方が公表されたご自分の論文のなかで引用されているデータを紹介します。

月刊誌「中央公論」(2004年11月号)が「特集 国家破綻の足音」で、榊原英資さん(元大蔵相財務官)が「日本の財政悪化は政治の砕片を招くか」と題する論文を寄稿しておられます。その論文の中に「各国の累積財政赤字の予想」と題する格好のデータがあります。

榊原さんのコメントはつぎのとおりです:「中央公論」(p125から)
双子の赤字はアメリカの問題というだけではなく、いずれ日本の問題になる。特に第二次ブッシュ政権、あるいはケリー新政権が財政赤字削減に本格的に取り組み出せば、双子の赤字はアメリカの問題というよりは、ここ2~3年の間に日本の問題になってしまう可能性すら低くないだろう。

さらに悪いことに日本の人口減少・老齢化のスピードは先進国で一番速い。すでに歳出の半分以上が年金、医療、介護などの社会福祉関連であることを考えると、財政赤字に与える老齢化社会の影響はきわめて大きい。

上の図は半年ほど前、格付け機関S&Pが、現状のままの財政制度が維持されたときの、老齢化社会が財政赤字に与える影響を試算したものである。すでに、165%(小澤注 昨日の尾身財務大臣のデータでは148%となっていた)まで上昇している日本の財務残高GDP比は2020年で287%、2050年では718%に達する。つまり、20年から30~40年の間に日本は財政破綻から国家破産の道をたどるというわけなのだ。

素人の私には何とも大変な状況だと思うのですが、エコノミストも政治家も、そして国民も、マスコミもあまりに目の前の身近な問題にばかり気をとられすぎているのではないでしょうか。榊原さんの掲げた表で日本のように右肩上がりの傾向を示しているのはチェコだけです。この表の数値を用いて、主な国の傾向を私がグラフ化しましたら、つぎのようになりました。


ちなみに、榊原さんのお考えでは、スウェーデンや他の先進工業国は現状のままでもそれほど問題はない、ということになるのでしょうか。



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対照的な日本とスウェーデンの「債務残高」と「国民負担率」

2007-03-18 16:16:24 | 政治/行政/地方分権


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3月16日のブログで、21世紀前半の日本の国づくりを議論するとき、議論を混乱させる二つの指標があるという話をして、「国民負担率」と「環境効率」をあげました。そして、「国民負担率」という概念は日本独自のもので、専門家の間でも疑問が多い概念であることをお話しました。

現在発売中の月刊誌「文藝春秋」(2007年4月号 p384~391)が、「財政再建 特別鼎談 『成長なくして財政再建なし』の理念で編成した平成19年度予算」と題して、新政権になって初となる平成19年度予算の特長と日本の財政事情などについて、尾身幸次財務大臣、財政制度等審議会会長を務める西室泰三さん、フリーアナウンサー・酒井ゆきえさんの鼎談を掲載しています。

この記事の中に、「債務残高(GDP比)の国際比較」「国民負担率(国民所得比)の国際比較」の最新の状況を伝える図が掲載されています。両方の図から、日本とスウェーデンを比較できるので、参考になると思います。両国の現状が極めて対照的であることが読み取れます。

尾身さんはつぎのようにコメントしています。
国と地方を合わせると770兆円くらいの借金があるんです。これは、日本のGDPに対して148%。こんなに借金のある先進国は日本だけで、2番目に借金が多い国が、121%のイタリア。アメリカ、ヨーロッパの先進国は、大体50%から70%なのです。

他方で、ここは非常に大事なところなのですが、国民負担率、これは、税金と、年金、医療保険、失業保険等の掛け金を全部合わせて、所得のうちからいくら払うかというものですが、これは日本は39.7%です。


尾身さんはつぎのようにコメントしています。
高福祉の国スウェーデンは70%。その代わり医療費も学校もほぼタダ、年金もかなりもらえるというので、老後は安心なんです。これが「高福祉-高負担」。ヨーロッパの国が「中福祉-中負担」。西室会長は、財政制度等審議会の会長ですが、審議会がこの前、日本は「中福祉-低負担」だという報告を出したんです。そうすると、日本は、「中福祉-低負担-高借金」

私のブログでは「少子・高齢化問題」「環境問題」の2つを21世紀前半に人類が人類史上初めて経験する大問題であると位置づけています。そして、どちらも、私たちの社会をこれからも持続させることができるかどうか、また、つぎの世代に引き渡すことができるかどうかに、深くかかわっています。

この2つの大問題を同時解決するために、スウェーデンは「福祉国家」から「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」への転換を図っているのです。「少子・高齢化問題」に対しても、「環境問題」に対しても、日本とスウェーデンの間には顕著な相違があります。この相違は「問題に対する認識の相違」によるものです。



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1970年の大阪万博のスカンジナビア館

2007-03-18 04:56:22 | 環境問題総論/経済的手法
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37年前の1970年3月14日、大阪万博が開幕しました。今になって考えてみると1970年代は先進工業国にとって「高度経済成長期」から「次の新しい時代」への転換期だったのではないでしょうか。

いま、北欧諸国が「持続性」において高い評価を得ている背景には、長年にわたって培われてきた、科学技術に対する考え方があります。米国や日本とは異なる科学技術観は、1970年に「人類の進歩と調和」をメイン・テーマに開催された大阪万国博覧会の展示にも見て取ることができます。

「人類の進歩と調和」はきわめて今日的な標語ですが、当時は、日本をはじめとしてほかの多くの国々で、「技術の進歩はバラ色の未来を約束する」という考え方が支配的でしたので、さまざまな科学技術の華やかな面が展示されていました。
 
たとえば、米国はアポロが持ち帰った「月の石」を展示しました。美浜原発から送られた電力によって、万博会場に「原子の灯」がともったのも、このときでした。

こうしたなかで、北欧諸国の考え方は大きく異なっていました。スウェーデンを中心とする北欧諸国は、 「科学技術には必ずプラスとマイナスの両面があり、将来、このまま科学技術が拡大する方向で社会が進んでいけば、科学技術のマイナス面が増えて、環境への人為的負荷が高まる」と考えたのです。
 
そこで、無制限な人間活動の広がりは環境への負荷を高めるという観点から、北欧諸国は協力して、「産業化社会における環境の保護」をテーマに掲げたパビリオン「スカンジナビア館」を建てました。このパビリオンの目的は、地球上の問題に、未来の世代の人々の注意を促すことでした。

スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、アイスランドの北欧五カ国がこの万博のために積極的な協力体制を敷いたのは、国境のない問題に永続的に協力して取り組む姿勢を示そうと望んだこと、環境問題は地域的な範囲を越え、世界的な規模で解決に当たらなければならないことをアピールしようと考えたこと、などの理由によるものです。
 
パビリオンの正面には、図に見られるように、「+と-」のシンボル・マークが鮮やかに刻まれ、パビリオンの内部では、人間の生活を豊かにした数々の発明や発見、労働災害や公害といった、プラスとマイナスの具体的な事例が7200枚のスライドと写真、パネル、映像を通して、パビリオンを訪れる人々に語りかけられました。



 

これは、科学技術が発達すれば、言い換えれば、人間活動が拡大すれば、それによって、環境への人為的負荷が高まることを警告したのです。この時期にすでに、北欧諸国は「今日の地球環境問題」に警鐘を鳴らしていたことがわかります。

いまから37年も前のことでした。当時のこの認識は、2000年以降に国際的に認識されるようになった「持続可能な開発」の概念へと発展していったと考えてよいでしょう。
 
しかし、こうした先進的な認識が、当時の日本では、専門家にすら理解されなかったようです。知人の玉置元則さん(兵庫県公害研究所研究員)が雑誌「環境技術」(1995年11月号)に、つぎのような主旨の解説記事を書いておられます。

昭和45年(1970年)夏の頃、大阪千里丘陵で万国博覧会が開催されていた。種々の催し物が行われる片隅でスウェーデン館(小澤注:スカンジナビア館)では一つの講演があった。一人の研究者が「英国の工業地域から排出された大気汚染物質がスカンジナビア半島の松を枯らしている」と力説していた。また、その講演のなかでは、今でいう「環境の酸性化」の概念が具体例とともに説明されていた。しかし、招待された日本の第一線の研究者や行政担当者はただ唖然として聞くのみでその意図することが理解できないようであった。



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日本はほんとうに「省エネ」国家なのか? 評価基準の見直しを!

2007-03-17 14:55:20 | 原発/エネルギー/資源


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今日のブログのカテゴリー「えっ、どうして」では、タイトルに掲げた「日本はほんとうに『省エネ』国家なのか?」を検証してみたいと思います。

まず、最初の図をご覧下さい。図の左側はご存じ安倍首相の著書「美しい国へ」の表紙で、図の右側は中川秀直・自民党幹事長の著書「上げ潮の時代」の表紙です。


安倍首相は「美しい国へ」の156ページで、つぎのように書いておられます。
また、もっか中国で深刻化している環境問題にたいしても、我が国が経験し、培ったノウハウを積極的に提供していくべきであろう。中国は世界第2位のエネルギー消費国であるが、残念ながらエネルギー効率の現状はきわめてよくない。その点、日本の省エネルギー技術は先進国のなかでも抜きんでている。この分野の協力は、中国経済にとっても、また世界にとっても大切なテーマだ。

また、安倍首相は2007年1月26日に行った「施政方針演説」で、「世界最高水準にある我が国のエネルギー、環境技術を活用し、中国を始めとするアジアに対し、省エネ・環境面での協力を進めます」とも述べておられます。

一方、中川幹事長は著書の「はじめに」の4ページで、つぎのように書いておられます。
「これ以上の経済成長は地球環境に負荷をかける」
ならば、世界に冠たる日本の環境技術で今後生活水準が上がる国でも、経済成長と環境保全を両立できるようにすればいい。

つまり、安倍首相も中川幹事長も、さらに言えば、最近になっても、「世界に冠たる省エネ技術とか環境技術」という表現を好んで使う政治家、評論家、マスメディアに共通する誤解は「公害」と「環境問題」の混同、「効率化」と「省エネ」の混同に基づくものです。そうでなければ、それらの人たちは、1970年代の「オイルショックの頃の日本の優れた省エネ技術」以降、思考停止が続いているのではないでしょうか。

さて、表題に掲げた「日本はほんとうに『省エネ国家』なのか? 評価基準の見直しを!」に対する回答が1997年7月12日の毎日新聞(夕刊)の一面トップに出ています。



この記事は「地球温暖化の主因となる二酸化炭素(CO2)の排出量について、過去約20年間の増加率は先進7か国の中で、日本が最も大きいことが12日、米国オークリッジ国立研究所のデータで明らかになった。 日本はこれまで『CO2 の削減につながる省エネ技術は世界一』と豪語してきたが、このデータは日本の温暖化対策が他国に比べ、大幅に遅れていることを示している」と報じています。

これまで、日本のエネルギー関係者や政策担当者、エコノミストの多くは、「わが国の省エネは世界の最高水準にある」という趣旨の発言を繰り返してきました。この場合の根拠は「家電製品1台当たりの消費電力」、「主要産業におけるエネルギー消費原単位」、「GNP(GDP)当たりのエネルギー消費量」などで表されるような相対的な数値に基づくものです。

日本の省エネ論は工学的発想に基づく、「技術による省エネ」が中心で、極めて狭義の省エネ論です。技術による省エネは重要ではありますが、社会全体の省エネ化という“社会的目標による上限”が設定されない限り、生産規模の拡大や製品台数の増加により省エネ技術の効果は増大するエネルギー消費に吸収され、十分に生かされません。

エネルギー消費量の増大は環境への負荷を高めるので、「最終エネルギー消費の増大」が問題にとなります。

ですから、これまでの「技術による省エネ(相対的な数値)」に基づく省エネの評価ではなく、「国全体の最終エネルギー消費の伸びをいかに抑えたか(絶対的な数値)」を“省エネの目安”とすべきなのです。「省エネ評価基準の変更」により、日本はこれまでの「見掛上の優等生の座」を降りることになります。その結果、私たちは日本のおかれた現状をはっきりと目にすることができるはずです。

この記事の最後で、環境経済に詳しい佐和隆光・京大経済研究所長は「日本が真剣に省エネに取り組んだのはオイルショックの時だけ。何が問題であったのか明らかにして京都会議の議長国としてリーダーシップを発揮して欲しい」と話しています。

ちなみに、日本の最終エネルギー消費は1970年の2112兆キロカロリーから95年の3588兆キロカロリーに漸次増加したのに対し、スウェーデンの最終エネルギー消費は、1970年が457兆ワット時、95年が390兆ワット時で、90年代に入ってやや増加する傾向が見られましたが、過去25年間この範囲に保たれていました。

関連記事

 「省エネルギー」の考え方(11/27) 

私には上の記事の内容のほうが、「安倍首相や中川幹事長の記述」より適切だと思います。合わせて、2月17日の私のブログ「経済、エネルギー、環境の関係」に掲げた最新の各種情報をご覧下さい。

特に、安倍首相や中川幹事長のような日本の政治のリーダーには日本の技術の意味するところを十分に理解して行動計画を立てて欲しいと思います。

私の基本認識は、いうまでもなく、昨日のブログで書いた日本社会には「効率化」と「省エネ」の混同があること、「効率化」よりも「資源やエネルギー消費量の抑制」が重要であることに基づくものです。

そして、1973年以来30余年にわたって日本の技術をウオッチしてきた私の結論は「日本はさまざまな省エネルギー技術(省エネ要素技術)を有する国ではあるが、省エ国家ではない」、「日本はすぐれた公害防止技術を有する公害対策先進国ではあるが、環境先進国とは言いがたい(たとえば、世界経済フォーラムの環境ランキング 2002では、日本は50.5で62位)」というものです。
   


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日本の国づくりの議論を混乱させる2つの指標 「国民負担率」と「環境効率」 

2007-03-16 19:43:58 | 政治/行政/地方分権


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21世紀前半の日本の国づくりを議論するとき、議論を混乱させる二つの指標があります。



★「国民負担率」

一つは「少子・高齢化問題」など社会保障制度とのかかわりが深い「国民負担率」という日本独自の指標です。この指標が初めて登場したのは、25年前の1982年でした。

日本が、今直面している「総人口の減少を伴う少子・高齢社会」は、これまでに人類が経験したことがないスピードと規模で進んでいます。このような未知の、しかも大規模な21世紀前半の大問題に対して、「日本の経済の活力を低下させないように国民負担率を50%以内に抑える」という90年代の経済目標は、現実への対応という意味からはたして「21世紀前半社会の適切な経済目標」と言えるのでしょうか?

1990年の第二次行政改革最終答申が「国民負担率は50%以下をめどにする」と提言して以来、この目標は変わることなく、日本の社会保障制度の枠組みを決める際の重要なよりどころとなってきました。2004年6月3日、政府の経済財政諮問会議がまとめた、中期的な政策運営と2005年以降の予算編成の方向を示す「経済財政運営の基本方針」(いわゆる「骨太の方針」第4弾)にも、この目標が90年当時のまま、盛り込まれています。

この指標には、専門家の間でさまざまに疑問視する声があります。

 


★「環境効率性」

もう一つは、環境問題にかかわる「環境効率性」という概念です。初めて登場したのは、2001年頃(たとえば「平成13年版環境白書」)です。これについては、3月15日のブログ「エコロジー的近代化論の問題点」でふれました。

「環境効率」(Eco‐efficiency)いう言葉が政府関係者、企業、マスメディアなどで好んで使われています。これは経済性の向上を通じて「環境負荷の削減」をめざすものであり、製品の機能・性能の向上や財務のパフォーマンスの向上と同時に、環境負荷の相対的な削減を示す尺度です。

そして現在、産業界のさまざまな場面で使われはじめています。特に、企業が公表している「環境報告書」のほとんどで「環境効率(性)」が用いられています。たとえば企業の場合では、売上高(あるいは生産高)を環境負荷(CO2排出量、廃棄物排出量、SOx、NOxなどの大気汚染物質排出量など)で割ったものが環境効率です。 「原単位」と呼ぶこともあります。

国の場合では、環境効率はGDPを環境負荷で割ったものです(具体的には国の場合、「環境効率=GDP÷CO2排出量」とか、「GDP÷一般廃棄物排出量」、「GDP÷SO2平均濃度」というような形をとることもあります)。

環境効率(原単位)はよいほうが好ましいのはもちろんですが、これはあくまで相対的な指標ですので、環境効率がよくても経済活動が大きくなれば環境負荷の総量が増加することも当然あります。ですから、環境問題解決をめざした指標としては、「環境効率(原単位)」よりも「環境負荷の総量の削減」が望ましいことは論を待たないのです。

しかし、エコロジー的近代化論では、環境効率を高めることはできても、全体的な環境負荷の削減を保証することはできません。「大量生産・大量消費・大量廃棄という環境危機の根本的な原因」を、環境効率の向上でしかとりあげることができないからです。

同じように、日本では「効率化」「省エネ」も混同しています。 



「経済大国」と称される日本の社会システムを国際社会との比較で語るとき、企業人、エコノミスト、政策担当者はその指標の一つとして日本の「効率の良さ」を挙げますが、これには、1月25日のブログ「日本の環境問題を考えるときの基本条件」で示した3つの前提があることを忘れてはなりません。このような前提を忘れた議論がしばしば日本の「○○神話」を作り上げるのです。




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ドイツの環境政策を支える「エコロジー的近代化論」

2007-03-16 12:09:22 | 持続可能な開発・社会/バックキャスト


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2001年12月9日付の朝日新聞は、シンポジウム「第2回エネルギー安全保障を考える」の様子をかなり詳しく紹介しています。

この記事のパネリストの一人、マルティン・イェニッケ・ベルリン自由大学環境政策研究所所長が、「社会民主党綱領ともいえる『エコロジー的近代化』を提唱」と紹介されています(上の新聞記事の赤枠の部分、拡大します)ので、

ドイツ連邦政府の環境政策は「エコロジー的近代化論」に裏づけられているといってよいのではないでしょうか

このことは、元環境省の職員で、現在、名古屋大学教授に転身された竹内恒夫さんが、ドイツ留学の経験から上梓した「環境構造改革」(リサイクル文化社、2004年)の「第一章」と「第二章」で「エコロジカル・モダニゼーション」をとりあげていることからもわかります。

それでは、このようなエコロジー的近代化論と、「90年代以降のスウェーデンの環境政策」の背景にある考え方は、同じものなのでしょうか。スウェーデンでは、「環境と経済の統合」を、単に経済成長の一手段として位置づけているのではありません。

上図に示したように、スウェーデンでは環境を福祉国家の基盤として位置づけ、96年9月17日のぺーション首相の施政方針演説によって、20世紀の「福祉国家」を21世紀の「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」に転換しようとしているのです。詳しくは同時進行している市民連続講座「スウェーデンの挑戦 緑の福祉国家」を参照下さい。


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エコロジー的近代化論の問題点 

2007-03-15 20:56:33 | 持続可能な開発・社会/バックキャスト


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エコロジー的近代化論は「環境問題が市場システム社会により構造的に生み出される問題であること」は認めるものの、経済・社会・政治などの制度や技術開発のあり方を根本的に見直すことはせず、経済拡大を前提とした現行制度の改善や技術開発によって「市場システムをより環境に配慮したものにすること」をめざすものです。この考えには、2つの大きな問題があります。

市場経済システムのもとで、生産・消費・余暇などの活動を広げれば、環境を構成している「生態系」に負荷がかかります。1月19日のブログ「環境への人為的負荷」に書きましたようにその負荷が、私たちが生きるために行なう「ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、食物をとる」、つまり汚染された大気や水・土壌・食品を取り込む行動を介して、「人体への負荷」という形に収斂されるのです。

環境が許容限度ぎりぎりの状態に達しているいま、経済活動がさらに拡大した場合、先進工業国は財政的にも技術的にも環境問題の影響を最小限にとどめることができますが、工業化が遅れている国々は必要以上の影響を受けてしまいます。

これは「現世代内の不公平さ」が生じたことであり、この問題を指摘したのが「世代内公平」という考えです。1987年に提唱されたWCEDの「持続可能な開発」の考え方には、「将来世代の公平」とともに、「現世代内の公平」の考え方が含まれ、重視されていました。

エコロジー的近代化論は「20世紀の経済・産業論よりも企業の生産部門で環境に配慮している」という点ではたしかに大きな前進ですが、「消費活動の環境への配慮」が不十分なため、経済成長が「生態系」や「生態系に及ぼす蓄積的な影響」を、基本的には無視しています。  

この考え方でつくられる経済政策の背景には、さらなる経済成長を正当化するために「環境への配慮を利用する」というイデオロギー的要素が含まれているからです。 


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エコロジー的近代化論(環境近代化論)

2007-03-14 07:14:22 | 持続可能な開発・社会/バックキャスト


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これまでの話から、現在の市場経済システムが「資源・エネルギーの制約」と「廃棄物処理問題」によって、遠くない将来、行き詰まる可能性が高いことを、わかっていただけたと思います。現行経済の拡大方向に将来がないのであれば、新しい経済成長の道を考えなければなりません。

日本が「経済の復興」に死にものぐるいになっていた第2次世界大戦後、ヨーロッパの先進諸国は、戦後の経済再建が完了した時点で、「福祉国家の建設」を政治目標に掲げるようになりました。そして20世紀後半になって環境問題が顕在化してくると、福祉国家(人を大切にする社会)を超えた「持続可能な社会」(人と環境を大切にする社会)の実現を模索しはじめました。
 
国連の「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」が1987年に提唱した「持続可能な開発(Sustainable Development)」という概念は、そうした動きのなかから生み出された代表的な考え方です。経済のグローバル化が進展し、地球上のさまざまな地域が「開発」に対して一様ではない思惑を持つなかで、国連の「持続可能な開発」という概念は地球温暖化に代表される環境問題の表面化とあいまって国際的に議論され、さまざまな解釈を生み出しました。
 
そのなかでも、 「エコロジー的近代化論(環境近代化論:Ecological Modernization)」は、「環境」「経済」の統合(調和、両立などの表現もある)の必要性を模索する国際的な議論のなかで、ドイツのヨゼフ・フーバーによって80年代中頃に提唱され、マルティン・イェニッケらによって広められた考えで、「持続可能な開発」の主流の解釈として、90年代初め頃から日本でも知られるようになりました。その結果、ドイツ詣でが始まり、90年代の「環境白書」にもドイツの環境活動の動きが取り上げられたのです。
 
この考えは、たいした議論も批判もなく日本の社会に受け入れられ、定着してしまったように見えます。 


でも、よく考えてみてください。私の環境論(2月12日のブログ) のように、初めから「環境」と「経済」を一体化して考えていれば、「環境と経済の統合」という考え方はあり得ないはずです。20世紀には「環境」と「経済」は別ものと考えられていたからこそ、20世紀後半になって深刻化した環境問題を前に、両者の統合の必要性が認識されるようになったのではないでしょうか。 








 廃棄物に悩む「超輸入大国」日本

2007-03-13 08:46:06 | 廃棄物


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日本で生産活動を続けるには、原材料のおよそ40%とエネルギーの90%以上をつねに海外から輸入しなければならないことは、昨日のブログでお話したとおりです。
 
下の図は平成17年版「循環型社会白書」に掲載されている「日本の物質フロー」(平成14年度)です。

この図には次のような解説つけられています。

我が国の物質フロー(平成14年度)を概観すると、20.7億tの総物質投入量があり、その半分程度の10.4億tが建物や社会インフラなどの形で蓄積されています。また1.4億tが製品等の形で輸出され、4.1億tがエネルギー消費、5.8億tが廃棄物等という形態で環境中に排出されています。循環利用されるのは2.1億tです。これは、総物質投入量の1割に過ぎません。廃棄物・リサイクル問題、地球温暖化問題が我が国社会の構造的・根本的な問題であることが見てとれます。  

この図とその解説から「日本の循環型社会」の概念が、国際社会で語られる「持続可能な社会」の概念とはまったく非なるものであることがご理解いただけるでしょう。循環型白書の内容を見れば、日本の循環型社会という概念は小泉政権が掲げ、安倍政権が引き継いでいる「持続的な経済成長」という政策目標のもとでの「廃棄物対策」にすぎないことが明らかです。

この図から想像できますように、国外から投入された輸入資源は国内で廃棄物、製品、構造物となるのです。そして、スウェーデンの「今日の製品は明日の廃棄物」の標語のとおり、製品は国内で消費され、やがて廃棄物となり、構造物も一定の期間を経て廃棄物化することは、いくら経済学者やエコノミストでも否定できないでしょう。
 
さらにいえば、日本は海外から資源として7.1億トン輸入するために、およそ25億トン強の捨て石、土壌浸食)など海外で環境破壊を続けているのです。 

また、10年前の古い話で恐縮ですが、田口正己さん(立正大学教授)の調査によれば、1997年時点で、日本全国で約950件の廃棄物処分場に関する紛争が発生しており、そのうち、民間の産業廃棄物処分場が約600件を占めているそうです(朝日新聞1998年1月25日付)。

この10年間に、解決されたものあるでしょうが、新たな紛争やトラブルも起こっています。現状はどうなっているのでしょうか。

これらのことから、地球的規模の生産活動の拡大の最大の制約要因は水資源だと思いますが、日本の生産活動の最大の制約要因廃棄物(産業廃棄物+一般廃棄物)だと思います。


「環境問題」こそ、安全保障の中心課題に位置づけられる

2007-03-12 07:29:22 | 環境問題総論/経済的手法


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地球的規模での「経済活動の拡大の可能性」がきわめて低いとすると、21世紀前半の「持続的経済成長」をめざす「超輸入大国」日本の経済活動にも大きな影響が出てきそうです。日本は経済活動を支えるために「原材料」のおよそ40%と「エネルギー」の90%以上を海外に依存し、その経済活動から排出される廃棄物の大部分を国内に蓄積し、その一部を海洋投棄しています。最近は、海外にも廃棄物を輸出しています。
 
日本の経済成長が、資源やエネルギーの面で、途上国との「協力」と「競合」の上に成り立っていることを、あらためて認識する必要があります。 「資源・エネルギーの流れ」の視点に立てば、日本が「超輸入大国」であることは明らかですし、「経済」と「環境」が切り離せないことも、理解しやすいと思います。
 
しかし、「金の流れ」という視点で社会の動きを見ている経済学者やエコノミストにとっては、日本は「輸出大国」と考えるほうが普通なのかもしれません。この場合には、「経済」と「環境」は、これまで通り、切り離して考えてもほとんど不都合は生じないのでしょう。
 
たとえば、マスメディアにもしばしば登場する草野厚さん(慶應義塾大学総合政策学部教授)は、『「強い日本」の創り方――経済・社会大改革の海図』(竹中平蔵+東京財団・政策ビジョン21、PHP研究所、2001年)で、「案外忘れられがちだが、日本は輸出立国である。自国で生産したものを輸出することで、経済が成り立っている部分が大きい。今後も輸出立国で生きていくためには、輸出先にも経済成長をしてもらわなければならない」と述べています。

このことは、日本の経済成長や景気回復などが現在、米国や中国の経済成長に依存しており、将来は米国やBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)の経済成長に依存することを示唆するものです。

草野さんの解説は経済学的視点(お金の流れ)でみれば、まことにごもっともで論理的で納得のいくものです。しかし、実際に経済活動を支えている「自然科学的視点(資源・エネルギーの流れ)」に立って、「経済成長」と「資源・エネルギー消費」の強い相関関係がある現実の産業経済システムを直視すれば、昨日のブログで明らかにした「有限な地球上でのさらなる経済成長」は可能性が低いばかりでなく、私たち人間の生存にとってますますリスクが高まることを示唆しているのではないでしょうか。

21世紀前半の経済論、技術論は「資源・エネルギーの流れ」に基づいて展開されなければなりません。

20世紀の安全保障の議論は「軍事的側面」に特化されていました。しかし、21世紀の安全保障の概念は「軍事的側面」だけではなく、さらに広く「経済活動から必然的に生じる環境的側面」へと発展していかなければなりません。1月3日のブログ「戦後62年 立ち止まって考えてみよう」に書いたように、 その象徴的存在が「気候変動(地球温暖化)」なのです。

「新しい経済発展の道」をめざして  

2007-03-11 07:54:49 | 市民連続講座:環境問題


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生産活動の制約要因のなかで最も強く緊急性を要する要因は、地球的規模では、おそらく「水資源(淡水)」でしょう。 

国連は2003年3月5日、国連初の水の包括的な報告書「世界水開発報告書」を発表しました。報告書は最悪の場合、2050年には約89億人の推定人口のうち70億人が深刻な水不足に直面する、と指摘しています。



また、2000年に入りますと、次の図に示しますように、「バーチャル・ウォーター(仮想水)」という概念が提案されるようになりました。




いずれにしても淡水は、人間の生命や経済活動に必須の資源でありながら、エネルギーや金属、食料などのほかの資源と違って、用途において代替不可能だからです。水資源は国内外を問わず、将来の経済活動拡大の最大の制約因子になることは間違いありません。

「地球が物質的に閉鎖系である」という事実「生産にかかわる4つの制約条件」と、下図に掲げた「生産にかかわる4つの制約条件」を総合的に考えれば、きわめて大雑把ではありますが、「2050年まで現行経済の持続的成長を続けることができる可能性はきわめて低い」と結論づけられるのではないでしょうか。



1月12日のブログで紹介した2001年10月に公表された国際自然保護連合の「国家の持続可能性」に関する報告では、世界180カ国のうち、現時点(2001年)でさえ「持続可能な社会」はないとのことです。

経済活動の量的拡大、すなわち「現行経済の拡大の方向に将来はない」のであれば、これまでの経済成長を抑制する方向で「新しい経済発展」の道を考えなければなりません。





生産条件 資源からの制約

2007-03-10 14:01:49 | 市民連続講座:環境問題


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昨日のブログで、
   とりあえず参考資料として、世界の主要金属や世界のエネルギー資源確認埋蔵量と 
   可採年数が参考資料として重要です。可採年数とは、ある年の年末の確認可採埋
   蔵量をその年の年間生産量で割った数字であらわされ、地下資源の有限性を示す目
   安の一つとなっています。
と書きました。

最新の情報が手元にそろっていれば見栄えがよいのですが、無いよりもましということで、最新の情報と少々古くなった情報を参考に掲げておきます。重要なことは情報そのものの新旧ではなく、考え方の問題だからです。


★資源・エネルギーに関する情報





★水に関する情報

現在の地球が保有する水の総量は約14億キロ立方メートルと見積もられており、海水が97.5%を占め、地球表面の約2/3を覆っているといわれています。通常、海水と水蒸気を除く「雪氷、地下水、河川水など」を陸水と呼び、陸水の占める割合は水の総量の約2.5%です。



この陸水の大部分(1.75%)を両極の氷河が占めるため、残りの0.75%が地下水、湖沼水、河川水などに相当します。このうち人間が利用できる淡水は、浅層地下水、湖沼水、河川水などに限られ、地球上の総水量のわずか0.04%(下の朝日新聞の図では0.01%となっています)にすぎません。

こんなわずかな水量で人間をはじめ多くの生物が生命を維持できるのは「水の循環」という巧妙なからくりが自然界にあるからです。



★廃棄物に関する情報



しかし、本当のところは神のみぞ知る、ですいずれの資源もその主なものは、現在の知識では、2050年までになんらかの限界が明らかになりそうな状況を示しています。これらの予測値や推定値についてはさまざまな専門機関で公表されていますので、最新のものを参照してください。

最後に、もう一度繰り返します。

重要なことは「生産活動」は地球規模であれ、国レベルであれ、企業レベルであれ、個人レベルであれ、最も少ない要素に縛られるということです。  





 再び「現行の経済成長」は50年後も可能か? 

2007-03-09 21:10:34 | 市民連続講座:環境問題


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さて、「社会的合意形成」の話が10回ほど続きましたので、今日からしばらく離れていたカテゴリー「市民連続講座:環境問題」に戻ります。

2月25日のブログで、モノの生産には、労働力のほかに、生産工程に「原材料」、「エネルギー」、「水」などの資源の供給(インプット)が必要で、生産工程からはかならず、「製品」とともに、「廃棄物(固形廃棄物、排ガス、排水)」および「廃熱」が排出(アウトプット)されることを学びました。
 
そして、重要なことはたとえば、エネルギーが十分あっても、その他の条件が一つでも量的あるいは質的に有意に満たされなくなれば、生産活動ができなくなるということ、つまり、生産活動は供給資源(原材料、エネルギー、水)と廃棄物の処分能力のうち、最も少ない条件に縛られることになるということでした。

それでは、これらの生産条件の現状と将来を地球規模で調べてみましょう。



この図で明らかなことは、中央の「経済活動」を行うのに「インプット」が必要であり、その結果必ず「アウトプット」があるということです。ですから、中央の「経済活動の拡大」(その総和が国レベルでは「GDPの成長」という指標で表現される)を求めれば、既存の経済・産業システムへの「インプット」を高めることになり、「アウトプット」も高まるのは当然といえるでしょう。

このアウトプットの蓄積が「環境への人為的負荷」であり、環境問題の原因です。それ故、「経済活動の拡大(GDPの成長)」は資源やエネルギーのインプット量)に制約されると同時に、廃棄物のアウトプット量に制約されることになるのです。

そして、20世紀後半に自然科学が明らかにしたことは、現行の産業経済システムで利用可能な資源やエネルギーの量(資源やエネルギーの減耗、最近のピークオイルという概念など)に限界が見えて来たこと、環境の許容限度にも限界が見えてきたこと、つまり、

 「インプット」「アウトプット」も限界点に近づいてきたこと、ある部分ではその限界点を越えていることです。

とりあえず参考資料として、世界の主要金属や世界のエネルギー資源確認埋蔵量と可採年数が参考データとして重要です。可採年数とは、ある年の年末の確認可採埋蔵量をその年の年間生産量で割った数字であらわされ、地下資源の有限性を示す目安の一つとなっています。

しかし、本当のところは神のみぞ知る、です。いずれの資源もその主なものは、現在の知識では、2050年までになんらかの限界が明らかになりそうな状況を示しています。これらの予測値や推定値についてはいくつか公表されたものがありますので、最新のものを参照してください。