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私の講演会で、企業の部課長クラスの参加者から必ず出てくるコメントや反応があります。それは「おまえのいうことは、個人として、あるいは一技術者としてはよくわかるが、企業としてはできない」というものです。
こんな例もあります。ある研究会での私の講演のあとに行なわれた質疑応答で、当時の都庁の産業政策部長は、「客観的に見るならば、『エネルギー制約』あるいは『環境制約』が非常に大きいので、経済活動を縮小せざるを得ないと思います。ただ、縮みの経済学、縮みの政治学、縮みの文化というものを、ぼくたちはつくりだしていない。この数年間で、非常に大きな制約があることがわかってきて、このままではダメだということをほとんどの人たちがすでに合意していると思います。
政府や自治体は全然違うことをやっていますけれど・・・・・」と発言しました。
行政にも企業と同じく、「わかっているけれども、行動は別」という根本的な大問題があることを示す貴重な発言です。
私の主張を現在の日本で実行することが、むずかしいのはよくわかります。でも、これほど矛盾した反応があるでしょうか。「企業の技術者としては、個人的にことの重大さはわかっていても、目の前の生活防衛のために、自分の属している組織の拡大のために全力を尽くす」、つまり、「前方が断崖絶壁であることが一技術者として理性的にわかっていても、乗り合わせたバスのなかで声を上げられない」という状況が、自分や自分の家族の将来、自分の属する企業や組織の将来活動を危うくすることだ、ということがなぜわからないのでしょうか。
このような議論が起こるのは、「個人」と「組織」との間に根本的な違いがあるからです。個人は人間ですが、個々の人間からなる組織(企業はその代表的なもの)は、人間ではないということです。個人は自分の「目的とする行為」がどの程度達成できるかということと、その行為が周囲にどのような影響(目的外の結果)を及ぼすかを、程度の差こそあれ、必ず考慮し、配慮します。ところが、組織は特定の目的を達成するためにつくられたものですから、「目的とする結果」にのみ関心を示し、「目的外の結果」を考慮しません。
個人的行為の場合は、動機と目的が直接結びついていますが、組織的行為の場合は組織の目的と個人的動機は、多くの場合、同じではありません。組織的行為は独立した個人によって支えられていますが、行為の主体は個人ではないからです。組織の本質は「維持・継続」です。ですから、組織にとっては、「組織の維持・継続」にプラスかマイナスかが、決定的に重要な判断基準となるのです。
したがって、「目的外の結果」は、ひたすら組織の維持・存続にとってプラスかマイナスかで評価されることにならざるを得ないのです。組織にとってプラスであれば積極的に、マイナスであれば可能なかぎり無視し、視野の外に置き、対応を余儀なくされたときに初めて対応することになります。このことは、「組織」をその代表である「企業」や「行政」と置き換えて考えてみるとわかりやすくなるでしょう。前にもふれたように、環境問題は人間活動の代表的な「目的外の結果の蓄積」なのです。
私も、崖に向かうバスに乗車しており結末がわかっている方悲鳴を上げている一人なので、声を上げない人の考えが本当のところどういう状態なのかよくわかりません。
一つ思い浮かぶのは、一年後の命より、明日の命という選択をしているのか、と思います。
しかしながら、本当のところ日本に生きていれば食えるか食えないかで命の心配をすることは大多数の人はないと思うのですが。
だけど、それが出来ていないということは、想像力の欠如なのか、なんなのか。。。
後は、危機感を感じても声の出し方、バスの止め方下車の仕方をしらなかったり、また下車しようとしても扉がなかったりする状況もあるのではと思います。
環境問題に真剣に取り組む政党がない、選ぶ対象がない状態なのかもしれません。
まぁ、だけど、悲鳴は上げられるわけですが。
最近、あまり聞かなくなったような言葉に「南北問題」があります。豊かな北の国が、貧しい南の国の資源や○○を収奪し・・・・・・というやつです。一年後の命よりも明日の命ということは、日本の政府や企業は日本はいわゆる南の国だと意識しているのなら、そのように理解もできます。
私は「想像力の欠如」もさることながら、「論理的思考の欠如」だと思います。
21世紀のキーワードである「持続可能な開発」という概念を提唱した国連の環境と開発に関する世界委員会の設立に貢献したのは(特に財政的に貢献したのは)日本です。
持続可能な開発とは「将来の世代の欲求を充たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発をいう」と定義されています。ということは将来世代の
のことも考えて、現世代の行動を決めていこうということです。ですから、「持続可能」という連続性を示唆する形容詞が開発の前についているのです。
日本では「持続可能な開発」は、経済の持続可能な開発、経済の持続的可能な発展、経済の持続可能な成長
と理解されているようです。小泉・安倍路線ははっきりと「持続的な経済成長」を21世紀のビジョンとして掲げているのはご承知ですね。
日本政府が環境問題の本質を図示しながら、その意味するところを理解していないことがわかるでしょう。
こういう論理が環境省という国家の一組織がだしているのに、何故に内閣は「経済の持続的な拡大」ということを何のフォロー無しに言えるのでしょうか。不思議です。
環境省の論理と政府の言っていることをあわせると
「持続的な生態系破壊と健康被害の拡大」と言うことになると思うのですが、少々乱暴な論理の合体ですが、そういうことだと思うのですがね。
「公害」と「環境問題」を同義語と考えている認識
の低さの問題でしょう。
この方向性を認めれば、行政レベルでは、問題なのは環境省よりも経産省でしょう。日本の政治家、企業のトップマネジメントの認識です。さらに言えば、環境に関心をもつ市民がこのことを理解できているかどうかだと思います。