環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

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私の環境論3 矮小化された「日本の環境問題」

2007-01-13 06:45:07 | 市民連続講座:環境問題


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どういうわけか、日本の環境問題、エネルギー問題、経済問題に関する議論や資料のなかには、「人間の生活(国民の暮らし)」や「人間の命」の視点がないように思えます。

環境問題に対処するため、現実に実行されている対策は、あまりに個別的かつ古い価値観に引きずられていて、問題を抜本的に解決することができるとは思えません。私たちは「不安でいっぱいだが危機感は薄い」というきわめて特異な社会的心理構造のもとで、 「経済成長」や「景気回復」のために日々努力していることに、気づいてほしいと思います。
 
ではなぜ、私たちはこんなにも絶望的な状況下にもかかわらず、あまり危機感を抱かずにいられるのでしょう。その背景を、少し分析してみたいと思います。

日本の環境問題のルーツ
日本の環境問題のルーツは公害なので、環境問題への対処においては、大量生産・大量消費・大量廃棄の結果生じた汚染物資の排出量や騒音・振動・地盤沈下などを、1967年の「公害対策基本法」に基づいて、「技術」によって基準値以下に抑える、いわゆる「エンド・オブ・パイプ・テクノロジー」(終末処理技術)と呼ばれる手法をとってきました。

 1993年に成立した「環境基本法」に置き換えられるまでの、25年におよぶ「公害対策基本法」の運用によって、政府、企業そして市民の環境問題に対する意識は「公害対策」の域を出ず、環境問題の概念を矮小化したまま、時代の求めに応じてためらうことなく「公害」を「環境」という言葉に置き換えてしまったのです。
 
環境について議論するときにしばしば口にされる言葉に、「地球環境問題」があります。この言葉はじつは、1988年に日本の行政機関が、環境行政上の枠組みとして、「環境問題の現象面に着目して設定した問題群」で、日本独自の概念です。
「地球環境問題」と称される事象は、これまでの人間の経済活動の拡大から生じた人為的な問題です。
 
環境問題はなぜ恐ろしいか
「赤信号、みんなで渡れば怖くない!」というビートたけし(北野たけし)さんの名文句があります。交通信号は、人間社会の交通秩序を保つために、人間がつくったルールです。信号無視はルール違反ではありますが、「車の運転者」と「道路を横断する人」の間に、「人間の命が大切」という共通認識が存在しているかぎりは、この名文句は正しいと思います。
 
けれども、環境問題は、「自然」と「人間」との間で起こっている問題です。環境問題は「人間による自然法則の違反」です。自然法則は人間が発見したルールではありますが、人間がつくったルールではありません。ですから、「自然」と「人間」の間には、「人間の命が大切」という人間社会の共通認識(暗黙の了解)は存在しないのです。
 
人間のつくったルールはいつでも自由に変えることができますが、自然法則は変えることができません。環境問題は「人間社会では普遍性がきわめて高いビートたけしさんの名文句」もおよばない、私たち人間にとってたいへん恐ろしい問題なのです。

バックキャストするスウェーデンは、人間がつくった仕組みを自然法則に合わせて変えていこうとしています。フォアキャストする日本は、技術で自然法則に挑戦しようとしているように見えます。この対照的な相違は、「環境問題に対する基本認識の相違」と「環境問題の社会的な位置づけの相違」に、すべての根源があります。

「地球にやさしい」という言葉
日本の行政資料にも、マスメディアにも、そして、市民のブログや日常会話にも「地球にやさしい」という言葉があふれています。なぜ、この言葉が好んで使われるのかよくわかりませんが、私の知るかぎりでは、「地球にやさしい」という言葉は、平成2年(1990年)度の環境白書の総説の副題として「地球にやさしい足元からの行動に向けて」という表現で登場したのが最初であり、この環境白書の公表を報じたジャーナリズムがこの言葉を繰り返し使い、企業や自治体が多用することにより広まり、社会に定着してしまったと考えられます。

私自身はこの言葉はあまり適切ではないと思います。なぜなら、地球そのものは私たち人間がやさしくしようがしまいが、自然法則に従って存在するだけだからです

大切なことは、「地球にやさしい」かどうかではなくて、日常会話の言葉で言えば、そこに住む「人間にやさしい」かどうかです。ただ、現実問題として「人間だけにやさしい」ということはあり得ませんから、「人間を含めた生態系にやさしい」、つまり、日常的な市民生活の中では「環境にやさしい」という言葉のほうが適切だと思います。「環境にやさしい」ということは環境への負荷を増大させないということです。

「地球にやさしい」「共生」などの心地よい響きをもったキャッチ・フレーズは、「地球環境問題」という日本的概念を社会に定着させ、みごとなまでに環境問題に対する危機感を薄めてしまった感があります。あたかも、 一人一人ができることから始める」ことによって、環境問題が解決するかのような幻想を与える言葉ではありませんか。

政府も自治体も、従来の「公害」という概念に代わって新しく登場させたこの「日本的概念」の普及に、90年代の10年間、精力的な啓発活動を続けてきました。ジャーナリズムも、経済界も、企業も、学者も、そして多くの市民運動家までもが、この流れにのみ込まれてしまっています。
 
しかし、問題の本質はまったく別のところにあります。それが何であるのか、次回から順番を追って、私の考えをお伝えしていこうと思います。

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