環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

「経済」 「社会」(福祉) 「環境」、不安の根っこは同じだ!

「将来不安」の解消こそ、政治の最大のターゲットだ

改めて、環境問題の解決とは?

2012-01-10 20:27:05 | 環境問題総論/経済的手法
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 私の環境論では、環境問題と経済の関係は、1月5日のブログで明らかにしましたように、20世紀後半に顕在化した「環境問題の大半」は、私たちが豊かになるという目的を達成するために行った「企業の生産活動」と「企業と市民の消費活動」があいまってつくりだした経済活動の「目的外の結果」が蓄積したものであると考えています。このことは、このブログでも何回も引き合いに出した次の図からも疑う余地はまったくないでしょう。


 ですから、環境問題解決のための具体的な行動は、自然科学が明らかにした「有限な地球という制約」の下で、経済の拡大を大前提として、顕在化した「個々の環境問題の現象面」に一つずつ対応するのではなく、経済的にみれば「経済規模の拡大から適正化」への経済の拡大を前提に大転換であり、社会的には20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量を出来るだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。

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私の環境論18 環境問題の解決とは(2007-02-01)


 21世紀に私たちが「経済の適正規模」を模索しなければならないのは、「資源・エネルギーの不足や枯渇によって経済活動が制約されるから」(20世紀型発想による懸念)ではなく、「20世紀の経済活動の拡大により環境に蓄積された環境負荷(温室効果ガスやオゾン層破壊物質の放出、廃棄物など)と、21世紀の経済活動にともなう環境負荷の総和が環境の許容限度や人間の許容限度に近づくことによって経済活動が制約されるから」(21紀型発想による懸念)なのです。

 従って、 環境問題に対する最も重要な判断基準は 「社会全体のエネルギー消費量を削減するか、増加させるか」ということになります。

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判断基準を変えれば、別のシーンが見えてくる!(2007-10-10)   

同じ情報を与えられても解釈は異なることがある(2007-10-11)
  
環境問題:私の基本認識と判断基準①(2007-10-12)
  
環境問題:私の基本認識と判断基準②(2010-13)   

武田さんの「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」と槌田さんの「環境保護運動はどこが間違っているか」(2007-10-14)  



●「出来るところから始めること」の危うさ

 日本の私たちがいま為すべきことは、 経済拡大を目的とした古い考えや社会制度をそのままにして 「身近なところ(こと)から始める」「できるところ(こと)から始める」ではなく、 「現状をよく知ること」です。「対処すべき問題の規模の大きさ」と「残された時間の少なさ」を考えると、1988年以降、日本政府が意図的に行ってきた環境政策の結果、日本社会に蔓延してしまった「この種の日本的な発想」は問題の解決をいっそう難しくすることになるでしょう。

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「出来ること(ところ)から始めること」の危険性①(2007-09-08)
  
「出来ること(ところ)から始めること」の危険性②(2007-09-09)   

「出来ること(ところ)から始めること」の危険性③(2007-09-10)
    

改めて、環境問題とは

2012-01-05 18:49:06 | 環境問題総論/経済的手法
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 人類の歴史は常に、「規模の拡大」の歴史でした。「経済成長(発展)」という概念は、自由主義者や新自由主義者、保守主義者、民族主義者、ファシスト、ナチ、レーニン主義者、スターリン主義者など、イデオロギーにかかわりなく、「共通認識」として共有していた考えで、その必要性については、イデオロギー間に全く意見の相違はありませんでした。つまり、20世紀には「経済成長(発展)」は疑問の余地がないほど当然視されていたのです。

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環境問題に対する日本の議論の推移(2007-08-05)

私の環境論16 環境問題への対応、輸入概念でよいのか!(2007-01-26)



「私の環境論」では、経済と環境の関係を次のように捉えています。

私たちが行動すると、その目的が達せられようとされまいと、必ず「目的外の結果」が生ずることになる。20世紀後半に顕在化した「環境問題の大半」は、私たちが豊かになるという目的を達成するために行った「企業の生産活動」と「企業と市民の消費活動」があいまってつくりだした経済活動の「目的外の結果」が蓄積したものである。


 ですから、経済活動が大きくなれば「目的外の結果」も比例的に、あるいはそれ以上に大きくなります。つまり、 「経済」「環境」 は切っても切れない関係にある、分かり易くいえば、「コインの裏表」と表現してもよいでしょう。

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環境問題のまとめ ①環境問題とは(2007-12-21)

環境問題のまとめ ②生態系の劣化(2007-12-22) 
 
環境問題のまとめ ③人間の生存条件の劣化(2007-12-23) 

環境問題のまとめ ④企業の生産条件の劣化(2007-12-24) 


 経済学者/エコノミストや社会科学者の多くはコインの表である“金の流れ” で社会の動きを評価し、判断していますし、環境論者はややもすると“環境問題の現象面”に注目し、その解説に精力を注いでいます。けれども、もっと大切なことは「21世紀の経済はコインの裏である“資源/エネルギー/環境問題”で考えるべきだ」というのが私の環境論の基本的な主張です。

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私の環境論 「経済危機と環境問題」⑪ とりあえずのまとめ(2008-11-29)


 20世紀の安全保障の議論は「軍事的側面」に特化されていましたが、21世紀の安全保障の概念は軍事的側面だけでなく、さらに広く「グローバルな経済活動から必然的に生じる環境的側面」へと展開していかなければならなりません。戦争やテロ活動がなくなり、世界に真の平和が訪れたとしても、私たちがいま直面している「環境問題」に終わりはないからです。その象徴的存在が「気候変動問題」といえるでしょう。

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「環境問題」こそ、安全保障の中心課題に位置づけられる(2007-03-12)

地球的規模の環境問題に正面から対応出来ない 「自然科学」 と 「社会科学」

2010-09-09 12:18:43 | 環境問題総論/経済的手法
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これまでにもくり返し書いてきましたように、「私の環境論」他の多くの日本の環境分野の専門家や活動家の議論と異なるのは「環境問題」と「経済(活動)」を最初から関連づけて考えていること、そして、環境問題の解決のためには「民主主義の考え方」と「その実践」が必須なこと、具体的には環境問題の解決は、従来の公害とは違って技術的な対応だけでは不十分で、経済社会の制度の変革をともなうこと、21世紀に主な環境問題を解決した「エコロジカルに持続可能な社会」の創造のためには、さまざまな「政策」とそれらの政策を実現するための「予算措置」が必要なこと、つまり、環境問題の解決に当たって、「技術の変革」と「政治と行政のかかわり」を強く意識していることです。

20世紀の安全保障の議論は「軍事的側面」に特化されていましたが、21世紀の安全保障の概念は軍事的側面だけでなく、さらに広く「経済活動から必然的に生じる環境的側面」へと展開していかなければなりません。戦争やテロがなくなり、世界に真の平和が訪れたとしても私たちがいま直面している環境問題に終わりはないからです。その象徴的存在が「気候変動問題」であり、「生物多様性の保全問題」と言えるでしょう。

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古くて、新しい問題、「環境問題」をもう一度考える(2010-01-18)


20世紀の経済成長の本質は資源・エネルギーの消費拡大でした。21世紀の経済成長は資源・エネルギーの消費を抑えて達成しなければなりません。

自然科学は私たちが直面している環境問題の現象面を分析し、理解するのに役立ちますが、環境問題の主な原因が「人間の経済活動の拡大」であることを考えますと、環境問題の解決には「人間社会」を研究対象とする社会科学からの総合的なアプローチ(法体系や制度などのソフトな変革など)が強く求められます。

これまでの自然科学は、多くの場合、人間を除いて問題を考えてきました。環境問題とのかかわりが深い生態系の説明(最近の状況は分かりませんが)では、たとえば次の図のように、人間の存在が抜けており、自然を「人間社会の外側」に置く傾向がありました。


このような傾向に対して、3年前に初めてお目にかかった名城大学大学院総合技術研究科教授の垣谷俊昭さんは、名城大学人文紀要(第42巻2号、2006年)に寄稿された論文「地球環境問題と文明と人間のこころ」の中で、現在の地球規模の環境問題を考えるときにとてもわかりやすく、そして、私にとっては新鮮な「現在の生態分布の模式図」を掲げておられます。


生態系の最上位に位置する人間の置かれた状況を表現する逆三角形(生態学の法則に違反し、ライオンより圧倒的に多い個体数など)の不安定感とその解説が「地球規模の環境問題の深刻さ」を視覚的にも科学的にも巧みに表現されています。





一方、社会科学の分野でも、特に経済学は「外部不経済の内部化」という言葉に象徴されますように、人間社会の外側にある「自然」を研究対象とせず、しかも、その判断基準は「お金の流れ」であり、お金に換算できないことは無視してきました。


このように少なくとも20世紀の「自然科学」も「社会科学」も、そして、21世紀に入って10年が経過した現在でも、自然科学や社会科学は私のブログのテーマである21世紀の「共通の根っこである私たちの不安(経済、福祉、環境などの不安)」に正面から対応できないのが現状です。

このような現実から、次の関連記事が示唆するように、世界の経済学者や社会科学系の学者や著名人のほとんどが「経済危機」は語れても、同時に「環境問題」を語ることができないのだと思います。

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私の環境論 「経済危機と環境問題」① 岩井克人・東大経済学部教授(2008-10-17)

私の環境論 「経済危機と環境問題」⑪ とりあえずのまとめ(2008-11-29)

環境問題を忘れた「早急な金融危機の解決策」は、更なる「大危機」を招く?(2008-12-13)

「成長論」しか言えない経済学界(2007-02-14)


また、著名なエコノミスト、イェスパー・コールさんは、およそ10年前、月刊誌『論争』(東洋経済新報社 1999年11月号)で、エコノミストについて、次のように述べています。

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エコノミストは将来を予測できるという思い込みは、20世紀末における最大の神話の一つといってよい。たしかに金融がここまで自由化され、世界中のメディアが情報を探し求めているとき、エコノミストやその仲間であるアナリストのコメントが需要されつづけるのは不思議なことではない。しかし、これだけは肝に銘じておこう。

昨日の予想がなぜ今日はずれたかを、明日説明できる者--これがエコノミストの正確な定義である。

エコノミストは、一国の経済動向や成長の原因を後から検証することはできる。しかし、何が景気回復や冨の拡大の引き金になるかを予測することは、彼らにとってもともと不可能なことである。
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イェスパー・コールさんの「エコノミストの定義」「エコノミストは将来を予測できるという思い込みは20世紀末における最大の神話の一つといってよい」いうメッセージは、私のエコノミストに対する認識を見事に表現して下さっています。翻って考えれば、私たち一般人の「経済の基礎知識」の形成に大きな役割を果たしているマスメディアは「エコノミストは将来を予測できる」という前提で日々、大量のフローの情報を流し続けていることになります。

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「エコノミストはもともと将来を予測できない」、とエコノミストが言う(2009-03-23)



私たちが長年にわたって築き上げてきた「自然科学」や「社会科学」の現状が「21世紀の新しい社会づくり」の基礎知識として十分でなく、エコノミストがもともと将来を予測できない状況下では、私たちは賢明な政治的リーダーの下に、不十分ではありますが自然科学と社会科学の知識を総動員して 「現実の政治と政策」で現状を変え、未来に希望を見いだせる「エコロジカルに持続可能な社会」を創造することが「不安の解消」につながるはずです。 

とはいえ、日本の政治状況は日々のマスメディアを通じて私たちが十分認識しているとおり、混乱していますし、政治を支える官僚組織は見事なまでの縦割り組織で、システマティックな対応がまったくできません。
 
ですから、私は「日本の将来像」を議論するときに、国際的に見ても総合的に高い評価を与えられている「スウェーデン」が考えている「21世紀社会の方向性」を十分に検証し、その考え方に合理性があると判断される場合には、 「スウェーデンの考え」を日本の現状から出発して希望が持てる日本の未来を創造する助けとすべきだと思うのです。

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米誌 『ニューズウィーク』 が公表した 「世界のベスト・カントリー 100」(2010-09-05)

EIUの民主主義指標 成熟度が高い民主主義国の1位はスウェーデン(2007-08-18)



「私の環境論」、後期13回の講義を受けると、90%の大学生の考えがこう変わった!

2010-02-08 19:00:16 | 環境問題総論/経済的手法
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 下の図をクリックして下さい。     ゼロ・ウエィストワークショップのご案内      2010年は混乱、大混乱は2030年頃かも?  
                       
 
 

 1月14日のブログ「この10年、ほとんどかわらなかった「環境問題」に対する大学生の基本認識」で、次のように書きました。

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 1月12日は、私が環境論を講じているある大学の2009年後期の試験日でした。回収された答案には、私の13回の講義を受けた受講者224人の「気づき」や「感想」がふんだんに盛り込まれています。答案の内容がどのようなものだったかは別の機会に譲るとして、今日は私の講義を受ける前の「環境問題に対する大学生の基本認識」ついて触れておきましょう。

 環境問題にある程度の関心を持っておられる方々に「環境問題とは何か」と問えば、おそらく、90%以上の方々から「地球温暖化」、「オゾン層の破壊」、「酸性雨」、「大気汚染」、「水質汚濁」、「騒音・振動」、「海洋汚染」、「有害廃棄物の越境移動」、「熱帯林の減少」、「野生生物種の減少」、「砂漠化」、「ごみ・廃棄物問題」などの答えが返ってくるでしょう。

 私はこれまで複数の大学で「環境論」を講じて来ましたが、2000年から毎年講義の初日に、「環境問題という言葉を聞いたときに思い浮かぶことを3つ書きなさい」という質問をしてきました。2009年後期のある大学の受講生は初日の174人から最終的には224人が私の講義を履修することになりました。

 次の図は、授業の初日(2009年9月22日)に大学生174人(1~4年生)から得た回答をまとめたものです。



 私はこの結果に、今更ながら驚きを禁じ得ませんでした。私の期待に反して、1人として「経済活動」との関連を示唆する言葉を挙げた学生が今年もいなかったのです。つまり、このことは2000年の頃の大学生の認識と10年後の学生の認識がほとんど変わっていないことを示しています。この現象は2000年の最初の試みからほぼ10年経った現在でも、学部、学年、性別、学生数などにかかわりなく、同じ傾向が見られます。おそらく社会人の方々の認識もここに示された大学生の認識とほとんど同じなのではないでしょうか。皆さんのお考えはいかがでしたか。
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 今日(2月8日)は、224人の学生が私の13回の講義を受けた後に書いた感想文の中から、典型的な次の4つの感想文を紹介しましょう。

2年 女子
 まず、他では聞けないような環境についての真剣で、切実なお話をありがとうございました。私はこの授業を履修し始めてすぐに、「ああ、この話は環境についての知識教養といったレベルの話ではないな」と感じました。
 今までで一番環境問題についてリアルに、危機感を持って考えることのできた時間だったと思います。私は真の理解には“実感”が必要だと考えています。今まで受けてきた環境問題についての講演や授業は、私に実感を伴った形で環境問題の恐ろしさを教えてくれませんでした。しかし、この環境問題Bという授業は「北極の氷が溶け出している写真」や「森林が伐採されている場面の映像」などは持ち出すこともせずに、私に初めて環境問題とは何たるかを実感とともに教えてくれた授業でした。この点で、私は先生に感謝したいと思います。
 「経済と環境は不可分である」という先生の主張は、初めて出会ったタイプの主張として新鮮な感覚であったと共に、大いに共感、納得できるものでした。先生の話は面白いものでしたが、構造的な欠陥を抱えた日本の未来を思うと、冷や汗がでるような恐ろしいものでありました。「では、私はどうすれば?」と何度も考えさせられました。
 結論はまだ出てきません。しかし、唯一確立された私の考えは、この授業で展開された環境論を、もっと多くの人々に伝えるべきだということです。こういった考えの環境論に初めて触れる人々は、とても多いのではないでしょうか。1人でも多く、実感として日本の危機的状況を理解する人が増えてほしいです。もう時間はなく、のんびりしているヒマはありませんが、まずはそこからだと思います。


4年 男子
 この講義を通して、今まで生きてきた中で養った視点とは異なった視点で環境や経済をみられるようになったと思う。初回の授業から、経済成長はいいものだという私の常識は見事に論破された。地球は閉鎖的な空間で、環境やエネルギーには限界がある。それなのに、環境のことをかえりみずに二酸化炭素を排出し続けたり、有害な化学物質を使い続けたりするのは確かにおかしい。まるで未来のことを考えていない。
 有史以来、人類は急速な成長を遂げてきた。特にこの何世紀かの成長には目を見張るものがあった。しかし、その一方で環境汚染が顕著になりだしたのも近年である。今現在、我々はある程度の豊かさを手に入れた。今後は少し落ちついて、未来のことを考え、環境やエネルギーへの配慮をしていくべきである。そうしなければ、急速な発展を遂げてきた人類は、もしかしたら急速に滅びの路をたどってしまうかもしれない。
 また衝撃を受けたのは、スウェーデンのGDPと二酸化炭素の排出量を示したグラフである。見事なまでのデカップリングを実現していた。日本のそれはカップリングのまま右肩上がりである。経済成長するためには二酸化炭素やそのほかの環境に有害な物質を排出してしまうのはしょうがないことだ、といった私の常識はここでも打ち砕かれた。環境への配慮を持ったままでも成長することはできるのだ。少し方法を変え、この国に住む人の意識が変わればきっと日本も同じことができる、いや、していかなければならないのだと痛感した。
 人は皆、様々な視点を持って生きていて、国家もまたそれと同様だ。スウェーデンのような思想を持った国家はまだ数少ないだろうが、これからの日本を生きていく上で、スウェーデンのような思想、考え方を持つ国がスタンダードになっていくべきだと感じた。
 自分の脳に新しい風を吹き込まれたような有意義な講義でした。短い間でしたが、ありがとうございました。


3年 女子
 私はこの授業を受けるまで、日本は環境分野において先進的だと思っていました。京都議定書の採択は意義あるものであったし、国内でもクールビズやエコポイント制などと環境対策を次々にうちだしているように思えたからです。
 しかし、講義を履修して、思い違いをしていたことが分かりました。環境を国家の生存基盤として考えているスウェーデンと比べ、日本は環境問題を諸問題の一つとして重大には考えていませんでした。また、日本が行っている環境政策はスウェーデンやEUの政策を踏襲したものにすぎませんでした。日本は様々な政策を行っているのですが、政策一つ一つに関連性がないように思います。
 そもそも、日本は環境の位置づけからして明確さがなく、しっかりとしたビジョンを抱いていないと感じました。京都議定書を採択したときに、スウェーデンは「議定書の内容では不十分で、独自政策の展開が必要」という立場だったのに、日本は「議論の出発点」としか考えていませんでした。しかし、そこから具体的に議論が進んでいるようには思えません。それは先にも書いた通り、日本は環境問題を国家の生存基盤であるとみなしていないからだと思います。
 これから日本は持続可能な社会のために、環境問題を社会の基盤としてとらえるべきだと思います。そして、環境についての議論を深めていく必要があります。議論した上で日本としてのビジョンを持ち、対策を進めていってほしいと考えます。また、全てEUやスウェーデンの真似をするということがいいとは思いませんが、化学物質や生態系保全など世界的に遅れていることには、すぐ世界基準に追いつかなくてはならないと思いました。


3年 女子
 この講義を通して、日本がどのように環境問題をとらえているのかを知ることができた。新聞などでは日本は積極的に環境問題に取り組んでいて、環境先進国であると思われていても、実際には他の国と比較してみるとあまり違いはなく、むしろスウェーデンなどの国々からだいぶ遅れをとっていることがわかった。
 日本は積極的に取り組んでいるように見えてもやっているつもりが多く、何か政策を行っても短期的な面でしかみていないために、長期的に見ると負担となってしまうことばかりであった。原子力エネルギーについての考えを見てもヨーロッパの国々と考え方や取り組みに大きな違いがあり、本当に環境のことを考えているのかと思うような内容だった。
 スウェーデンが行っている取り組みを知るにつれて学ぶことの多さに驚いた。スウェーデンは経済活動と環境のことをつながりのあるものだと考え、どの国よりも早く様々な政策を行っていた。それとは逆に日本は、経済活動ばかりに目を向け、環境のことはあまり考えず、政策の面でも、他の国々がやっているからやるというような印象を受けた。また、日本は短期的にしか考えていないために、後になって環境の負担となることが多いため、バックキャスト的な考え方は大切なのだと感じた。これからはこの考え方で日本はどの国を目指していくのかをはっきりさせ、人任せにするのではなく国民全体で考えていく必要があるのではないかと思う。
目指す国をはっきりさせたら、日本に合う方法を考えながら取り入れ、本当の意味で環境に積極的に取り組んでいる国になれたら良いと思う。


 私の環境論に、学生は敏感に反応します。そのことは、履修後に提出された感想文によくあらわれています。この10年間に、私の授業を履修した複数の大学のおよそ3000人の学生の90%以上が反応する共通点は、「環境問題に対する考え方が大きく変わった」というものでした。また、「スウェーデンの考え方と行動を知って、絶望していた日本や世界の将来に希望が持てるようになった」という積極的な感想もありました。
 判断基準や見方を変えれば、「新しい可能性と希望」が生まれることを、学生は私の講義からくみとってくれたようです。

関連記事 
前期試験の答案から①(2007-08-02)

前期試験の答案から②(2007-08-03)

前期試験の答案から③(2007-08-04)







 
 

古くて、新しい問題、「環境問題」をもう一度考える

2010-01-18 23:33:05 | 環境問題総論/経済的手法
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今日は1995年1月17日に発生した「阪神/淡路大震災」から15年、鳩山首相が参加して「阪神・淡路大震災15周年追悼式」が行われました。また、5日前の1月12日にはハイチで大地震が発生しました。

今日のテーマは「環境問題とは何か」です。この古くて、新しい大問題を「2010年の混乱の始まりの年」におさらいしておきましょう。「日本は常に環境問題を矮小化し、経済と環境は別物と考えている」と思うからです。

私の著書『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書792 朝日新聞社 2006年2月)で、私は次のように書きました。

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さて、2005年、日本は戦後60年を迎えました。この節目の年にちょっと立ち止まって日本を、そして世界を考えてみてください。

日本のあちこちで地震、台風、火山の噴火など自然災害が相次いで発生しています。国際社会に目を転ずると、2004年12月26日のスマトラ沖地震によるインド洋大津波や2005年8月29日に米国南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」など、自然災害の報道が多くなっています。戦争やテロ活動はやむきざしがなく、貧困の原因の一つとも指摘されている経済のグローバル化は、さらに急速に進展しています。
 
しかし将来、自然災害の発生をとめることが技術的に可能になったとしても、また、戦争やテロ活動がなくなり世界に真の平和が訪れたとしても、私たちがいま直面している環境問題に終わりはありません。私たちの「経済のあり方」「社会のあり方」が、環境問題の直接の原因だからです。
 
あらためていうまでもありませんが、工業化社会では資源やエネルギーが大量に使用されます。その結果、必然的に生ずるのが、水質汚染、大気汚染、廃棄物などの「環境への人為的負荷」です。そして、その環境への人為的負荷が蓄積し、「環境の許容限度」と「人間の許容限度」に近づくと「環境問題」として表面化し、広く社会に認識されることになります。
 
つまり、環境問題が示唆する本質的な問題は、「それほど遠くない将来、私たちが日常の経済活動から生ずる環境負荷の蓄積に耐えられるかどうか」ということ、つまり「私たち人類の存続危機」にかかわることなのです。

それだけではありません。20世紀の後半になって顕在化してきた地球規模での環境の悪化は、拡大しつづける市場経済社会の行く手を阻むことになります。なぜなら、環境をこれ以上悪化させないために、また、できれば環境を改善するために、エネルギーや資源をできるだけ使わない経済のあり方が求められるようになるからです。

「化石燃料の使用により大気中のCO2濃度が増えると、地球が温暖化する」という仮説を最初に唱えたのは、スウェーデンの科学者スバンテ・アレニウスで、1896年のことでした。この114年間に「世界の経済状況」と「私たちの生存基盤である地球の環境状況」は大きく変わりました。114年前にスウェーデンの科学者が唱えた仮説がいま、現実の問題となって、私たちに「経済活動の転換」の必要を強く迫っています。

環境問題の根本には人間の経済活動が原因として横たわっているわけですから、この問題を解決するための具体的な行動は、経済的に見れば「経済規模の拡大から適正化」への大転換であり、社会的に見れば20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量をできるだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。

先進工業国がさらなる経済規模の拡大を追求し、途上国がそれに追従するという20世紀型の経済活動の延長では、経済規模は全体としてさらに拡大し、地球規模で環境が悪化するにとどまらず、これからの50年間に人類の生存基盤さえ危うくすることになるでしょう。私たちがいままさに、「人類史上初めての大転換期」に立たされていることを示しています。
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以上の記述を可視化したのが、次の図です。


関連記事
日本の「温暖化懐疑論」という現象(2)(2008-09-25)


もう一度繰り返しましょう。
日本のあちこちで地震、台風、火山の噴火など自然災害が相次いで発生しています。国際社会に目を転ずると、2004年12月26日のスマトラ沖地震によるインド洋大津波や2005年8月29日に米国南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」など、自然災害の報道が多くなっています。戦争やテロ活動はやむきざしがなく、貧困の原因の一つとも指摘されている経済のグローバル化は、さらに急速に進展しています。

しかし将来、自然災害の発生をとめることが技術的に可能になったとしても、また、戦争やテロ活動がなくなり世界に真の平和が訪れたとしても、私たちがいま直面している環境問題に終わりはありません。次の図で、「自然災害」と「戦争やテロ活動」を取り除いてみて下さい。私たちの正常な「経済のあり方」「社会のあり方」が、環境問題の直接の原因だからです。 




これらの図に加えて、もう一度、前回のブログに掲げた「問題群としての地球環境問題」をご覧下さい。

  


この10年、ほとんど変わらなかった「環境問題」に対する一般市民の基本認識

2010-01-17 18:04:56 | 環境問題総論/経済的手法
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さて、今日はこの10年間の「環境問題」に対する一般市民の基本認識がどうだったかです。これはあくまで、私の個人的な観察であり、印象ですから、異論のなる方もかなりいらっしゃるかもしれません。

「私たち一人一人の力はささやかであるが、そのささやかな力でも無数に集まれば、社会を動かすことができる。いままでの社会の変革はすべて、ささやかな一歩の上に築かれたものであり、『そのささやかな思い』と『行動の集積の結果』がやがて、大きなうねりとなって社会に変化が起こる」

こうした啓発活動のメッセージには、「異議なし」といいたいところです。しかし、こと日本の環境問題に関しては、あえて異議を唱えなければなりません。このような発想からは、「環境問題の規模の大きさについての認識」と「時間の観念」が抜け落ちているからです。
 
各人が「ことの重要性」に気づき、「できるところから始める」という考えは、日本ではきわめて常識的で合理的で一般受けする穏便な考えですので、とくに市民団体から好まれます。日本の社会の仕組みはきわめて強固で、しかも、目の前には困った状態が迫ってきているので、とりあえず「できるところから始める」とか、「走りながら考える」とかいった発想になりがちですが、この発想だと、むずかしいことを先送りすることになりかねません。

では、どうしたらよいのでしょうか。環境問題に対して、個人にできることはないのでしょうか。私は、個人にできることはたくさんあると思いますが、「対処すべき環境問題の規模の大きさ」と「残された時間の短さ」を考えると、この種の発想は問題の解決をいっそう難しくすると思います。

「現行経済の持続的拡大」という国民の暗黙の了解で進められている日本の産業経済システムのもとで、個人のレベルでできることは、「一歩前進」あるいは「しないよりもまし」と表現されるように、いくらかは「現状の改善」には貢献するかもしれませんが、「21世紀の日本の方向転換」には貢献できないでしょう。いま、私たちに求められているのは方向転換のための政治的な第1歩であり、1歩前進だからです。

 1992年6月の「国連環境開発会議(=地球サミット)」や97年の「地球温暖化防止京都会議」、2002年の「持続可能な開発に関する世界首脳会議(=環境・開発サミット)」で、世界各国の首脳や代表が集まって議論したのは、もはや環境問題の解決が国民一人一人の心がけではどうにもならないところまで来ているからではないのでしょうか。

この10年、ほとんど変わらなかった「環境問題」に対する企業の基本認識

2010-01-16 15:58:47 | 環境問題総論/経済的手法
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一昨日のブログで、「環境問題」に対する大学生の基本認識がほとんど変わらなかった、というこれまでの10年間の私の観察結果をお知らせしました。また、昨日のブログでは、日本の行政担当者(国、地方自治体)の「環境問題に対する基本認識」について私の観察結果を書きました。

では、この10年間の「環境問題」に対する企業の基本認識はどうだったでしょうか。私の講演会で、企業の部課長クラスの参加者から必ず出てくるコメントや反応があります。それは「おまえのいうことは、個人として、あるいは一技術者としてはよくわかるが、企業としてはできない」というものです。でも、これほど矛盾した反応があるでしょうか。

「企業の技術者としては、個人的にことの重大さはわかっていても、目の前の生活防衛のために、自分の属している組織の拡大のために全力を尽くす」、つまり、「前方が断崖絶壁であることが一技術者として理性的にわかっていても、乗り合わせたバスのなかで声を上げられない」という状況が、自分や自分の家族の将来、自分の属する企業や組織の将来活動を危うくすることだ、ということがなぜわからないのでしょうか。
 
次の図をご覧下さい。


このような議論が起こるのは、「個人」と「組織」との間に根本的な違いがあるからです。個人は人間ですが、個々の人間からなる組織(企業はその代表的なもの)は、人間ではないということです。個人は自分の「目的とする行為」がどの程度達成できるかということと、その行為が周囲にどのような影響(目的外の結果)を及ぼすかを、程度の差こそあれ、必ず考慮し、配慮します。ところが、組織は特定の目的を達成するためにつくられたものですから、「目的とする結果」にのみ関心を示し 「目的外の結果」を考慮しません。
 
個人的行為の場合は、動機と目的が直接結びついていますが、組織的行為の場合は組織の目的と個人的動機は、多くの場合、同じではありません。組織的行為は独立した個人によって支えられていますが、行為の主体は個人ではないからです。組織の本質は「維持・継続」です。ですから、組織にとっては、「組織の維持・継続」にプラスかマイナスかが、決定的に重要な判断基準となるのです。
 
したがって、「目的外の結果」は、ひたすら組織の維持・存続にとってプラスかマイナスかで評価されることにならざるを得ないのです。組織にとってプラスであれば積極的に、マイナスであれば可能なかぎり無視し、視野の外に置き、対応を余儀なくされたときに初めて対応することになります。このことは、 「組織」をその代表である「企業」や「行政」と置き換えて考えてみるとわかりやすくなるでしょう。環境問題は人間活動の代表的な「目的外の結果」だというのが、私の環境論の最も強いメッセージです。次の図は1996年に作成したものですが、上の図の「コスト」と関連するところです。当時の日本の企業人の本音がよく出ていると思います。




最近の「気候変動問題」に対する日本企業の基本認識は、次の3つの関連記事を見ますと、昨日の行政担当者の基本認識と似たような状況ではないでしょうか。この10年、日本企業、特に製造メーカーの意識はほとんど変わってないように思います。

関連記事
日本は世界トップレベルの低炭素社会? 経済界の判断基準が明らかにされた「意見広告」(2009-03-17)

経済界の意見広告 第2弾 「考えてみませんか、日本にふさわしい目標を。」(2009-05-21)


しかし、10年前と明らかに異なるのは、日本企業の一部や経済界の一部とはいえ、国際的な大きな流れを十分正しく理解し、積極的に課題に対応して行動する頼もしい動きが見られるようになってきたことです。   

この10年、ほとんど変わらなかった「環境問題」に対する行政の基本認識

2010-01-15 13:56:28 | 環境問題総論/経済的手法
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1月14日のブログで、「環境問題」に対する大学生の基本認識がほとんど変わらなかった、というこれまでの10年間の私の観察結果をお知らせしました。

それでは、この10年間の日本の行政担当者(国、地方自治体)の「環境問題に対する基本認識」はどうだったのでしょうか。1月14日のブログで掲げた「問題群としての地球環境問題」(平成13年版 環境白書 p11)という図を参照しながら、次の図をご覧下さい。 


この図は、10年前の2000年3月23日に、当時の都庁の有志で組織された「エコロジー研究会(エコ研)の第100回の例会での私の講演のあとに行われた質疑応答で、当時の都庁の産業政策部長が述べたものです。当時の都庁の産業政策部長は「もちろん政府や自治体は全然違うことをやっていますから・・・・・」というところに、ことの本質があると思います。

この発言は、行政にも「わかってはいるけれども、行動は別という根本的な大問題があること」を示唆する貴重な発言です。10年経った現在、この10年間の国や自治体の環境行政を分析すれば、今なおこの方の発言は的を射ていると私は思います。

私の主張を現在の日本で実行することが、難しいのはよくわかります。でも、これほど矛盾した反応があるでしょうか。世界の最先端を行く北欧の国々はすでに、1990年代後半頃から21世紀前半に向けた新しい社会システムの模索が始まっています。私はこのブログで、北欧諸国の中で最大の工業国であるスウェーデンの「考え方」と「具体的の行動計画」を私なりに理解した範囲でお知らせしてきたつもりです。たとえば、このブログにも何回か登場させた次の図もその一つです。

日本の明るい将来のために、ぜひ、皆さんにも「環境問題」の基本認識を高めてほしいと願っています。               


この10年、ほとんどかわらなかった「環境問題」に対する大学生の基本認識

2010-01-14 11:25:34 | 環境問題総論/経済的手法
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今年の元旦のブログで、2000年に作成した「このまま行けば、2010年は混乱、2050年は大混乱!」という図を掲げました。最近の世界の動きをウオッチしていますと、この図の表題を「このまま行けば、2010年は混乱2030年は大混乱!」と修正したほうが、もっとリアリティが感じられるような気がしてきました。つまり、事態は急速に悪化しているように感じられるのです。 

 1月12日は、私が環境論を講じているある大学の2009年後期の試験日でした。回収された答案には、私の13回の講義を受けた受講者224人の「気づき」や「感想」がふんだんに盛り込まれています。答案の内容がどのようなものだったかは別の機会に譲るとして、今日は私の講義を受ける前の「環境問題に対する大学生の基本認識」ついて触れておきましょう。

 環境問題にある程度の関心を持っておられる方々に「環境問題とは何か」と問えば、おそらく、90%以上の方々から「地球温暖化」、「オゾン層の破壊」、「酸性雨」、「大気汚染」、「水質汚濁」、「騒音・振動」、「海洋汚染」、「有害廃棄物の越境移動」、「熱帯林の減少」、「野生生物種の減少」、「砂漠化」、「ごみ・廃棄物問題」などの答えが返ってくるでしょう。

 私はこれまで複数の大学で「環境論」を講じて来ましたが、2000年から毎年講義の初日に、「環境問題という言葉を聞いたときに思い浮かぶことを3つ書きなさい」という質問をしてきました。2009年後期のある大学の受講生は初日の174人から最終的には224人が私の講義を履修することになりました。

 次の図は、授業の初日(2009年9月22日)に大学生174人(1~4年生)から得た回答をまとめたものです。



 私はこの結果に、今更ながら驚きを禁じ得ませんでした。私の期待に反して、1人として「経済活動」との関連を示唆する言葉を挙げた学生が今年もいなかったのです。つまり、このことは2000年の頃の大学生の認識と10年後の学生の認識がほとんど変わっていないことを示しています。この現象は2000年の最初の試みからほぼ10年経った現在でも、学部、学年、性別、学生数などにかかわりなく、同じ傾向が見られます。おそらく社会人の方々の認識もここに示された大学生の認識とほとんど同じなのではないでしょうか。皆さんのお考えはいかがでしたか。


ここに示された「環境問題」に対する認識は誤りではありませんが、それらは「環境問題の現象面」であって、もっと本質的な「環境問題」と「経済」のかかわりを示唆する言葉がまったくないのは極めて問題だと思います。つまり、日本では「経済」と「環境」は別物という、まことにリアリティのない認識が蔓延しているのではないでしょうか?

講義の初日にこのような回答をしていた学生は十数回の講義が終わると、どのような認識を持つことになるのでしょうか。その答えは一昨日回収した224人の受講生の答案の中にしっかりと書き込まれているはずです。
 

ご参考までに、2002年当時の「環境問題」に対する大学生の基本認識を一例として掲げておきましょう。



学生のほとんどが環境問題の本質的な原因・結果に着目せず個々の環境問題の現象面に注目しているため、基本認識が拡散しています。この拡散する基本認識を収束する方向に意識転換する助けとなるのが次の図です。このブログにも何回か登場させました。
     
 

判断基準の相違①: ワシントン条約 「クロマグロ禁輸」をモナコ提案、17年前にはスウェーデン提案が

2009-08-11 13:21:35 | 環境問題総論/経済的手法
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「学習会」 と 「シンポジウム」 のご案内:下の図をクリック
    



環境問題は世界共通の大問題です。日本とスウェーデンでは「環境問題に対する認識や考え方」が大きく異なります。日本では「環境問題の現象面の分析とその対応」ばかりが語られ、「環境問題の本質」がほとんど議論されないために、環境問題への理解が不十分なのです。

スウェーデンの判断基準で日本の現状を見ますと、「日本の環境・エネルギー問題に対する対応は不十分である」ということになりますし、逆に、日本の判断基準が正しいとすれば、「スウェーデンの対応は馬鹿げている」ということになります。この説明だけではよくわからないと思いますので、皆さんにもお馴染みの具体的例を3つ挙げてみましょう。次の図をご覧ください。この図は14年前の1995年時点で作成したものです。



①の原発と②の気候変動(地球温暖化)については、みなさんはよくご存じのことですので、今日はこの図の③「クロマグロ」の規制提案をとりあげます。 

ワシントン条約は今から37年前の1972年6月、スウェーデンのストックホルムで開かれた「第1回国連人間環境会議」で早期制定の勧告が出され、これを受けて翌73年3月にアメリカ、ワシントンで採択されました。ワシントン条約は、正式には「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora)といい、この頭文字をとって「CITES」と呼ばれています。日本の加入は1980年8月。


1992年の判断基準の相違

92年3月2日から13日まで、国立京都国際会議場で「ワシントン条約締約国会議」(この条約の締結国は113カ国)が開かれました。この年の2月、私の職場であったスウェーデン大使館には、日本のマグロ漁業者で組織された「日本鰹鮪漁業協同組合連合会」から3万人もの反対の署名が届けられました。結局、3月の京都会議では、スウェーデンの提案は取り下げられましたが、当時の新聞は「マグロが食べられなくなっては大変と一般の人たちも署名運動に参加し、13万を超す署名が集まり、提案国のスウェーデンを驚かす結果になった」と報じています。





日本が「マグロが食べられなくなる」という目前の理由からスウェーデン提案に反対したのに対し、スウェーデンは「マグロ資源の持続性を確保する」という将来的な理由からこの提案を行ったのです。

●クロマグロ規制見送り、スウェーデン提案撤回(毎日新聞 1992-03-11)

●クロマグロも決着(朝日新聞 1992-03-11)   

●クロマグロ漁獲枠 削減見送りで合意(日本経済新聞 1992-05-26)




92年のスウェーデン提案はスウェーデンの提案撤回で一件落着となりましたが、その詳細はNHK取材班の記録「NHK スペシャル トロ と 象牙」に詳しく述べられています。



16年以上前の判断基準の相違は、現在どうなったか

92年の京都会議でスウェーデンが取り下げた「クロマグロの禁止提案」は16年経た昨年もまた、ホットな話題を提供しています。次の記事が示すように、昨年11月17日から24日まで、モロッコで「クロマグロの漁獲枠規制」に関する国際会議が開かれました。


そして、今日の毎日新聞は「クロマグロの禁輸」が今年11月のICCAT年次会合で議論されていると報じています。16年以上前に始まった議論はまだ続きそうです。 



●高級トロ、さらに遠く(毎日新聞 2009-08-11) 

「日本がお金を出して開いた第1回の国連環境会議」という珍説を掲げた新刊書

2009-06-21 21:32:27 | 環境問題総論/経済的手法
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下の図をクリックしてください。
 


つい最近、「つくられた『環境問題』-NHKの環境報道にだまされるな!」(ワック株式会社 2009年6月17日 初版発行)というタイトルの新刊書に出会いました。




著者はビジネス界ではお馴染みの日下公人さんと環境問題の分野で一石を投じた武田邦彦さんのお二人。


この本の略歴によりますと、お二人とも原子力の安全分野とのかかわりがあり、日下さんは原子力安全システム研究所最高顧問武田さんは内閣府原子力安全委員会専門委員だそうです。 
 
武田さんは、この本のまえがきで「経済学者との対談の本を出してみないかというシアターテレビの浜田マキ子社長のお誘いに科学者の私は一瞬、たじろいたものの、たぐいまれな鋭利な頭脳と豊富なご経験の持ち主、日下公人先輩とわずかな時間でも議論を交わすことが出来たのは幸甚だった。・・・・」と書いておられます。つまり、武田さんの表現では、「科学者経済学者の対談」がこの本の内容だというわけです。けれども、私は「工学者ビジネス界の古いタイプの評論家の対談」、あるいは「技術者とエコノミストの対談」というほうが適切だと思います。
 
この本の内容は、目次を見ると一目瞭然です。何とも興味深い内容です。



「第1章 すべて解決している日本の環境問題」から「エピローグ 日本のエネルギーは心配ない」まで、快適なテンポでお二人のトークが続きます。「マスメディアに問題は多いが、日本にはまったく問題がないので皆さんご安心を」というのが著者のメッセージなのでしょうか。

1973年以来、スウェーデンと日本のエネルギー問題、環境問題、労働問題を同時進行でフォローしてきた私は、この本に多くの違和感を感じています。「日本にはまったく問題がないので皆さんご安心を」というのが著者のメッセージであるとするなら、このブログで示してきた私のメッセージは正反対といってもよいでしょう。

この本の内容に私は、多くの点で著者と意見を異にしますが、すでにこのブログを通じて「公害(問題)」と「環境問題」に対する私の考え日本の問題点を書いておりますので、ここでは武田さんの「環境問題に対する認識」を読み取ることができる第1章の「◎いまは『環境問題』というトラウマだけが残っている」というところを紹介しておきます。

武田さんは「環境をどう定義するかという問題はありますが、」と一定の配慮を加えてはいますが、「たとえば、環境によって人の健康が害されたりするようなことが起こるかという点では、1990年以来公害患者の新規発生はほとんどありません」とおっしゃっているように、武田さんの議論では「公害(問題)」「環境問題」の定義の相違にはあまりこだわらない、つまり、議論の場面で状況に応じて適宜言い換える、あるいは無意識のうちに置き換わるということになるようです。武田さんにとっては二つの概念が基本的にはほとんど同義語なのではないでしょうか。

同じようなことが、この本では「科学者」「技術者」という表現にも表れています。上の図(この本のp16の2行目)で「私は科学者なので」とおっしゃっていますが、この本のp100の6行目では「私は技術者だから」ともおっしゃっています。この本の複数の箇所に「科学者」と「技術者」という表現をあまり意識せずにお使いになっている場面があります。武田さんは「経済学者」「エコノミスト」を分けるまでもない、同じと考えてよいとお考えのようです。
上の図の「◎日本において環境問題はなぜ片付いたか」で、武田さんは「もっとはっきり言えば、大量生産によって環境がよくなったということです。環境というのは、生産力が増大することによって常に改善されてきたのです」と断言されています。私が武田さんを「科学者ではなく工学者(技術者)だ」と考える理由は、このような発言にあります。この発言は竹中平蔵さんの「環境問題に対する考え方」とよく似ています。 

 ●環境問題は「制約」どころか経済活性化の促進要因になる(p143~145)  
      (竹中平蔵著『明日の経済学』 幻冬舎 2003年1月30日 第1刷発行)


そして、日下さんの「事実関係の誤り」を一つ指摘しておきます。日下さんの次の発言をご覧ください。

日下さんは「日本は環境問題解決の一番の先進国であるから、国連へ行って訴えるべきである。国連環境会議の開催を訴えるべきである」などと書きました、とおっしゃっておられます。ほんとうにそのようにお書きになったかどうかは、当時の『公害』の巻頭言を参照すればすぐわかることですが、日本が誇る公害防止技術である「排煙脱硫装置」や「排煙脱硝装置」の設置状況の推移を見れば、1970年(昭和45年当時)に「日本は環境問題解決の一番の先進国であるから・・・・」などとは言えなかったのではないでしょうか。これらの技術は日本が世界に誇る公害防止技術(大気汚染防止技術)ではありますが、1970年当時はそれらの装置の設置(排煙脱硝装置の設置は1972年から)の途についたばかりだったからです。

   ●排煙脱硫装置の設置状況の推移   ●排煙脱硝装置の設置状況の推移


意図的か、勘違いなのか、あるいは不注意による誤りなのかはわかりませんが、国連はすでに1967年にスウェーデンのストックホルムで第1回国連人間環境会議を開催することを決定していました。

ですから、日下さんの発言は、武田さんがおっしゃる「たぐいまれな鋭利な頭脳と豊富な経験を持つ経済学者の誤り」ということになります。

ことあるごとに“科学者”を自認しておられる武田さん(この本のみならず、他のご著書でも) が日下さんを“経済学者”と紹介していることにも少なからず疑問を感じます。この本は技術者とオールド・エコノミストによってつくられた“もう一つ”の環境問題ではないでしょうか。 

 
関連記事

あれから40年、2010年は混乱か?-その1(2009-04-09)

武田さんの「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」と槌田さんの「環境保護運動はどこがまちがっているのか」(2007-10-14)

槌田さんが理解する「スウェーデンの原発事情」(2007-10-20)


                                

あれから40年 2010年は混乱か?-その4   デニス・メドウズさん vs 茅陽一さん 

2009-05-01 21:26:31 | 環境問題総論/経済的手法
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下の図をクリックしてください。
 


昨日(4月30日)の朝日新聞の夕刊に、来日中のデニス・メドウズさんへのインタビュー記事が掲載されました。




記事のポイントは3つあります。

①今後100年間で人類が最も困難になるのは2030年ごろだと思っている。今後はエネルギーの不足、水の問題、食糧問題など「負の圧力」がさらに大きくなるからだ。(私は「このまま行けば、2010年は混乱、2050年は大混乱?」と考えていました。)

②金融危機に始まった今回の危機は「短期的」と思われがちですが、実は今後30年続く危機が始まったばかりだと思う。

「持続可能性(サステナビリティ)」とは、原子力や炭素吸着といった技術の進歩がもたらすわけではなく、人間の意識・態度の問題である。だから難しい。

この中で、今日は特に③の持続可能性とは原子力や炭素吸着といった技術の進歩がもたらすわけではない」というメドウズさんの発言に注目したいと思います。日本は「原子力」と「炭素吸着」の技術開発に熱心です。2005年頃から「低炭素社会」に向けて「原子力」と「CCS(Carbon dioxide Capture and Storage)」技術の推進が顕著となってきました。一方、スウェーデンは持続可能性の観点から「原子力」や「炭素吸着」の技術開発にはそれほど熱心ではありません。原子力を段階的に時間をかけて廃止し、化石燃料からも脱却する方針です。

関連記事
またしても、ミスリードしかねない「スウェーデンの脱原発政策転換」という日本の報道(2009-03-21)

緑の福祉国家15 「気候変動」への対応④(2007-01-26)


故意か、単なる偶然か、わかりませんが、興味深いことに、メドウズさんへのインタビュー記事が掲載された前日の4月29日の朝日新聞には、次のような全面広告が掲載されました。

●最先端技術(CCS)で創る低炭素社会」

この広告記事によりますと、このCCSの実用化を目指し、日本の一流会社29社が結集して、2008年5月に「日本CCS調査株式会社」が設立されたそうです。日本政府は「低炭素社会づくり行動計画」において、2020年までにCCSの実用化を目指すと明記しているそうです。

そして、この広告記事の中に、この技術に対する茅陽一さんの期待を込めた次のようなコメントが出ています。

茅さんは、「CCSは化石燃料の利用とCO2のゼロエミッションを同時に達成するので、低炭素社会への移行期の温暖化対策としてまたとない重要な対策技術といえる」とおっしゃっていますが、ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか。

96年の第11回原子力円卓会議(最終回)(この円卓会議の議事録の最後の茅さんの結びの発言をぜひご覧ください)で同席した頃までの茅さんのシステム論に基づくお考えに、私は大きな期待と関心を寄せていたのですが、その後、お話を聞く機会を逸しており、久しぶりに今回の記事で最近のお考えを拝見したというわけです。このCCSという技術体系は、私には途方もない莫大なコスト(実用化するまでに、そして、その後の維持費)がかかる技術のように思えます。しかも、この技術が実用化できるかどうかは2020年までかかるとのことです。だとすれば、それまでの化石燃料の消費をどうするかという計画も同時に示されなければならないと思います。予定通り実用化に成功しても。実用化に失敗する可能性もあるからです。

今回のCCS技術に関する茅さんのコメントは、メドウズさんのお考えとは正反対といってよいでしょう。皮肉なことに茅さんは、メドウズさんの「成長の限界の3部作」の2番目「限界を超えて」の監訳者なのです。




私は、「生きる選択 限界を超えて」に寄せられた茅さんの「監訳者のあとがき」にいたく感動した記憶があります。改めて、17年ぶりにこの本を取り出し、当時の感動を再確認しました。あの感動をぜひ皆さんと分かち合いたいと思い、ここに、紹介します。

●監訳者あとがき p371~372

●監訳者あとがき p373~374

●監訳者あとがき p375~376


関連記事
あれから40年 2010年は混乱か?-その1

日本の現実 「エコ偽装で露呈、意識の低さ」という投書の的確さ

2009-04-29 21:36:17 | 環境問題総論/経済的手法




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下の図をクリックしてください。



今日は、3日前の朝日新聞の投書欄に掲載された至極まっとうなご意見を紹介します。まずじっくりとお読みください。


最初に出てくる事例は次の“省エネ冷蔵庫”です。

次に出てくる事例は昨年1月の“製紙会社のリサイクル率水増し”事件です。

●混迷する日本④ 20世紀の企業倫理・企業観が招いた「低い古紙配合率」(2008-01-18)

そして、近年のレジ袋や冷暖房に関するエコ(クールビズやウォームビズなど環境省が提示した国民一人一人にできることなど)は、行っている人の自己満足にはなるかもしれませんが、社会全体のレベルで考えれば企業の行動(具体的には、資源やエネルギーの消費量など)が市民の行動より遙かに強力なので、効果はまったくない思います。たとえば、次のような例です。

●アクアラインの通行量値下げは、環境負荷を増大する(2009-03-24)



2007年、2008年には、こうした「市民の不安定なエコ意識の状況」に、さらに混乱をもたらすような、一群の識者らの「エコ批判本」 も相次いで出版されました。こうした動きに対して、批判された側からの反応が十分にないまま、うやむやのうちに時間が経過し、現在に至っています。以下の記述は、当時の私の認識です。今も私の考えに基本的な変更はありません。

●判断基準を変えれば、別のシーンが見えてくる(2007-10-10)

●同じ情報を与えられても解釈は異なることがある(2007-10-11)

●武田さんの「環境問題はなぜ嘘がまかりとおるのか」と槌田敦さんの「環境保護運動はどこが間違っているか」(2007-10-14)

●日本「温暖化懐疑論」という現象(1)(2008-09-24)

●日本「温暖化懐疑論」という現象(2)(2008-09-25)

●槌田敦さんが理解するスウェーデンの原発事情(2007-10-10)

次の「低燃費の新車や省エネ家電に買い換えることは本当に地球に優しいのだろうか。買い換え自体が無駄な消費で、宣伝に利用されるだけなら何の意味もない」とあります。これは、個人の意識と努力に基づいたレジ袋や冷暖房に関するエコとは違って、日本政府が「日本版グリーンニューディール」と名付けた政策のもとでかなりの予算をつけて実施する大規模な国民的行動ですから、ある程度の予測はできますが、結論を急ぐのではなく、少なくとも1~2年後に判断すべきでしょう。そのときの私の判断基準は次の通りです。




さて、この投書の中で最も重要な部分は次の部分です。

----------
世界は今、食糧、水、石油の供給、温暖化、移民格差など様々な危機に瀕しているのに、リーマン・ショック以降、話題に上るのは金融危機ばかりだ。環境問題は、金融サミットに飲み込まれてしまったようだ。未曾有の経済危機の克服は急務だが、景気回復のメドが立った後でも解決の終わらぬ問題からは、たえず意識をそらすべきではないと思う。
----------

私の環境論から見ると、この部分は核心をついていると思いました。私も同じ考えですので、日本の経済学者やエコノミストの「環境問題に対する意識」を探るため、経済分野の週刊誌を購入し、詳しく調べてみました。そこに登場する識者(その多くがマスメディアで知 られた方々です)の主張はまさに、投稿者の岡村一生さんのおっしゃるとおりで、「環境問題に対する認識」はほとんどゼロに等しいものでした。この状況は経済学者やエコノミストの意識の問題であると共に、これらの経済誌の内容を企画する編集者の意識の低さでもあると思います。大変恐ろしいことだと思います。

●週刊『エコノミスト』 2008年11月25日号   新ニューディールなるか 危機vsオバマ

●週刊『エコノミスト』 2009年2月3日号   日本経済処方箋 経済「戦時」克服のためのチェンジ

●週刊『東洋経済』 2009年2月14日号   世界経済危機 特別講義 これから起こる大激変

●週刊『ダイヤモンド』 2009年4月4日号   入門 「大不況の経済学」 日本を襲う危機の正体

●週刊『東洋経済』 2009年4月4日号   経済「超」入門 危機後の世界がすべてわかる!

●週刊『エコノミスト』 2009年4月28日号   最速で景気回復、日米欧がすがる中国一極経済

●週刊『エコノミスト』 2009年5月5・12日合併号   世界不況が迫る経済の構造転換 産業大革命 日本のものづくりは死ぬのか 

●週刊『エコノミスト』 2009年5月26日特大号 (2009年5月20日追加)    環境先進国の嘘


結局、これらの記事に目を通して得られたことは、私の期待に反してというか、予想通りというか、次のようなものでした。


①上記の週刊誌に登場する経済学者やエコノミストには、それぞれのよって立つ基盤が比較的明らかである。

②経済学者が10人集まると11通りの処方箋がある。ということは、経済学者や、さらに拡大解釈して、エコノミストにこの未曾有の大不況の解決を期待するのはもともと無理があった。

③そして、最も失望したのは「経済成長」の議論ばかりで、「経済活動の当然の帰結である環境問題」を意識して発言している経済学者やエコノミストがほぼゼロに等しかった。


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『成長の限界』の著者、メドウズ名誉教授に09年の日本国際賞を授与

2009-01-16 13:59:19 | 環境問題総論/経済的手法
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今朝の朝日新聞が「米2博士に日本国際賞」という小さな記事を掲げました。


「成長の限界」の報告書に対する受賞です。受賞者のデニス・メドウズさんが報告書を公表したのは1972年でしたから、基本的には36年前の業績が評価されたということなのでしょう。つい最近、私たちは同じようなシーンを見たような気がします。そうです、昨年、日本の研究者(物理学賞の南部洋一郎さん、小林誠さん、益川敏英さんおよび化学賞の下村 脩さんの4人)が受賞したノーベル賞も過去のすばらしい業績が評価されたものでした。

36年前に出版された『成長の限界』に続いて20年後の1992年に出版された同じ著者による『限界を超えて』(ダイヤモンド社 1992年)から、私が今なおその通りだと思うことを紹介しましょう。それは、「人類社会がとりうる対応が3つある」ということです。







日本の対策は①あるいは②であるように、私は思います。私の環境論では、③を重視していますし、スウェーデン政府の環境政策も同様です。どうも日本の環境政策は別の方向へ向かっているように思います。いま日本で、成長の限界論をまじめにそして真剣にフォローしておられるのは『地球温暖化対策が日本を滅ぼす』(PHP 2008年10月発行)の著者でおなじみの東京工業大学大学院理工学研究科の丸山茂徳さんだけなのでしょうか?

丸山さんは、『地球温暖化対策が日本を滅ぼす』の第4章「21世紀 地球を襲う本当の危機」で、ローマクラブ「成長の限界」が現実となるとし、ご主張を展開されています。


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環境問題を忘れた「早急な金融危機の解決策」は、更なる「大危機」を招く?

2008-12-13 19:22:21 | 環境問題総論/経済的手法
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12月8日のブログで、雑誌「世界」(2009年1月号)の「特集 大不況-いかなる変革が求められているか」に登場する識者がこのテーマを議論するときに、「21世紀の経済成長」の最大の制約要因であるはずの「資源」、「エネルギー」および「環境」の視点がどの程度意識されているかを調べてみました。その結果、この80ページにおよぶ特集の中で、わずかにお一人、大阪大学の小野さん が「環境投資」の重要性を主張されているにすぎなかったのです。

この特集の趣旨は次のように書かれています。

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米国の住宅バブル崩壊に端を発した金融危機は、瞬く間に世界に広がり、米欧を中心とした金融機関の損失は計5.8兆ドル(約550兆円)、損失比率は17.9%に及ぶという試算もある(みずほ証券08年11月24日)。各国政府・中央銀行は協調して、金融機関への公的資金導入、政策金利引き下げなどを矢継ぎ早に行い、金融システムの安定化を図っているが、混乱は収まっていない。

金融危機は実体経済の危機に転化し、日米欧の先進国経済はかつて経験したことのない同時マイナス成長の時代に入ろうとしている。GMなど米国の自動車産業だけでなく、トヨタなども販売不振に陥り、09年3月の業績予想では、売上高2兆円のマイナスという。モノが売れなければ貿易が急減し、経済が縮小すれば倒産が増え、失業率が上昇する。米国では10ヶ月で110万人が職を失った。

まさに未曾有の大不況の到来である。折しも、変革(チェンジ)を掲げたバラク・オバマ氏が次期米国大統領に選ばれた。変革は8年前のブッシュ時代に対してだけでなく、70年代以来30年にわたった新自由主義の時代に対する決別と転換でなければならない。グローバルな危機には、グローバルな対応が必要とされている。人々が餓えたり、基礎的な医療や教育が受けられなかったり、家を失って彷徨ったり、家族が離散せざるをえなかったりすることがないようにするために-いかなる変革がいま、必要なのか。
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この特集記事が模索している「答え」を見つけるために掲げた上記の特集企画者の基本認識「70年代以来30年間にわたった新自由主義の時代に対する決別と転換でなければならない。グローバルな危機には、グローバルな対応が必要とされる」は大変明確であり、的を射ていると思います。

しかし、この特集で「金融危機」について「いかなる変革がいま、必要なのか」を問われている日本の識者の中に、「資源・エネルギー、環境問題」の意識がきわめて薄いことは大問題です。けれども次の報道をみれば、やむをえないことかもしれません。


 


「これまで、日本の環境対策は、世界の最先端を走っていると思っていた」とおっしゃる小村武・日本政策投資銀行総裁の“率直な驚き”は印象的です。この驚きこそ「日本の政・財界が共有している意識」といってよいでしょう。この事実は、環境問題に対する日本のリーダーの考え21世紀になってもいまだに「公害の域を出ていないこと」を見事に証明しています。

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日本の「金融と環境問題のかかわりの意識」と「それに基づく行動」が国際社会の中で大変遅れていることがおわかりいただけるでしょう。

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同じようなことが「省エネ」という概念にも見られます。「日本の省エネ」と「国際社会の省エネ」の相違を次の記事でご確認ください。


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