環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

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社会的な合意形成 ⑧ 「全体」と「部分」

2007-03-06 13:52:43 | 社会/合意形成/アクター


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スウェーデンと日本を比較してみますと、さまざまな相違を見出だすことができますが、環境問題に対して決定的な相違は「全体」「部分」とをどう見ているかということです。たとえば、森(全体)を見ると同時に、森を構成しているさまざまな木(部分)を見ているかどうかということです。このことは「予防志向の国」(政策の国)「治療志向の国」(対策の国)と言い換えることができると思います。

日本は問題となっている「部分(木)」に注目し過ぎるあまり、「全体(森)」を見ないという傾向があります。一方、スウェーデンは目の前で問題となっている当面の部分を全体の中でとらえようとします。つまり、「当面の問題(部分)」と「全体」を相対的にバランスよく見ようとします。ですから、「問題の部分への対応」だけを比較すれば、この場合は特に技術的な対応ですが、日本のほうが圧倒的に優れていることがしばしばあります。

この図の「Think totally, Act partly」は、皆さんご存じの「Think globally, Act locally」をもじったものであることはいうまでもありません。

全体と部分ということで、私はもう一つ追加したいことがあります。それは「部分は全体を代表するか、言い換えれば、部分が正しければ、全体が正しいと言えるだろうか」ということです。環境問題のようにミクロからマクロの世界までを総合的に把握しなければならない分野では、私たちは不用意にも初歩的な過ちを冒し、その過ちに気づかないことがしばしばあります。


例えば、原子力という巨大な技術の評価をするときに、 「原発は二酸化炭素を出さないから、環境にやさしい、あるいはクリーンなエネルギーである」という評価などはその典型的な例です。このようなことを平気で書いたり、喋ったりする識者、政策担当者、技術者、マスコミ関係者がけっこういるものです。私には意外なのですが、原子力をほかの専門家よりも熟知しているはずの原子力の専門家と称される人達にそのような傾向があることです。

22年間の大使館での勤務の体験を通じて私が理解したスウェーデンは、伝統的に新しい発想から新しい概念を生み出し、世界に先駆けて新しいシステム(「全体」とそれを構成する「部分」からなる)を創造し、導入し、社会を変革するのが得意なシステム思考の強い国です。一方、日本は、与えられた枠組みのなかで工夫し、すぐれた要素技術(部分)の開発をするのが得意な国ですが、システム思考があまりありません。

スウェーデンが21世紀前半にめざす「緑の福祉国家」(エコロジカルに持続可能な社会)という新しい社会システムの構築を“ジグゾーパズル”に例えれば、スウェーデンがその完成図とそれを構成する整合性のあるピースをつくっているのに対し、日本は完成図がよくわからないまま、整合性のよくない新しいピースを次々につくっていると言えるのではないでしょうか。



社会的な合意形成 ⑦ 「変わるもの」と「変わらないもの」

2007-03-06 11:42:09 | 社会/合意形成/アクター


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今、起こっている環境問題は世界共通の問題です。この世界共通の問題に対して、日本とスウェーデンはどうも認識や考え方が大きく異なるようです。日本では「環境問題の対応策」の議論が多く、「環境問題の本質」がほとんど議論されないために、環境問題への理解が不十分であるような気がします。


★「判断基準」の相違

スウェーデンの判断基準で日本の環境の現状を考えてみますと、日本は大変な状況にあると言えます。スウェーデンは1972年に首都ストックホルムで「第1回国連人間環境会議」を開催しました。92年の「リオデジャネイロの地球サミット」(第2回国連の環境会議)の開催にも熱心でしたし、2002年の「ヨハネスブルグの持続可能な開発に関する世界サミット」(第3回国連の環境会議)の開催にも熱心でした。

環境問題に関して、さまざまな国際会議を通じてスウェーデンが国際社会に提示してきたことは環境問題の本質をついたものであり、合理性の高いものでしたから、多くの国々が後についてきたのだと思います。

ですから、スウェーデンの判断基準で日本の現状を見ますと「日本の環境・エネルギー問題に対する対応は不十分である」ということになりますし、逆に、日本の判断基準が正しいとすれば、「スウェーデンの対応は馬鹿げている」ということになります。

判断基準が異なれば、対応が異なり、対応が異なれば、結果が違ってくるのは目に見えています。それでは、なぜ共通の問題に対して判断基準が異なるのでしょうか? 判断の相違は「対象となる問題」に対する認識の相違、つまり、認識の深さと広さの相違によるものです。

それではどうして認識の深さと広さが違ってくるかと言いますと、これは社会とか人生に対する価値観の相違に由来するのだと思います。「社会の変化」と「知識の拡大」に対応して判断基準を変えていかなければ、本来、見える筈のものも見えず、わかる筈のものもわからなくなってしまいます。

ここで重要なことは「変わるもの」と「変わらないもの、あるいは変わるべきでないもの」を社会や人生の価値観によって見分けることです。利害の異なる市民で構成されている社会や個人の人生の価値観を形づくる規範は倫理観ですが、最近は環境に対しても「環境倫理学」という言葉が使われるようになってきました。

倫理学は人間が安心して行き続けるために他者に強制できる事柄の限界を決める学問です。社会が抱えるさまざまな問題を民主的に解決するためにも、環境問題の解決をめざすにも現実に則した判断基準が必要です。


★「変わるもの」と「変わらないもの」 

私たちを取り巻く世界は常に変化しているように見えます。私たちは、これまでまわりに起こる変化を楽しみ、変化に対応し、変化を創造してきました。21世紀初頭の今、世界は政治的、経済的に激しく流動し、激変し、さまざまな問題が顕在化し、私たちの目に見えるようになってきました。

私たちは日々その変化に対応することにのみ気を取られているため>、「変化しないもの」にはあまり関心を示しません。しかし、閉鎖系で、有限な地球上の「人間活動」がこれほど大きくなった現在、私たちは原則的に「変化しない」あるいは「劣化しない」と当然視してきた人類の生存基盤に揺らぎが生じてきたことにもっと注目すべきだと思います。

ここで言う「変化しないもの」とは「環境の許容限度」と「人間の許容限度」です。学問的ではなく、私たちの常識の範囲で、もう少しわかりやすく言えば、物理的な時間の流れ、地球空間(地球の大きさ、地球の保有する水の量、大気の量など)、人間が動物的次元を逃れられないこと、環境を支配している自然科学の法則などです。

技術立国を自認する日本の工学研究者/技術者、政策担当者、経済学者/エコノミストなどが、一部の専門家を除いて、日本が世界のGNPの10~15%を作り出すような経済活動を国内外で行っているという事実にもかかわらず、環境を支配している基本的な原則である「エコロジー的な考え方」や自然法則である「熱力学の法則」を考慮に入れていない様は驚きをとおりこして滑稽でさえあります。