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8月14日のブログでは、22年前に当時のスウェーデンのエネルギー・環境大臣一行と広島の原爆資料館と竹原火力発電所を訪問した思い出を紹介しました。
そして、8月15日は第65回の終戦記念日でした。
今日はもう一度、思い出を紹介します。
★原爆資料館で見つけた故パルメ首相の色紙
ダール大臣一行と広島の原爆資料館を訪問した翌年、89年4月4日に、私は再び、原爆資料館を訪問しました。そして、その時に見つけたのが次の写真が示すスウェーデンの故パルメ首相の手書きの色紙でした。
No man or woman on earth can be ? ? (文字が判読不明) on the name of Hiroshima. This must never happen again.
世界の人々は、ヒロシマの名において決して過ちを犯してはならない。このことが決して再び起こってはならない。
Olof Palme
December 8 1981
軍縮と安全保障に関する独立委員会委員長
オロフ・パルメ氏
昭和56年12月8日来館
写真を撮り損ねたのですが、近くに飾られていた中曽根康弘氏の色紙は私のアルバムのメモによりますと肩書きと名前、つまり「内閣総理大臣 中曽根康弘」とだけだったと書いてありました。
余談ですが、故パルメ首相がヒロシマを訪れたおよそ10年前、
1972年6月に「第1回国連人間環境会議」がスウェーデンの首都ストックホルムで開催されました。そのときの新聞記事に
スウェーデンの「戦争と環境問題に対する基本認識」の一端を垣間見ることができます。
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★1990年1月9日の内閣の改造
次の図は、スウェーデンの環境・エネルギー大臣一行がヒロシマを訪問した8ヶ月後に行われた内閣改造の一端を示したものです。
故パルメ首相を引き継いだカールソン首相は、当時スウェーデンが直面していた諸問題に対処するため、内閣の中に全体を統括する「特別グループ」と具体的な問題に取り組む「3つのグループ」を設置し、各閣僚をそれぞれのグループに配置しました。このグループの配置に当時の首相の「環境問題に対する基本認識」が見てとれます。特別グループと3つのグループのすべてにエントリーされているのが
「環境相」です。
この内閣改造に伴って、来日中は「環境・エネルギー相」であったビルギッタ・ダールさんは内閣改造後に「環境相」となりました。スウェーデンが直面していた諸問題の対処に設置されたすべてのグループに環境相がかかわっていることに注目して下さい。「日本の環境相の閣内での位置づけの重要性」と「スウェーデンの環境相のそれ」との間には大きな落差があることがわかります。この落差は「環境問題に対する基本認識」の相違に基づくものだと思います。
この内閣改造が1990年、つまり20年前だったことが重要です。20年後の今なお、そして、政権交代がなされても、日本では
「強固な縦割り行政」が“継続(持続)し”、問題の解決を妨げています。気候変動への対応のような具体例でも、日本の環境省と経済産業省の間には協力関係が成り立っているようには見えません。
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