写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

江戸城本丸跡を歩く

2015-05-03 21:19:47 | 大江戸の風景

江戸城本丸跡(東御苑)
平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて武蔵野国を治めた鎌倉幕府の御家人江戸氏の館跡で、江戸氏が没落後は扇谷上杉家家臣の太田道灌が江戸城を築城しましたが、堀を巡らして橋を架けて門を設けた簡素な城郭であったと言われています、その後、内紛により太田道灌が上杉氏に滅ぼされて同氏の居城となったが、その上杉氏が北条氏に滅ぼされ北条氏の支配下となりました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏を滅ぼし、駿府にいた徳川家康に関八州を含んだ北条氏の旧領を与えました、一説によると猜疑心の強かった秀吉が家康を警戒して都から遠い武蔵野国に追いやったとも言われています。
なお同年8月1日に家康が江戸に入った事から8月1日は八朔として江戸時代を通して祝日として特別な日になりました。
家康の居城となった江戸城は道灌築城時のままの質素な城構えであったが豊臣家家臣の立場から大規模な改修を控えていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で勝利以降は武家の頭領「征夷大将軍」として、全国の大名を総動員させて本格的な江戸城の「天下普請」に着手しました。
慶長8年(1603)に城の前まで迫っていた海(日比谷入江)を神田山を崩して埋め立てるなど、万治3年(1660)まで数度に渡って普請工事を行った結果、本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区、新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた広大な城郭を構え、以降200年に渡って徳川幕府の中核として機能しました。
江戸時代は頻繁に火災が発生しており、明暦3年(1657)の大火は江戸城の多くを焼き尽くして天守閣を崩落させました。(一部Wikipediaより抜粋)

                                                               


                          
                                          現在、東御苑への入口である大手門も江戸時代は御三家、譜代大名はここから登城しました(外様大名は桔梗門から入城)

 
                                                  
                 ガイドブックに載っている為か、外国人の観光客が多い 
      

         
            御苑入口、ここで入園札を貰います(入園は無料)                                                 同心番所、御三家以外の大名はここで駕籠を降り徒歩で本丸に入りました


                   
                      一般者立ち入り禁止の皇宮警察エリア                                                                       

                                        
                                                                                                      ツツジの花が満開
                      

                                                  
                                         百人番所、鉄砲百人組と呼ばれ大手三の門を警備した検問所、根来、伊賀、甲賀、廿伍騎組の4組が交代で詰めていた、各組与力20人、同心100人が配置されていたそうです


                                        
                                                                                                             江戸時代と現代の建築物がコラボ



      
                                                                      本丸に続く中之門跡、門を入ると緩やかな上り坂が続き中雀門に至る
 

    
                                                                             同心番所、百人番所より格が上の同心が警備した大番所


                                   
                                            中之門から百人番所越しに大手町のオフイスビルをのぞむ、ビル街も江戸時代は高家の大名屋敷が軒を並べていた場所でした    
         

           
                                                                   中之門、大番所を過ぎたところにある本丸前の中雀門跡、門の遺構が残っていた


                                                     
                                                                              明暦の大火で延焼を免れた富士見櫓、現存する三櫓の一つ
                                          
本丸
徳川幕府の中枢機関、役人が実務を行う「表」、将軍が執務する「中奥」、 将軍が私的生活をする「大奥」に別れているが、大奥が本丸総面積の半分を占めていた。
「表」は老中、若年寄、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目付など幕府の役人が詰めて事務を行っていたが、彼らは朝四ツ(午前10時)に登城、昼八ツ半(午後3時)に下城が当時の勤務時間。
なお時代により増減があるが将軍の私的空間で、世継ぎを残す役割を担った大奥にはピーク時には3,000人の女性が居たと言われ、大奥経費が幕府総予算の60%を占めたという説もあります。

 


                                                                                                           (http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htmより転載)

       
                                                                                  本丸跡、広大な敷地は現在、緑地帯となっている

     
                                              
                                                将軍の接見が行わる大広間と白書院つないだ「忠臣蔵」で有名な松の廊下跡、江戸城内で2番目に長い廊下だったそうです
                                  
                      
                            明暦の大火(1657)で焼け落ちた天守閣は、時の四代将軍家綱が再建を考えたが、叔父で後見人であった会津藩主保科正之の「戦が無い時代に天守は不要」いう」言葉で再建を止めたと言われます


                         
                                                                                                                                                                                本丸のレイアウト図


                                  
                    天守台からみた北桔梗門                                 音楽堂(桃華楽堂)                                          大手町ビル群


                                            
                                                           2020年の東京オリンピックまでに天守を再建したいという動きもある様だが、歴史的遺産としてこのまま残すべき


                       
                                          本丸から二の丸に続く汐見坂、江戸時代はこの坂から江戸前の海が見えたそうです
二の丸
将軍が政務を離れてくつろぐ御殿、庭園がありました、現在は庭園のみ残されている。


            
                                      汐見坂から見た白鳥濠                                    二の丸庭園入口


     
                                                                                                諏訪の茶屋

                           
                                        小堀遠州作と言われる回遊庭園                                            庭園内にある藤棚

                                 
                                                                                                  紫と白の藤が見事
                                              

                                             


                                              
                                                                                         竹林とツツジ


                                        
                                  東御苑を出ると大手町のビル街、正面右は改築されたパレスホテル   


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-10-11 08:27:59
無断転載はいけませんよ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-02-16 11:16:53
記事、中ほどにある本丸図は無断転載ですので削除下さるようお願いします。
返信する

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