急な案内であった事もあってか、5月19日(日)の撮影会に参加出来たのは4名、午前10時、東葉高速鉄道八千代緑が丘駅に集合してバラ園までは15分歩きました、天気も良く絶好の撮影日和でした。
京成バラ園
30,000㎡の園内に1,500品種、10,000株の薔薇を育成し、新しい品種改良に取り組んでいる国内有数のバラ園です。
休日で天気が良いため多くの人が訪れていました、バラ園の外では即売も行われていました
入場料は¥1,200.-と安くありませんが、コスパ的には納得でした
園内に入ると柵の中に「ディズニーランド ローズ」という品種が咲きだしていました
百花繚乱
気に入った品種 ブラック ゴールド
「聖火」 「メリナ」
「ベビーロマンティカ」
「マルコポーロ」
桂由美の名前がついた「ローズ ユミ」 「ラベンダーピノキオ」
シャルル ドゥ ゴールと言う品種、これも気に入りました
25日に「ベルばら」イベントが行われ、5つの新種が発表されるそうです
約2時間、園内のバラをレンズで切り取った参加者4名
毎回、撮影会終了後の昼食は旨い蕎麦と決めているのですが、残念ながらこの辺りには蕎麦屋が無く、駅に戻って和食レストランで昼食をとりました
資料館では江戸時代の後期、家斉が第12将軍であった天保期の深川佐賀町の庶民の暮らしを再現していました、この時期の江戸の人口は100万(町人50万、武家50万)、江戸府内(朱引き内)の面積のうち、60%が武家屋敷、20%が寺院、残りの20%に町人が暮らしていました。
なお住居は町人の7割が裏店(長屋)の暮らしだったと言われています。
江戸の町管理は老中支配下の南、北町奉行(1702~1719の間だけ中町奉行所が設けられていた)の与力50人、同心250人が月替わりで担当、その管理下に町年寄(奈良屋、樽屋、喜多村の3家が世襲制で務めた)⇒名主⇒月行事と言う支配系統が出来ていて行政、司法、警察の機能を執行していました。
一方、寺社のトラブル処理は寺社奉行、大名は老中、旗本・御家人は若年寄の管理下にある為、町奉行が手を付けることが出来ませんでした。
鬼平で有名な「火付け盗賊改め」は本来、臨時の役職で幕府常備軍である御手先組頭が加役として兼任、町奉行所で対応出来ない火付けや重罪犯を対象とした取り締まりを行っていました、奉行は文官であるのに対して火盗改めトップは軍人で、その取り調べは厳しかったと言われています。
資料館近くに紀伊国屋文座門の墓所(碑)がありました
清澄庭園近くにある江東区営の施設です
資料館に入ると実物大の町屋が造られていました。
江戸は八百八町と言われるが、江戸後期には人口の増加で1,700町あったと言われています、町の構成は基本的に京間で60間四方の広さで、通りに面した表店(商人の店舗)と裏に長屋(裏店)がありました。
各町には不審者の侵入を防ぐ為の木戸があって明け六ツ(午前6時)に開門、夜四ツ(午後10時)に閉門されます、更に裏長屋に入る所に裏木戸が設けられていました、資料館にはありませんでしたが町木戸脇には番人が住み込んでいた木戸番と自身番、火の見櫓があり防火と治安の維持を計っていました。
江戸に多いものとして「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど稲荷信仰が広がっていて、武家屋敷、表店、裏店を問わずお稲荷が祀られていました。
『水事情』
江戸は埋め立て地が多く、井戸を掘っても塩水で飲めない地域が殆どで、幕府は江戸開府以降、井の頭池から引いた神田上水、多摩川から取水した玉川上水など、水道を開削して江戸市中の地下に木樋を張り巡らせて給水していました、地下水脈を利用した掘り抜き井戸と違って川の水の為に衛生的でないので煮沸して使っていたと思われます。
一方、深川など隅田川以北には水道が通っていなかった為、水を売り歩く水屋から買う必要がありました。
水の価格は1荷(天秤に桶を2つぶら下げて運ぶ量・約16貫(60kgs)で4文(約100円)、水売りは上水から放水された水を汲んでいたので原価はゼロ、固定客を持っていたので商売として成り立った様ですが、体力が勝負の商売でした。
長屋のお稲荷さん 共同井戸、毎年7月7日は長屋総出で井戸さらいを行います
江戸時代とはエコが徹底され、着る物は普段は古着(柳原土手などに古着市場があった)、壊れた物は修理して使い、捨てる物が殆ど出ない社会でした、糞尿も肥料として農家に売られました。
ゴミ箱も長屋共用、再生不可能な物だけ捨てられていました
共同トイレと内部、長屋では糞尿を売った金は大家さんの副収入、大名屋敷の糞尿は栄養価が高かった為、高く買われたそうです
『裏店(長屋)』
長屋は2軒の世帯が背中合わせに住む「棟割長屋」と横に連なる「割長屋」があり、1軒の広さは①九尺二間(2.7m x 3.6m)の場合、土間(台所・竃など)が1.5畳ある為、居住空間は4畳半の広さと②九尺二間半が標準でした。
割長屋の九尺二間の部屋、布団は枕屏風で隠されています(木場の木挽職人の部屋で夫婦二人暮らしの設定) 土間
長屋住まい住人の持ち物は布団、衣服、火鉢、小箪笥、鍋、釜、小物など生活できる最小限度の家財道具が標準
棒手振り
江戸市中には、商店が少なく、棒手振りから食品、日用雑貨、嗜好品などを買うのが一般的でした、棒手振りは明け六つ(午前6時)に長屋を出て売る物を仕入れて市中を売をり歩きました、文政年間の棒手振りの一日の売り上げは1100文、仕入れは700文、利益400文と言われており、家賃、食費、雑費等を差し引くと130文が残る計算になります。(一文は約20~25円)
棒手振り政助さんの部屋の設定
畳は無くゴザ敷きの部屋、6畳の部屋は1.5畳の土間と4畳半の部屋が一般的な間取りです
棒手振り政助さんの商売道具
三味線の師匠の部屋は九尺二間半の広さ、読み書き、手習い、裁縫も教えています
女性の一人住まいの設定です、江戸時代の男女比率は6:4で男性が多かった
二八蕎麦(屋台)、小麦粉2:そば粉8という意味や価格が16文(2x8)の為と諸説ありますが、安くて手頃な蕎麦を言います
屋台の天麩羅屋、店舗を構えて天麩羅を出すようになったのは幕末以降 当時の天麩羅は串に刺して揚げていました
茶店
寺社の境内や両国広小路など火避け地等に茶店があったが、夕方店を畳める様によしず張りの簡易な造りでした。
茶代以外に場所の提供、煙草盆を出すと言ったサービスで最低4文(約100円)が相場でした
お茶と団子などの軽食も提供
八百屋、農家から仕入れた野菜が並んでいます、店は表長屋で二間 x 四間半や三間 x 4間半の貸家が3~5軒が連なり、2階が住戸でした
竈と流し台 棒手振りから買った材料では凝った料理は無理だと思います
町と町の境界には木戸があり、脇に木戸番小屋と自身番小屋がありました 火事が頻繁に発生する為、防火用水は必須です
木戸横には潜り戸があり、帰りが遅くなり木戸が締まって家に帰れない者は木戸番に理由を伝えて中に入りました
稲荷ずしの屋台、当初は揚げ寿司と言われ、現代の稲荷ずしの倍の大きさで、ファストフード的な食べ物でした
表長屋の米屋、米問屋から仕入れた米を唐臼という足踏みの精米機で精米して売っていました
米蔵
船宿升田屋の設定、猪牙船を使い人や物資を輸送しますが、飲食や宴会が出来る小料理屋を兼ねています
三陸鉄道(http://www.sanrikutetsudou.com/)
松島ー石巻ー南三陸温泉(泊)ー陸前高田を回り、大船渡・盛駅から終点の釜石まで三陸鉄道南リアス線(36.6km)に乗車しました、残念ながら「あまちゃん」の舞台になったのは北リアス線の久慈が舞台でした。
2011.3.11の大震災で三陸鉄道の線路は分断され2012~2013にかけて部分的に復旧していましたが、両線共に復旧工事が終わり、今年4月に全面開通しました、永く不便な思いをしていた地元住民にとっては待ちに待った開通で、当日は盛大なセレモニーが行われました。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/04/sanrikutetsudou_n_5095184.html
乗ってきたバスは釜石まで回送され、ツアー客は盛駅から三陸鉄道に乗車します
南リアス線4月5日全面開通 三陸鉄道始発駅の盛はJR大船渡駅に併設されています
観光客が乗車を待っています
線路をまたぐ跨線通路には開通を待った子供たちの手袋が吊るされていました
三陸鉄道時刻表 JRのBRT(バス ラビット トランジット)時刻表
JR大船渡線のBRT(線路を撤去してバス用に改修して専用レーンとなっていました)
盛駅で出番を待つ車両
大震災の後、クウェイト国から新型車両3両が寄贈されました
線路右の通路がBRTの専用走行レーン 女性の車掌さん、ガイドさん
昼間の運行間隔は2時間に1本、13:40の釜石行に乗車、次は16:18までありません
クウェイト国から寄贈された新しい車両はほぼ満席
乗客は地元住民と観光客は3:7の比率、発車後、乗客全員にお茶のサービスがありました
三陸鉄道の法被を着た女性(ボランティア?)が車内販売用のお土産を積み込んでいました
途中の「恋し浜駅」で3分間停車、この駅は「小石浜」と言われていたが2009年に地元の小石浜で獲れ販売されていたホタテブランド「恋し浜」にちなんで名づけられたそうです、無人の駅舎には多くのホタテを絵馬にして吊るされていました。
3.11の震災時は駅舎が高台に位置していた為、津波の被害は免れたが線路の路盤が流されて4月の全面開通まで使われる事はありませんでした。
駅名表示 観光案内板の枠を利用して「幸せの鐘」がありました
3分の停車時間の間、観光客はホームに出て写真撮影や駅舎内を見ていました、ローカル線ならではののどかな風景です
車内販売は主に地元の海産物でした
法被姿の女性が観光客に乗車のお礼として歌と踊りを披露
車内の運賃表示 海浜部の山間を走る為、トンネルが多い
唐丹駅で盛行きの車両を待っています
終点の釜石着 お見送り
車両側面に「クウェイト国からの支援に感謝します。」の表示と国旗が描かれていました
車内販売で買ったぶりの味噌煮缶詰 記念乗車証明書
三陸鉄道は岩手県と地元自治体が運営する第三セクター鉄道です、震災前は慢性的に赤字が続いており人口流出などで地元客だけでは経営が成り立たず、観光客の誘致を勧めています、現在は「あまちゃん」ブームや東北復興ムードに乗り、順調な出足の様ですが、持続的な観光客誘致プランが求められます。
(一日目)
4月29日、東京駅7:32分発やまびこ125号で出発です、ツアー参加者は41名、H氏は大宮から乗車しました。
仙台からは観光バスで各地を巡りました
松島
ここも東北大震災の津波の影響を受けて大きな被害を出していますが、観光地の為か、表面的には傷跡は見当たらないが、通りに面した多くの建物は新築されていました。
松島は2度目の訪問です 島を巡る遊覧船乗り場
大堂2年(807)に建立された五大堂(毘沙門堂)、伊達政宗が再建しました
この日も多くの観光客が訪れていました
昼食は笹かま屋さんのレストランで
福浦島をつなぐ橋の上の二人
瑞巌寺への入口 山門
この遊覧船で島を巡りました 海側から見た五大堂
大震災は多大な被害を与えましたが、唯一救いとなったのは、津波より海底が撹拌されて沈殿していたヘドロが流されて、海がきれいになった事だそうです。
カキの養殖棚 わかめの養殖棚
波状の岩、風で削られたそうです
西行戻しの松公園 H氏
西行戻しの松公園から見た松島湾の島々
南三陸ホテル観洋
震災後、復興の拠点、その後は被災者の第二次避難所の役割を担っていましたが、今年からホテルとして再開業しました。
南三陸町の市街地から少し離れた志津川湾に面して建っています
震災時は2階まで津波が押し寄せたそうです 新装後間もない為か館内はピカピカ
ロビーから志津川湾が一望できました
湾越しに南三陸町市街地が見えます
湾内にはワカメ、ホタテ等の養殖棚が整然と並んでいました、特に「志津川ワカメ」は国内有数の品質だそうです
ワカメの収穫中
客室前のテラスに来た丸々と太ったカモメ
夕食です ビールとワインを注文、H氏は殆ど飲まない人
アワビのステーキ付きです 翌朝の朝食はビッフェ
(二日目)
昼食は気仙沼の産直センターに併設のレストランで海鮮丼を食べました
気仙沼市内遠望
気仙沼の碁石海岸・穴通磯
三つの洞門を持つ奇岩・穴通磯
三陸鉄道釜石駅のモニュメント JR釜石駅、閑散としていました
新日鉄住金釜石製鉄所、ラグビーの名門でした 駅前交番の上にコンビの看板がある様に見える
最後の観光は宮古市の景勝地「浄土ヶ浜」
誰が見たのか極楽浄土の風景を思わせる景観だそうでした
剣の山
浄土ヶ浜観光終了後、バスで盛岡へ
盛岡発午後7時50分発こまち36号で帰路につきました
夕食は盛岡駅で買った駅弁+ビール
北の彩弁当は海鮮盛りだくさん 新幹線のコンセントでスマホに充電中
三陸鉄道南リアス線踏破は(3)でアップします
石巻
復興を支援する為の仮設マーケット「石巻マルシェ」と大津波の被災状況を手書き新聞で報道した石巻日日新聞を展示している「絆の駅」を回りました。
観光客を対象として地元の海産物などを販売しているマーケット
所々に廃屋が見られます
地元の新聞社である石巻日日新聞の展示がある絆の駅・石巻NEWSee、新聞社が津波で破壊されて社員が毎日手書きの新聞を出して当時、注目を集めました。
2011.3.13に書かれた新聞 マルシェ近くに碑が建てられていました
陸前高田
海岸に植えられていた10万本の松並木が津波で流されて唯一残った「松の木」も残念ながら塩害で枯れてしまいましたが、地元からの「鎮魂・希望・復興」のシンボルとして人工的な処理を加えてモニュメントとして残されました。
荒涼とした風景の中に立つ「奇跡の一本松」、背後は津波に破壊された建物
観光客用の駐車場から10分ほど歩きました 「奇跡の一本松」献花台
すさまじい津波の破壊力 陸前高田の沿海部は大規模なインフラ工事が行われています
高台に建設する宅地用の土を運搬する巨大なベルトコンベア 説明はいりません
沿海部には、まだ破壊された建物が残されていた、右の小学校では津波が建物前部の窓から入り、後部の窓から抜けていったそうです
あれから3年、さすがにかれき、廃材は無くなったが、復興はあまり進んでいない印象です
鉄橋も壊れたまま、復旧はいつになるのか 沿海部の丘陵地帯を走る道路
背後の美しい風景も、更地となった土地から見ると痛々しい
ここにも多くの人々の生活があったはずです 稼働していない重機が目立った
丘陵にある住宅は被災を免れていたが、その先は何もない 震災後の宅地には3年経って草が生えだしていました
南三陸町
15.5mの大津波により多くの命を失った南三陸町防災対策庁舎
南三陸ホテル観洋
今回のツアー客が泊まったホテルです、南三陸町市街地から少し離れた志津川湾に面して建っており、震災当日は2階まで津波が押し寄せたそうです、350名の宿泊客は全員避難して無事でした。
休業したホテルはその後、停電が続く中でボランティアや医療チーム、復旧関係者の拠点となりました、電気が通じたのは約1か月後の4月15日です、5月5日から被災者の二次避難所、復興の為の作業者を受け入れており、ホテルとして客を受け入れ始めたのは今年になってからだそうです。
ホテルロビーにあった3DTV、災害の状況が流されていました
映像に見入る観光客 ホテルロビーには励ましの書き込みがありました
被災時の写真が掲げられていた
瓦礫・廃材で作られたアート、華道家前野博紀の作品です
松島に建てられていた慰霊記念碑 南三陸のホテルに貼られていた案内
一日も早い復興を祈念しています。
三陸海岸ツアーは(2)にアップします
「鬼平江戸処」
道路公団が民営化されて以降、高速道路の各PAは大幅にリニューアルされ、きれいになりましたが、どこも似たような造りですが江戸時代をコンセプトにした羽生は「個性」の極みでしょう。
池波正太郎ファン、ましてや「鬼平」とあれば寄らざるを得ません。
PA全景
下り線にはありません 昨年12月19日にオープンしていました
話題性がある為か、駐車場は満車でした 関所風の入り口、奥はトイレです
入り口には「振り売り」用の天秤棒や、町人が住んだ9尺2間の裏長屋の土間にあった水瓶が雰囲気を作っている
外観は江戸時代の町屋を忠実に再現していました
PA内に入ると各店共に時代を意識した造りでした
火付盗賊改め長谷川平蔵が贔屓にしていた軍鶏鍋屋「五鉄」までありました
古色然とした高札までありました