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4月14日、浅草観音うら一葉まつり「江戸吉原おいらん道中」が地元町内会、まつり実行委員会主催で開催されました。
浅草寺裏の一葉小松橋通りの2ブロックが会場です。
当日午前中は地元小学校の吹奏楽演奏、ステージシショー等が行われ、メインイベントの「おいらん道中」は午後1時から往路の「見世→引手茶屋」道中、ステージショーの後、復路の「引手茶屋→見世」道中が行われました、道中が行われた約3時間、道路両側は見物客でいっぱい、特に外国人の姿が多く見受けられました。
江戸の歴史・文化に興味を持つ者として、午前中は「花魁」に所縁のある、「吉原神社弁財天」、「吉原神社」を訪れました、元和3年(1617)に日本橋葦屋町(現在の人形町)に造られた公許の遊郭「吉原」は明暦3年(1657)の大火で焼失、再建の地として幕府から浅草寺裏の浅草田圃に移転を命じられ、以降1945年の太平洋戦争敗戦により GHQから公娼廃止の指令が出るまで「新吉原」は遊郭として存続し、その後廃止となったが、1958年の売春防止法施行まで新吉原は「赤線」として存続していた、なお江戸時代に造られた新吉原の街並みは今日でも、そのまま風俗街として残されています。
吉原神社は遊郭内にお祀りされた稲荷神社と吉原弁財天を合祀した神社で、約3,000人いたと言われる遊女達の篤い信仰を集めたと言われます。
午前10時から行われたオープニングセレモニー、台東区長、区議会議長等があいさつ
浅草寺の裏手にある町、割烹等、昔からの店も多くあります、この日は一年で一度の晴れの祭りを開催
地元も小学校の子供達が造花の桜の花を持ってパレード(残念ながら今年は桜の開花が早く、この日は葉桜)
全国吹奏楽コンテストで金賞をとったと言う地元、富士小学校の吹奏楽パレード
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午後1時近くなると「おいらん道中」が通る一葉小松通り2ブロックの沿道は見物客でいっぱい
道中の先導は遊里の女性の哀しい人生を唄い上げる三味の「新内節」
吉原では古くから狐が信仰されていた為、「狐舞」が12月31日や年始に行われた、舞うのは「吉原狐社中」
前座として大神楽曲芸協会の獅子舞と曲芸が雰囲気を盛り上げます
「おいらん道中」
見世ー引手茶屋(往復)の道中を先導するのが「金棒引き・露払い」、金輪がついた金属製の棒を鳴らしながらゆっくりと歩きます、その後ろに続くのが手古舞と言われる女性陣たち
花魁の衣装代は大夫一名で¥10,000,000・-と言われます、当地の「おいらん道中」の衣装と歌舞伎で使われる衣装のみが実物で、各地で行われる「おいらん道中」の衣装はイミテーションだそうです。
吉原神社の提灯が先導
藤波太夫
象潟太夫
先頭を歩くのが花魁見習いの「禿(かむろ)」と言われる幼女
花魁は左の「肩貸しの男衆」の肩に手を置いて歩く、花魁の後ろで傘を持つのは「傘持ちの男衆」
花魁の歩き方は元吉原時代は内八文字、明暦の大火後の新吉原以降は外八文字にかわったと言われる
手古舞の女性
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花魁の象潟太夫 禿(かむろ)が成長して花魁一歩前の「振袖新造」になります
禿、手に持つのは花魁の煙草盆
江戸時代後期、吉原の町内で繰り返された「おいらん道中」、最高位の花魁と遊ぶには最低3回通うのが条件で最低10両(100万円)が必要と言われた
この日は花魁道中は見世から引手茶屋模したステージで「江戸吉原粋花街乃舞」などを行い、午後2時45分から見世に戻る「おいらん道中」復路が行わました
新吉原遊郭
明暦の大火以降、隅田川沿いの田んぼだった日本堤(浅草田圃)に造られた「新吉原」、四方を「おはぐろどぶ」で囲まれ、入り口は大門一か所と言う隔離された歓楽街がつくられ、最盛期には3,000人を超える遊女を抱えていたと言われる、吉原の遊女には格付けがあって最高位が太夫と言う花魁、美貌だけでなく教養、芸事の才が求められ、花魁を身受けするには現在の価値で数千万円が必要と言われた。
妓楼は通りに面して張見世と呼ばれる座敷があり、一般的には居並んだ遊女を格子越しに見て相手を決めることが出来た、揚げ代はピンキリで金一分から一両一分(¥25,000~¥125,000)
吉原に居る女性達は自分から希望して遊女になった者はおらず、①農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を売る、②貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を売る、③不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を売る、④悪い男にダマされて若い娘が売られる等、様々な哀しい条件下で、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡したと言われる。
身売りの金額はピンキリだが農村部で3~5両(30万~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があるが、いずれにしても、本人の意思に関係なく、半強制的に身売りさせられた哀しい境遇下の女性達でした。
吉原の遊女は年齢27歳まで、年季は10年が原則だが、年季を待たずに亡くなった遊女の数は2万人とも言われ、その多くは国元には返されず、遊郭近くの浄閑寺の門内ににコモに包まれて投げ込まれたと言われ、「生まれて苦界、死して浄閑寺」と言う言葉が残されています。
新吉原は「おはぐろどぶ」と言う堀に囲まれた2万坪の広大な土地に京町1、2丁目、江戸町1、2丁目、仲之町、揚屋町、角町造られ、北町奉行所が管轄しており、当時、江戸で一日千両落ちる場所として「芝居の猿若町」、「魚河岸の日本橋」と並んで「新吉原」があげられました。。
一方で、多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、新吉原遊郭は女性のファッションや髪型等の発信地となって江戸の女性に影響を与えたのも事実です。
吉原神社弁財天
吉原神社弁財天(奥宮)、こじんまりとした佇まいながら荘厳な雰囲気、遊女たちの慰霊碑が建っている
慰霊碑 花吉原名残の碑
吉原神社、奥宮から少し離れたところにに鎮座
吉原遊郭の妓楼(幕末期)
『今戸箕輪浅草絵図』(嘉永六年)に見る新吉原周辺
江戸切絵図に見る新吉原、四隅に「稲荷」が祀られている
吉原神社及び吉原氏子全図(時代は不詳)
初期の頃に見物しましたが、一層はなやかで賑やかになっています。
こちらは、かなり細やかに撮影されています。
いちおうリンクさせていただきました。不都合でしたら申しわけありません。