美女平ー立山―宇奈月
天狗平(2400m)からバスで美女平(977m)に下り、ここから立山(475m)までケーブルカーで7分乗車、その後バスに乗り換えて黒部渓谷鉄道の起点である宇奈月に向かいました。
ケーブルカーは美女平ー立山間を7分で結びます
宇奈月ー欅平
黒部渓谷は北アルプスのほぼ中央の鷲羽岳に源を発し、長さ86km、標高差3000mを流れ下る黒部川の上流、中流域に切り立った深いV次渓を形成する大渓谷です。
鉄道は黒四ダムから流れ出た黒部川沿いの20.1kmを1時間10分でかけて走ります、この鉄道は当初、関電のダム建設の為の物資、人員を輸送する専用鉄道でしたが、その後、渓谷の自然を求める地元の要請があり昭和28年(1953)に鉄道営業の免許を受けて地方鉄道法による営業を開始、多くの観光客の目を楽しませています。
なお、営業路線ではありませんが、欅平から黒部ダムまでの間には業務用の線路が引かれており不定期ながら電車が走っているそうです、数年前、NHKの紅白で中島みゆきが歌った「地上の星」はこのトンネルから放映されています。
http://www1.kepco.co.jp/media/nhk/
渓谷への出発地「宇奈月」
富山地方鉄道の起点でもあります
トロッコ列車、窓なしの車両と一般車両が連結されています(一般車両は520円プラス)
列車は何か所ものトンネルをくぐり、渓谷に沿って走ります 対向列車との擦れ違い
お猿さん専用のつり橋、人間は渡るのは無理です
出し平ダム 黒部第二発電所
渓谷沿いに電車が走ります、単線の為に何度か対向列車の待ち合わせがありました
終着駅の欅平
紅葉の時期には少し早く、渓谷もイマイチで撮影意欲が湧きませんでした
立山室堂
立山連邦の頂上の雄山(3003m)、最高峰の大汝山(3015m)、真砂岳(2861m)、別山(2880m)、剱御前(2777m)、剱岳(2998m)が一望できる室堂平(2450m)は室堂バスターミナルを中心として「みくりが池」、「地獄谷」、「みどりが池」を一周できる遊歩道が整備されており、立山連邦を目指す登山道の起点でもあります。
室堂平には一般車両は入ることが出来ません、バスが唯一の交通手段です。(4/10~11/30の期間)
前日に初雪が降ったこともあってか、この日の気温は10度前後でした、なお室堂平の酸素量は下界の70%、ここで酒を飲むと酔いが回るのが速いそうです。
室堂(2450m)- 天狗平ー弥陀ケ原ー美女平(977m)間を運行しています バスターミナルから見た立山連邦
中部国立公園「立山」の標示を背景に一枚、後部が立山連邦頂上の雄山 雄山から続く連邦の山並み
遊歩道が整備された室堂平 下界は雲の下
山麓の池塘 白煙をあげる「地獄谷」、硫黄の臭いがします
立山連峰頂上がある雄山、頂上に山小屋が見えました、室堂平との標高差は553m
例年であれば紅葉が始まっている時期ですが今年は遅れていました 雲間からの陽が山肌を照らしています
昨日降った初雪がわずかに色づいた木々にその名残を残していました
みどりが池、草葉に雪が残っていました
雄山を背景にした「みどりが池」
山影を映す「みくりが池」
みくりが池の淵に咲いていた花に雪が積もっていました
日本最古の山小屋「室堂」、享保11年(1726)建造と伝えられ、立山信仰を今に伝えています
遊歩道際に現れた「ライチョウ」
剱岳とホテル
室堂平から美女平ー立山に向かうバスで5分、天狗平(2400m)で下車、歩いて宿泊先の「立山高原ホテル」に向かいました。
ここからは剱岳が正面に見えます。
山小屋風のホテル、奥に見えるのがが剱岳(2998m) 夕刻に小雪が降り出し気温が一気に下がりました
ホテルの浴場は温泉でした
レストランから剱岳が見える絶好のロケーションにホテルがあります
立山の日の出
宿泊翌朝午前6時、ホテルから歩いてビューポイントで立山連邦から昇る日の出を待ちました、ホテル前の道路は冬場に積雪が8m以上になります、除雪車によって吹き上げられて20mの雪の壁の間に出来た道路「雪の大谷」を通るバスは毎年春を告げるニュースとして報じられます。
石に守られた道祖神 水たまりには氷が張っていました
凍った草花
午前6時30分、雄山から陽が昇りました
剱岳にも陽が当たり始めました
厳しい岩肌の剱岳
7月には一面チングルマ等のお花畑になるそうです 眼下は雲海
早朝の雄山、麓にある建物はホテル立山、白いくぼみは残雪 美女平からバスが登ってきました
日の出を見た後、ホテルに戻って朝食を摂り立山経由で黒部渓谷へ バスは標高差2000mを50分で下ります
雲海から顔を出している遠方の山は「白山」 天狗平バス停、これから山を下りて美女平に向かいます
扇沢~黒部ダム~大観峰
立山黒部アルペンルートは長野と富山から入る事が出来ます、今回は長野県側から入りました。
このルートはトロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイと様々な乗り物に乗り換えて黒部ダムから立山室堂を経て富山県立山に至ります。
ルートの起点である扇沢、この日の天気は快晴、紅葉の時期に少し早い為か観光客の数も程ほどでした
扇沢から黒部ダムを目指しました、乗り物はトロリーバスで乗車時間は16分
黒部ダム
昭和31年8月に建設を開始、38年6月竣工した関西電力黒部ダム(黒四)は171名の犠牲者を出した世紀の難工事で、その間の辛苦は三船敏郎や石原裕次郎が出演した映画「黒部の太陽」にもなっています。
黒部ダム駅着、220段の階段を昇ると展望台に出ます
展望台から見たダム、放水が圧巻です
ダムの標高は1,454m、ダムの水深は161m
この時期は午前7時~午後4時半まで放水されています、2か所の放水口から大量の水が噴き出していました
放水された水が2本の虹を作っていました
展望ステージから見た放水 殉職者慰霊碑
ダム上の歩道を歩いてトンネルに入るとケーブルカー黒部湖駅(1455m)です
黒部平駅(1825m)でロープウェイに乗り換えました、黒部ダムでは快晴でしたが、ロープウェイに乗ると一転、雨に変わりました
ロープウェイから見た景色 大観峰駅(2316m)着 雨は止んでいましたが視界は無し
天気が良ければこのパネルの様な景色が広がっているはずでした トロリーバスで室堂(2450m)に向かいます
富山方面と長野方面への時刻表
四ツ谷駅で下車、新宿方面に歩ききました。
須賀神社
江戸時代から四谷18町の総鎮守として親しまれ、寛永20年(1643)に神田明神社内にあった須佐之男命を合祀して四谷天王社と呼ばれていましたが、明治になって須賀神社と改称されています。
なお社殿には天保7年に描かれた「三十六歌仙絵」が掲げられており新宿区の文化財になっています。
住宅地の中を歩き階段を上ると神社がありました
本殿の左右に三十六歌仙の歌と肖像が掲げられています 「天王社まつり」にかつがれる神輿を収めた蔵
本性寺
千葉県松戸にある「本土寺」の末寺、寛文10年(1670)に建立されました、山門と毘沙門堂は元禄期のものと言われております、毘沙門堂に安置されている「毘沙門天像」は江戸城本丸にあったもので五代将軍綱吉の側室春龍院の寄進により当寺に移されたと伝えられています。
毘沙門堂
山門 江戸時代の国学者萩原宗固の墓があります
陽運寺・於岩稲荷田宮神社
文政期に活躍した 鶴屋南北作の歌舞伎演目「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷」とも呼ばれています。
本堂にはお岩様の木像が安置されており、境内にはお岩様ゆかりと言われる井戸がありましたが、四谷怪談の基になった実話については、1827年に記録された文書が残されており、それによれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿に嫁いだが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後田宮家で変異が相次いだ為、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものです、歌舞伎の演目となった「東海道四谷怪談」は鶴屋南北がその後に創作したもので東海道に四谷が出てくるはずがありません。
なお、「東海道四谷怪談」が興業する際には歌舞伎役者、関係者が安全と成功を願って必ず参拝に訪れるそうです。
陽運寺山門 お岩さんゆかりと言われる井戸
陽運寺のはす向かいに於岩稲荷田宮神社がありました
内藤新宿
慶長9年(1604)、幕府によって日本橋を起点とした街道整備が行われました、他の街道は日本橋から2里の距離に最初の宿場(品川、千住、板橋)が設けられておりましたが、甲州街道最初の宿場は4里離れた高井戸でありました。
日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は距離が長い為に負担が大きく、2里の地点に宿場設置が求められておりました、元禄10年(1697)浅草安部川町の名主高松喜兵衛など5名が幕府に「新しい宿場」設置を願い出ました、幕府は翌年6月に5600両の上納金を条件に宿場設置が許可されました。
宿場予定地には信濃高藤藩内藤家の中屋敷、旗本屋敷などがありましたが、これらを幕府に返上させて宿場建設が始まり元禄12年に「内藤新宿」が出来ました。
浅草の商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発して利益を上げる計画だったとする説が有力です。
なお繁栄を極めた宿場も享保3年に廃止されております、宿場開設から20年足らずで「新宿」はその役割を終える事となり、再び高井戸宿が甲州街道最初の宿場となりました。
廃止の理由は「甲州街道は通行量が少なく、新しい宿でもあるため」不要というものですが、この時期は8代将軍吉宗による『享保の改革』が行われていた時期で「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていたこともあって宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は風紀取締りの一環として廃止されたと伝えられています。
なお、現在の新宿御苑は信州高藤藩内藤家の中屋敷跡です、宿場は玉川上水の水番所が置かれていた「四谷大木戸」から現在の新宿三丁目付近までの街道沿いに広がっていました。
歌川広重「内藤新宿」 往時の宿場模型(新宿歴史博物館蔵) 四谷4丁目交差点にあった標示
四谷四丁目交差点脇にある「四谷大木戸跡」の碑 「四谷大木戸跡碑」の隣に「玉川上水水番所」の碑があります
玉川上水は多摩川の羽村で取水され、この四谷から石樋、木樋で地下を通して江戸市中に水を送っていました、水の管理は「番所」が行っていました
新宿追分
新宿三丁目が追分(甲州街道と青梅街道の分岐)でした、交差点周囲に記念碑や案内があるかと探しましたが、それらしき表記はありませんでしたが
交差点脇に「追分だんご」のお店とバス停にその名残がありました。
「追分だんご」の店 新宿三丁目交差点、左手奥が「伊勢丹本店」 新宿駅も間近です
都バスの停留所名に「新宿追分」の名残がありました JR線ガードをくぐるとあの懐かしい飲み屋街「思い出横丁」が健在でした
熊野神社(十二社権現)
新宿副都心の高層ビル街を抜けて新宿中央公園に向かいました。
この地は寛文7年(1667)に玉川上水から神田上水に向けた助水堀が掘られた場所でしたが、ここには室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられる熊野神社(十二社権現)がありました、その裏手に9mを流れ落ちる滝が出来た結果、この地は夏になると水浴びや納涼の客が集まる様になり、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝して以降、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わいを見せ、文人墨客も多数訪れたと言われています、明治に入ってからも料亭が集まるなど花柳界として隆盛を極めましたが、明治26年にこの地に浄水場建設が決まって以降、環境は一変しましたが新宿中央公園の一角を占める熊野神社は往時のままの姿で鎮座していました。
西口の高層ビル街を抜けて10分程歩くと新宿中央公園です
淀橋浄水所場跡に建つ東京都庁 新宿中央公園から見たビル群 熊野神社入口
新宿中央公園にあった十二社熊野神社の由来を書いた案内
神社本殿
歌川広重の名所江戸百景「角筈十二社熊野神社」
湧き上がる入道雲と地上の間、丹沢山系奥に富士山が見えました。
マンション9階からの眺めです
16倍率のコンパクトカメラで撮りましたが画質が荒くなりました、コンパクトカメラの限界でしょうか
夏の雲と東京スカイツリー
(おまけ) 我が家のベランダに咲く花々です。
朝顔 サザンクロス 桔梗
中山道「板橋宿」
渓斎 英泉「木曽街道六十九次」より
1601年、徳川家康は江戸に入府後、江戸を起点とした街道の整備に着手、寛永元年(1624)に東海道、寛永13年(1636)に日光街道、正保3年(1646)の奥州街道に続き元禄7年(1694)に中山道の整備が整いました。
中山道は東海道と並び江戸と京を結ぶ主要街道です、全長135里32町(534km)で東海道より10里(39km)長く、宿場数は69宿と東海道より16宿多くありました、東海道が西に向かうのに対し中山道は北に向かいましたが、滋賀県草津で二つの街道は一つになり京に続いています。
板橋宿は日本橋から2里、中山道最初の宿場町ですが、平尾宿、仲町宿、上宿の三宿の総称であり、当時それぞれの宿に名主がおかれていました、「板橋」の言われは仲宿と上宿の間を流れる石神井川に架かる「板の橋」[長さ9間(16.4m)、幅3間(5.5m)]から名づけられたと言われています。
天保期の記録では宿場の長さは20町9間(2.2km)、人口2,448人、本陣と脇本陣、問屋場等が置かれ、江戸四宿(品川、千住、内藤新宿、板橋)の中では規模的には最少でしたが茶屋や酒楼、飯盛旅籠も多くあって街道最大の賑わいを見せていました、なお川越街道も板橋・平尾宿を起点としており平尾追分と呼ばれていました。
新撰組近藤勇墓所
慶応4年(1868)新撰組局長近藤勇は官軍により千葉・流山に隠れている所を発見され、この板橋で斬首されました。
現在、北区滝野川に供養塔が建てられています。
墓所には慶応4年に建てられた近藤勇の墓、塔の建立者永倉新八の墓がありました。
板橋駅下車、滝野川口を出てすぐのところに墓所がありました
板橋宿
JR板橋駅から10分程歩くと旧中山道です、道幅は往時のままだそうですが、現在の町並みも下町の風情豊かでお惣菜屋や個人商店が建ち並んでいました。
板橋宿(仲町)入口 仲町通りの風景
観明寺
真言宗豊山派の寺院、創建年代は歴応元年(1338)と伝えられています、江戸時代には板橋宿の寺として多くの人々の信仰を集めていた様です。
明治6年に成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請、今も地元では出世不動と呼ばれて親しまれています。
境内にある稲荷神社は、近くにあった加賀藩下屋敷内に祀つられていた三稲荷の内の一社で、明治になって屋敷跡に陸軍造兵廠が建設される際にこの寺に移されています。
また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月にに造立されたものです。
街道脇に観明寺がありました
加賀藩下屋敷から移築された赤門 庚申塔 庚申塚
本堂 加賀稲荷神社
板橋宿上宿の碑
仲宿の標示 石神井川に架かる板橋、江戸時代は太鼓橋であったそうです
板橋の由来
板橋宿唯一の本陣跡、現在は個人宅の入り口に標示と案内板がありました
平尾、仲町、上町にそれぞれあった脇本陣のうちの仲宿脇本陣(飯田家)、現在はマンションの入り口に案内板が立っていました
高野長英
幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(1804~50)は弘化元年6月に起きた小伝馬町牢屋の火災による切り放しのときに脱獄して逃亡、幕府の厳しい探索を潜り抜けて門人である医師杉村玄洞宅を訪ねています、玄洞は身の危険を感じながらも数日間、長英を奥座敷にかくまいましたが、その後、実兄である医師高野隆仙宅へ逃れさせましたが、長英はしばらくして郷里水沢の老母を尋ね更に江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続けましたが、再び江戸に舞い戻ったところを嘉永3年10月30日白青山町の隠れ家を幕吏に踏み込まれ自害しています。
高野長英が隠匿した「水村玄洞宅跡」の案内板 通りをすぐ入った所に宅跡がありました
街道にあった和菓子屋さん さすが下町、街道に面して銭湯がありました
縁切榎
縁切榎は中山道板橋宿の目印として植えられた樹齢数百年と言われる榎ですが、枝が街道を覆う様に張っていたことから薄気味悪い場所として中山道を行き交う旅人に知られていたそうです、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると必ず不縁になるという「言い伝え」が生まれました、一方において自らは離縁することも許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであった様で離縁を望む人々の信仰を集めたと言われています。
中山道を通って江戸に向かっていた、徳川家に嫁入りする皇女和宮の行列はこの「言い伝え」を知り、ここを避けて板橋本陣に入ったと言われています。
なお現在の榎は3代目の若木で植えられていた場所も若干移動しているそうです。
案内板 縁切榎
板橋駅に向かう途中にあった平尾宿の標示 板橋駅前にあったモニュメント
JR板橋駅に戻りました、遠方に池袋のサンシャイン60ビルが見えます
徳川御三卿
早稲田大学のオープンカレッジで「江戸」の歴史・文化の講座を受講しています。
現在夏休み中の全20回の講座「江戸を読む」と、7月19日から9月13日まで全8回開講中の講座「徳川御三卿」を受講しています、講師は徳川記念財団の徳川恒孝理事長と財団学芸員、大学教授です。
徳川御三家は尾張、紀伊、水戸家で広く知られていますが、意外に知られていないのが徳川御三卿です、八代将軍吉宗、九代家重の時代に将来的にも将軍家が継承される事を目指して創設された田安、一橋、清水家を言います、将軍家の親戚として江戸城内に屋敷を与えられ御三家以上の特権を与えられていました。(皇居の田安門、清水門は屋敷があった場所です)
テキストは昨年、江戸東京博物館で開かれた際に配布された①冊子と毎回講師がつくる②レジメにより進められます。
テキスト① テキスト②
講座が開かれる早稲田大学エクステンションセンターは高田馬場と八丁堀にあり、私は八丁堀校で講座を受けています。
歴史・文化、語学、ビジネス・資格等様々な講座があり受講者は老若男女様々です。
八丁堀交差点そばに教室があります 教室は京華スクエアの3階にあります、1階はシルバー人材センター
講座のパンフレット、大体一クラス30名前後、一般受付が始まるとすぐに一杯となりますが、会員は先行予約ができます